第53話 魔女の郷愁
エロスはもうとうの昔に時間の感覚を失っていた。何度も押しよせてくる眩暈と吐き気に襲われながら、眼前に現れては消えゆく虹色の彩を眺めつづけていた。空間が歪んで収縮したつぎの瞬間には膨張していた。突き上げてくる吐き気を我慢できずに何度か吐いた。悪臭がするはずなのに、それは睡蓮のような気高い香りを漂わせて鼻腔をくすぐった。揺らめく空間にいる不安定感がつづくと、エロスは自分の存在を疑っては独り言をつぶやいていた。しかしそれは言葉にならず、奇妙な音階となったあと悲鳴のような甲高い音になって全身に響きわたった。
突如、目の前が暗黒に支配された刹那、いきなりまばゆい光を感じて瞼を閉じてしまった。だが、懐かしい肉体感覚に気づいて眼を開けると、そこには見慣れた天井があった。胸にはまだムカつきが居座っていた。
「あたしはどこにいるんだい? 今はいつなんだい? 体が重い……鉛みたいじゃないか……」
エロスは状況を把握したくて辺りを見回した。サブブリッジのシステムは異常なく作動しているようだった。
三次元スクリーンにある光が穏やかに点滅していた。
「海王星か……帰ってきたんだね……」
「エロス様、ご無事ですか?」
「平気だ。体が怠くて仕方ないがね……」
倒れたシートに横たわったまま首をひねると、技術官の男がのろのろと近づいてくるのが見えた。
「しばらくお休みください。いま状況を確認しますので」
「そうさせてもらうよ。このムカムカが治まらないと、何もする気にならない……」
メインスクリーンには最大望遠で捉えられた海王星が映し出されていた。
あそこが、凪の海。あのへんが嵐の海だね。ということは……ない……ないじゃないか!……何もないじゃないか! あそこにはアンテナが見えるはずだよ。どういうことだい?
しだいに五感が回復してきたエロスは、技術官がコンソールを操作する電子音を耳にしながら海王星を見つめ続けていた。
「エロス様、どうやら過去に来てしまったようです……」
男の声は重苦しかった。
「やはりそうか……。どのくらい戻ったのか、わかるのかい?」
「……それが、さっぱり……。反重力装置と超光速航行システムのバランスが一定ではなかったようで、正確に読み取ることは不可能のようです」
「…………」
この星は、この宇宙はあたしに何を求めているんだい? あたしに何をしろというんだい? なんだか考えるのが面倒になってきたよ。それに、もうこいつらの面倒を見るのにも疲れてきたよ。一人になりたい……あたしは、一人になりたいんだよ。
「技官、お前が指揮を引き継げ。ここから逃げ出すなり何なり好きにするがいいよ。もう戦争はやめだ。どっちにしろ、今は戦争中じゃないだろう。地球に帰りたいやつは帰れ。海王星に降りたいやつは降りろ」
「しかしエロス様……」
「いいかい、過去に来ちまったってことは、戦争は終わったんだよ。お前たちは自由にしていいんだよ」
「ですが、我々は卿の臣下なのです。今さら自由にしろといわれましても……」
「考えるんだね。自由の意味を。あたしはあたしで考えてみるさ。しばらく一人にしてくれ。下がれ」
「はは! ……御意のままに……」
エロスが最後に下した命令がどんな結果をもたらしたかは誰にもわからなかった。記録やデータはどこにも残されておらず、<カプティエル>の痕跡がその後発見されることはなかったからだ。
サブブリッジから人影が消えて数時間が過ぎたころ、タナトスの香りを漂わせたエロスがそこにいた。熱いシャワーを浴び、栄養剤をうって覇気を取り戻したエロスの姿があった。
よりによってこんな時に発熱ってのはいただけないが、それにも何か意味があるんだろうさ――エロスは火照る体に鞭をいれて装備を整えると、<カプティエル>の昇降ドアを目指して歩みを進めはじめた。エアロック前室で宇宙服を着用したエロスは、迷わずに扉を開放して海王星の大地へとジャンプした。
バーニアの青白い炎が小さくちらついているのが見えた。
たしか昔からあるエアロックはあの辺だね――エロスは過去の記憶を頼りに宇宙空間を進んでいった。
「あった、あれだ!」
腰から伸びた制御レバーで目標を定めると、減速ボタンを押して、エアロックの手前で大地に足をつけた。
「システムは生きてるようだね。しかし、ずいぶんと古いタイプだね……十年は前の型だよ」
自分が今生きている時代の手掛かりを見いだしたことで、エロスの中にあった不安が漆黒の宇宙に流れ出して消えていった。
「開放手順は……こうして……こうだったかな……」
コンソールにあった赤いランプが点灯して、頭上で回転灯がつくりだした光が天井を這いまわっていた。
エアロックを抜けたところで、エロスは大気と重力の制御機器が作動していることを確認して、宇宙服を脱ぎ捨てた。
「どのみち、生きて脱出できるかもわかりゃしないのさ。なら身軽なほうがいいのさ」
払っても払っても湧きあがってくる心もとなさを打ち消そうとしていたのか、エロスの呟きが増えていた。
ここはどこだい? 見たことがある気がするね。この先には……そうか、やはりな……。
「なんてこった、懐かしいじゃないかい!」
それはエロスが海王星に降り立つまで乗っていた宇宙船だった。DOXA所属準光速宇宙船、第一号艦<アンドレイア・フィーリア>号だったのだ。船体の各所は焼け焦げ、かつて外郭から突き出していたはずのアンテナやセンサーは何ひとつ残っていなかった。宇宙を彷徨い幽霊船のごとき姿になりはてた凄惨な姿がそこにあった。
「よくもこんな船でたどりつけたもんだね……まさか……まさか、まだ両親が生きてるなんてことはないよね」
エロスは天啓に弾かれたかのように、傷だらけの船の昇降口を目指した。
「ここだ、間違いない……なんて懐かしいんだ……」
郷愁の念に打たれたエロスは汚れて煤けたドアを撫でながら眼に涙を滲ませていた。
父さん、母さん……生きててくれるといいんだけど……。
そこには、聖戦団のナンバー・スリーだったエロスはいなかった。冷酷な女の顔はなかったのだ。まるで少女のように美しくて純粋無垢な顔をしたエロスがいた。本来のエロス。あるべきはずのエロス。彼女はいま、そういう自分に戻ろうとしていたのだ。




