第51話 数奇なる過去――こぼれた紅茶の葉
その夜、ゼンタとセドナが眠そうな顔をして自室への階段を上ってゆき、シノーペがアインスを連れて二階に姿を消しても、ユピテールはリビングに残っていた。
タラッサとガラティアがキッチンに立って、汚れてつみ重なった食器やグラスの片づけをはじめると、ユピテールは手伝いをしながら、おもむろに口を開いた。
「ねえ、タラさん、ラティさん。明日あさってはさ、ゼンタたちの学校はお休みでしょ?」
「そうね。土日だからね」
「じゃあさ、ハイキングに連れ出してもいい?」
話のきっかけは他愛のないものだった。しかし言葉を交わしてゆくほどに、母親である二人は、ユピテールの声や表情に強い意志があることをそれとなく感じとっていった。
「タラさん、ラティさん、まだ寝ませんよね? じゃ紅茶でも飲みながらお話しましょうよ。あたしの計画を聞いてほしいの」
せわしなくティーカップとソーサーがぶつかりあう音がしていた。
ユピ、なにを焦っているのかしら? まるで今夜じゃないと駄目なの! って勢いね――バイオニック・グラスをしていたタラッサは食器の音をききながら、カーリーヘアーをした娘の手もとを眺めていた。
「わ! こぼしちゃった!」
ユピテールが手にしていたティーサーバーのそばに紅茶の葉がこんもりと山をつくっていた。
なんだか落ち着きがないわね。めったに失敗をする娘じゃないのに。それにあの茶葉の量……。どうみても多すぎるわ――ガラティアとタラッサは、思わず不審顔をして見つめあうと――ユピ……なんだかおかしいわね――と、確認しあっていた。
二人はキッチンのテーブルを前にして、なんとなく決まっている位置に腰をおろすと、ユピテールが口を開くのを待った。
「それでね、ハイキングのことなんですけど、ちょっと遠出をしようかと思って……」
その紅い瞳には決意があった。子供たちを救いたいという信念が、めらめらと燃えていた。ブラックグリーンの髪はちぢれて、陽炎の中で揺らめいていた。細い腕や意思の強い顔立ちは、彼女自身が発している信念の蒸気によって際立たって白く見えた。
ユピテールが話した内容は、最終的にはゼンタとセドナの奇妙な症状にたどりついていた。
「データは出来るかぎり集めたんです。似た症状やそうじゃないかという病気も全部調べてみました。DOXAにあった膨大なデータも、外郭機関から取り寄せたデータも全て検証してみたんです。でも……今のところ原因は不明なんです。一応、対処療法は見つけ出したんですけどね。それで、あたし考えたんです。もうこれはお爺様の智恵を借りるしかないって」
「お爺様? ユピ、あなたにはもう家族はいなかったはずよね? ひょっとして、お爺様ってガデアンさんのこと?」
ユピ、どうしてしまったの……まさかカロンのことでショックを受けて、少しおかしくなってしまったとか……――さすがのタラッサもガラティアも「お爺様」という言葉を耳にしたときは、怪訝な表情を見せた。
「あたしのお爺様は人格型コンピューターの初号機なんです。もっとも今はバベルの塔の地下でお昼寝中なんですけどね。あたしのラスト・ネームはお爺様の名前なんです。ユピテール・オラニエ・ヨハネス。だから、ヨハネスがお爺様の名前なんです。オラニエは父の名前ではないんです。なんとなく付けてみたミドルネームなんです。あたしの家系はオランダ出身らしい。そんなことを知って、オランダ総督家のオラニエ公をいただいて、少しだけ箔をつけてみたんです。いまでは馬鹿なことをした。そう思うんですけどね。そんなものはなんの役にも立たなかった。あたしはあたしだって知っているつもりなんです」
気恥ずかしそうな表情をしたあと、ユピテールは喉の渇きを感じてティーカップを口に運んだ。しかし、濃厚すぎる紅茶の味におもわず閉口してしまった。
「実はあたし……トロイヤとは兄妹なんです。でも普通の兄妹ではないんです。双生児なんです。ですから、あたしも人工体外受精児なんです。なので、このとおりトーヤと同じようにアルビノなんです。色々と手をつくして両親のことを調査したこともあるんです。でも、体外受精法に壁があって結局なにもわかりませんでした」
「…………」
タラッサもガラティアも驚きを禁じえなかった。目の前にいるちぢれ毛の娘が背負ってきた過酷な運命と、その天真爛漫な性格のあまりの落差に目を丸くしてしまったのだ。
それからユピテールはトロイヤたちの小さな部隊に襲撃されて執務室に踏み込まれたこと。お爺様であるヨハネスが自らスリープ状態に入ってしまったこと。ヨハネスの遺言――どうしても儂の助けが欲しくなったときだけ、お前がやれるだけやって、どうしようもなくなったときだけ、儂を頼りなさい、起こしに来なさい――という約束のことを語った。
タラッサにもガラティアにも、ユピテールの願いを聞き入れない理由はひとつもなかった。
「苦労したのねユピ。意外だったわ。あたしはてっきり、あなたはお嬢様育ちだとばかり……」
と、ガラティアが――。
「わかったわ、ユピ。ありがとう。アタシ、心からお礼をいわせてもらうわ。でも不思議ね、ゼンタの希望があなただったなんて。神様は人から奪うだけじゃないのね。今日ほどそれを確信した日はないわ」
と、タラッサが感動と感心をこめた声をユピテールに投げかけていた。
「でもあんまり期待しないでくださいね。お爺様、寝ぼけていて役に立たないかもしれませんから」
これは大変なことになった。思っていた以上に責任重大だ。確かにやってやる! という勢いだけは誰にも負けないつもりよ。でも正直、自信がない部分もあるのよ……――ユピテールは照れかくしするかのように、そういって笑ってみせた。
「もう今夜は遅いわ。今日は寝ましょう。明日のためにね」
三人はティーカップもそのままに寝室へと向かった。タラッサはゼンタの寝顔を見ながら、ガラティアはセドナの寝言を耳にしながら着替えを済ませると、娘の眠っているベッドに、そっともぐりこんだのだった。
充実感と緊張感をかかえたユピテールはなかなか寝付けなかった。だが、いつのまにか深い眠りに落ちていった。
テーブルには失敗作の紅茶がはいったティーカップだけが残されていた。仲良く並んだ三つのカップはその場所で朝日を浴びたのだった。




