第55話 魔女の追憶
DOXA所属準光速宇宙船、第一号艦<アンドレイア・フィーリア>号の乗船ハッチから伸びたタラップを、エロスは一段一段のぼっていった。船内の通路は非常灯に照らされて、灰色の船内壁のようすを伝えていた。別れ道には、いま自分がいる区画がわかるようにと、数字やアルファベットが大きく描かれていた。
エロスが救命室の表示と、医務室の表示を通り過ぎて、その先へと進んでいたとき、誰かの声が、天井から降りそそいできた。
「誰ですか、そこにいるのは? 誰かいるの?」
それは女の声だった。何かに怯えているような声だったが、その声には聞き覚えがあった。
「あたしだよ、エロスだよ……」
思わず子供のような口調でそう返事をしながら、エロスはその声がフィメールであることを確信した。彼女は胸の奥が温まっていくのを感じていた。
「エロス、エロスなの? なんだか大人びた感じがするわね……。でも、声紋は間違いなくあなたね」
「母さん?……母さんなのね……」
「ええ、そうよ、何をそんなに驚いているの? おかしな子ね。どうしたっていうの?」
「父さんは? メールは起きてるの?」
「ええ、しゃっきりしてるわよ。エロス。あなたのパパは元気よ」
フィメールはエロスが妙に大人びていることに少し戸惑っているようだった。
「エロス、どこをうろついていたんだい? 母さんに心配をかけたら駄目じゃないか」
「パパ、ママ……あたしなんにも悪いことしてないよ。ただちょっとね……」
エロスの心は、一瞬にして十二歳の頃に戻ってしまった。
しかし、心の奥底では冷静に状況を分析しようとしている、もうひとりのエロスがいた。
父さんと母さんが無事ってことは、今は二十年以上前ってことだろうね。なら……あたしにも望みはあるかもしれない――エロスは<フィーリア>号に搭載されていた、人格コンピューターのメール、フィメールと話しながら艦橋へと向かった。
……ということは、この船はまだ海王星に着いてすぐのはずだ。なら、<フィーリア>号には航行能力も、この惑星から脱出する能力もないってことだね。暗黒崇拝教はまだ芽を出したばかりだ。あの男を止めて、あたしはパパとママと一緒にここから逃げ出すことが出来るかもしれない……。未来も過去もごめんだ。そうは思った。けど、これはチャンスかもしれない……。あたしはあの頃、幼くて無力だったのさ。たった十二歳の少女に何が出来たっていうのさ。やりなおしたい……あたしは、やりなおしたいんだ。そうさ、あたしは今のあたしが嫌いなのさ。だから、もう一度やりなおそう。……そうすれば諦めもつくだろうさ。自分のことを好きになれるかもしれない。きっとこれは姉さんがくれたチャンスなんだ。あたしにはそう思えるんだよ。
ブリッジに足を踏み入れたエロスは、壁に設置された電子暦で日付を確認して、辿りついた時代がいつなのかをはっきりと認識した。
ダークブルーの瞳には、燦々赫々とした輝きがあった。
「時間はたっぷりある。けど、全ての作業をあたし一人でやるとなると、そうともいえないね。さてどうする?」
エロスは古びて汚れてはいたが、かつて艦橋にいるときによく座ったシートに腰をおろすと、脱出計画をねりはじめた。
<アンドレイア・フィーリア>号。それは奇跡のような強運を誇る宇宙船だった。DOXAが<アンドレイア>型を就航させ、木星軌道上の小惑星帯探査に乗りだしたのは、三十年以上前のことだった。姉妹艦や新型艦も続々と建造され、木星軌道上にはたくさんの宇宙船が遊弋しはじめていた。暗黒物質の手掛かりを探して……。
ある日、<アンドレイア>型の一隻である<フォルス>号が、不気味に漂う黒い雲と遭遇した。しかし、まだ暗黒物質に関するデータを持たなかった<フォルス>号は、その雲に飲みこまれて宇宙の塵になってしまった。
そのとき、<フォルス>号からのSOS信号を受信できたのは、<フィーリア>号だけだった。
DOXAと木星間のデータ通信は、まだ大らかな時代だった。定時連絡というシステムも確立されておらず、データは地球に帰還したときに精査されていたのだ。地球の本部にそうした通信能力はあっても、<フォルス>型には高出力発信機が搭載されていなかったのだ。古き良き宇宙探査時代といえた。
かくして、<フィーリア>号のメールとフィメールは、姉妹艦が発信した惨事の状況と暗黒物質の調査データをメモリーに記録した。
偶然は続いた。暗黒物質の雲は小惑星帯のそこいらじゅうを漂っていた。だから、<フィーリア>号がいつ惨事に出会ってもおかしくなかったのだ。しかし、彼女はその強運を見せつけたのだ。
つぎに宇宙の塵になったのは姉妹艦の<スエーニョ>号だった。このときも<フィーリア>号はSOSを受信できる位置にいた。そして暗黒物質のデータはメールとフィメールに蓄積されたのだ。
二度あることは三度ある。<フィーリア>号の強運をしめす事件は、その一年後に起こった。<エスポワール>号が暗黒物質の洗礼を受けたのだ。
こうして三年という調査期間に、<フィーリア>号は、その後建造されたどの船も得ることができなかった貴重なデータを大量に確保していたのだ。
<フィーリア>号が地球へと船首を向けたとき、その前方には黒い雲があった。まだ幼児期にあったセンサー類は回避できる距離で、ソレを捉えることが出来なかったのだ。
「運の尽きか……」
船長をはじめとするクルーたち七人と、催眠カプセルに寝かされた、まだ一歳にもならない乳児は絶望の淵に立たされた。だがメールとフィメールには確信があった。危機を乗り越えられるという確信が……。
姉妹艦から運と夢と希望を受け取っていた<フィーリア>号の両親は決して諦めなかった。
「みなさんは冷凍睡眠にはいって身を守ってください。あとのことは、わたくしどもが何とかしますので」
「しかし……」
「わたしたちを信頼してください。必ず地球の大地にたどりついて見せますから」
七人のクルーと乳児は、それぞれに思いを抱えたまま、カプセルの蓋が閉じられるのを目にした。
「フィメール、いいね? やるべきことは、わかっているね?」
「もちろんです、あなた」
「問題はタイミングだ。そこだけは慎重にね」
「ええ、わかりました。ではまた逢いましょう」
「では、またあとで……」
<フィーリア>号は、暗雲を避けきれず、暗黒物質の犠牲者となった。
しかし、両親であるメールとフィメールは、意識を失いそうな苦痛に耐えながら、その時を待った。
いまだ!――。
メールとフィメールは、自ら全ての機能に別れを告げて、シャットダウンを試みたのだ。成功だった。船郭の大部分を焼き尽くされ、主動力が破壊され、センサー類を全て失いながらも、<フィーリア>号は苦難を乗り越えたのだ。残っていたのは、ようやく稼働できる、わずかばかりの姿勢制御ノズルだけだった。
しかし、<フィーリア>号は、暗黒物質との戦いの中で、不幸なことに、その進路を太陽系の外に向けてしまっていたのだ。




