第50話 ユピテール天使を抱く
ニクスとシノーペの缶詰生活は続いていた。アインスの身に起こっている異常――先天性定周期型発熱症候群という名称がつけられていた症状の原因を探っていくうちに、そのデータの核心がネバダにあるDOXAの研究施設、バベルの塔にあることがわかった。それ自体は決して不思議なことではなかった。しかし、そのデータが極秘扱いされていたことには首を傾げざるをえなかったのだ。
「どちらにしてもバベルに行くしかないね、シー」
「そうね、でもその前にカロンさんのお悔みに伺うべきよ」
こげ茶色の髪を振り乱して琥珀色の瞳を怒らせるカロン。何事にも真剣だった男。本気でやりあったこともあった。皮肉のこもった冗談を飛ばしあったこともあった。ニクスの脳裏に<アキレウス>号で過ごした日々の映像が、次々に浮かび上がっては消えていった。小惑星L4-2808で味わった極寒の世界と目前に迫った死。暗黒物質……。
「けどね、シノーペ、これは俺たちだけの問題じゃないんだ。君にだってそれはわかっているはずだよ……。俺たちのやっていることは未来に関わっているんだ。カロンのことは……タラには申し訳ないけど、俺にとっては過去なんだよ……。どんなに嘆いても、もうあいつは帰ってこないんだ……」
暗黒物質。アインスの発熱が恐らくアレの影響であることを、俺だって君に話したいんだ……――ニクスはアレを連想させる言葉をシノーペの前では決して口にしなかった。その言葉がシノーペに何を思い出させるかを知りつくしていたからだ。
確信が持てるまでは伝えるべきじゃないんだ。俺はそう決めたんだ。仕方がないんだ。
「わかったわ……。でもあたし、あなたが冷酷な人だってみんなに思われるのは耐えられないの。だから、あたしはバベルに向かう途中でタラッサさんに会いにゆくわ。どちらにしろ、ニューオーリンズは通り道だしね」
「じゃあそうしよう。……べつに一生の別れになるわけじゃない。シー、そんな顔をするなよ」
ニクスにはシノーペの気持ちも痛いほど理解できた。しかし、男と女の間にある壁は高かったのだ。苦楽という感情を優先するか、理論的な理性を優先するか。地球上に男と女が誕生した瞬間からはじまった葛藤が、ニクスとシノーペの心にもあったのだ。
あたしはニクス兄さんに会いたいの。なのにどうしてなの? なんで兄さんは身を隠すようにしてトレドに閉じこもっているの? あたし……もしかして兄さんに嫌われてるの? いいえ、そんなことはないわ。だって兄さん電話でいったじゃない。『君はそうして素直にしているほうが素敵だよ……。俺はその部屋にいる君は好きじゃない……』って。今のあたしはバベルの住人じゃないのよ……だから兄さんはあたしのことを好きでいてくれるはずなのよ――「好き」というたった一言がユピテールの心でリピートされては確認されていた。
「だけど……」
ユピテールはニューヨークにあるDOXA統合本部であるトレドに、まだ出勤できる精神状態ではなかった。だが、それでもニューオーリンズの新工場には毎日出向いていた。目的は情報収集にあった。ユピテールの才能と権力は、すでにどこにいても必要なものを必要なだけ集められるようになっていたのだ。
「もうすぐ戦いになる……それは間違いないわ」
だって、ミマースさんの顔が引きしまってゆくのを見ていればそれぐらいは、あたしにだってわかるのよ。それ以上にラティさんが見せるあの淋しそうな顔……。
「ああ駄目よ……悲しみや感傷に支配されている場合じゃないのよ」
ユピテールは声に出してみたり、黙りこくって考えこんでみたりと、一人思索の海に身をまかせていた。熊蜂が飛んでいるような音で空調が唸っていた。TV電話とデスクと個人用コンピューターしか置かれていない、狭く小さな部屋は蒸し暑かった。そこには秋の気配がなかった。
ゼンタとセドナのことも放っておけない……それにトロイヤ。あいつからの連絡が何もないのも気になるわ……あいつ……気が強そうに見えて、淋しがりやだし脆いところがあるから……。あいつには喧嘩相手がいないと駄目なのよ。そもそも考え方が極端だしね。……あいつ、何してるんだろう?
「あたしは何をすればいいの!」
思わず吐き出されたその声は苦悶に満ちていた。思考があちらに、こちらにと、たゆたっては決断をさせまいとしていることへの抵抗のようでもあった。
ラティさんとタラさんに関しては多分心配はいらないわ。というより、年下のあたしが心配できる柄じゃないのよ。そんなことよりあたし自身がしっかりしないとね……――ユピテールの思考と、記憶のフラッシュバッシュは続いていた。
「だめよ、こんなことしてても何も決められないわ……何かをしなきゃいけないことは、わかっているのに……」
白く華奢な両の掌がデスクに打ち降ろされたかとおもうと、蒸し暑さで紅潮していた額から汗が流れ落ちた。白皙の美しい顔をしたユピテールは立ち上がった。
「散歩よ、散歩にいくのよ。犬も歩けばなんとやらってね!」
われながら思考が単純すぎる――と自分を嘲笑しながらユピテールは部屋を後にした。
「こんにちわー! 調子はどうですかー?――あらそうでしたか……てっきりあたしは……――それはそれは、良かったですね――そんなことがあったんですか。何だか面白いですね」などなどと、ユピテールは工場の中を歩きまわっては、顔見知りと出会う度にそうした人々に時間の無駄を強いていた。しかし、誰一人として彼女の訪問に嫌な顔をする人はいなかった。才能といえた。ユピテールには不思議と人を惹きつける魅力があったのだ。彼女がゆく場所では、眉間に皺を寄せた技師長が人のいいオジさんになり、鬼子母神として名を馳せている経理部長も気さくなオバさんになり、同世代の男女は懐かしい級友との会話を楽しむような光景がつぎつぎと花開いていったのだ。
あたしはやっぱり人間が好き。そうよ、これがあたしの生き甲斐なのよ――ユピテールはデスクのある部屋でこんがらがってしまった思考がとけていく気分を感じていた。
「よっし、今日はこれまで!」
工場一周という視察とも巡回とも暇つぶしとも言えない散歩を終えたユピテールは、スキップでもしそうな勢いで帰り支度をはじめると、そそくさとエアカーのハンドルを握って家路についたのだった。
その夜、シノーペがアインスを連れてタラッサの邸宅を訪ねてきた。
「遅くなって、ごめんなさい。もっと早く来たかったのですが、主人が……」
と、シノーペは渋い表情をして事情を話しおえるとスッキリした顔をして見せた。それからというもの、毎晩開かれているようなパーティーの中心に自分がおかれていることを発見した。
なんて逞しい人達なの。家族でも親類でもないのに、どうしてこんな風になれるの? 友達? 友達だから?――不思議な感覚に打たれながら、シノーペはその夜を楽しんでいた。なにより彼女を救ったのは、タラッサとガラティアが自分と同じ悩みを持っていたことだった。
「え!? そうだったんですか!? あたし……自分とこの子のことしか考えられなくて……」
「あらいいのよ。あたしだってそうだったわ。ゼンタの症状を知ったときには悲劇のヒロインになった気分がしたものよ」
タラッサはそういって笑ってみせた。バイオニック・グラスを耳にかけてアインスを抱くタラッサの表情にはもう影はなかった。それを見つめるガラティアの顔には喜びしかなかった。しかし、ユピテールは違った。
生まれてはじめて赤ん坊を腕に抱いたユピテールはまた違った感情を抱いたのだ。
「やーん……可愛すぎるわー! 神様ってすごいわね。だってこんな愛らしい天使をわたしたちに授けてくださるんですもの――やー笑ってるー!」
アインスは小さな手を開いたり握ったり、ユピテールの顔をぺちぺちと叩いたりして思いのままに生きていることを伝えていた。
あたし……泣きたいわ……。どうしてこんな可愛い子があんな症状に苦しまなければいけないの。この子は一生それを背負っていかなければならないかもしれないのよ……あんまりよ……あんまりじゃない……。
「そうでしゅかー。あーあー、そうなんでしゅかー。うーん、そうでしゅかー。はいはい、わかりましたよー」
我慢ならないわ。あたしはこんな不幸を見て見ぬふりなんて出来ないのよ――その夜アインスを腕に抱いて微笑んでいたユピテールを貫いた閃光は、彼女の心の奥底に何かを生みだしたのだった。




