第5話 月基地の惨状――ダフニスとクロエ
ムーンベースに降下した救護隊の苦難は常軌を逸していた。電子機器による宇宙でのブラックアウトがこうも悲惨な状況をもたらすのかと、隊員の誰もが陰鬱な表情を隠せなかった。
ビームを浴びて焼けただれ、腕や足のない死体。かつてそれが人間の形状をしていたとは思えない物体。宇宙服を着損ねた民間人の干からびてミイラ化した死体が、あちこちに散乱していた。家族が一ヵ所に集まってミイラ化している光景もあった。
赤子は泣き叫んだまま日干しのようになってもまだ懸命に拳を握って泣き叫んでいた。誰もが目を覆うばかりの光景がそこにはあった。
かといって宇宙服を着れたものが幸せだったともいえなかった。生き残ったものの、胸部にある生命維持装置が故障していて、長い時間をかけてじわじわと死んでいったもの。幸運にも何の故障もない宇宙服を着れたものの、周囲の光景に絶望し自ら命を絶ったもの。死者の顔に安穏を見た隊員は一人もいなかったのだった。
上陸後一日が過ぎてもライフラインの復旧は一向にはかどっていなかった。
持ち込んだ機材を組み立て、ようやく医務エリアの一部の機器を稼働させられたにすぎなかった。
「みんな、少し休もう。仕事をしていれば気分は紛れるんだけど、さすがに少し休まないとね」
DOXA派遣軍医となって救護隊に加わっていたダフニスが宇宙服の無線で周囲に呼びかけた。
「クロエ、君もだ」
普通サイズより小さな宇宙服をきた人間は忙しそうに働いていた。
「了解よ。でもね……軍医……。あたし、ここで休む気にはなれないわ……」
辺りには集められたミイラが山のようにつまれていた。
「確かにね……。彼らに罪はないんだけど、なんていうかこう、恨むような羨むような視線を感じるよね……。そうだ、医務エリアのR35は大気循環器が稼働しはじめたそうだ。そこへいこう」
「ええ、わかったわ」
ダフニスはクロエの手を取ってから、二人でタイミングを計ってジャンプを繰り返しながら、R35へと向かった。
無線を聞きつけた数人が後に続いたが、死体に慣れてしまった者はその場に座りこんで、半分に欠けた地球を眺めて、早くもホームシックの症状を見せはじめていた。
R35の前室ドアをくぐると、扉は自動的に閉まってエアロックセンサーが働き、ドア上部のインジケーターが赤から青へと変わった。それを確認したダフニスはクロエの手を握ったまま、ドアを開けた。
部屋には何もなかった。壁に残った染みや汚れが不気味に二人を出迎えただけだった。
奥の壁際までいくとダフニスはクロエとともに壁に寄り掛かって足を投げだした。
「予想以上の酷さね……これまで見た中で最悪よ……」
クロエの瞳には深い怒りと悲しみが宿っていた。
「戦争って惨いのね……艦隊の指揮官にはこうなることはわかっていたはずよ……」
「ミー、ミーが指揮官のはずだ……」
「ちがうわ、ダフ。ミーはやれるだけやったのよ。あたしたちのいた艦隊の司令官よ」
「ああ、戦隊司令か……確か、海兵隊のギュゲスっていったっけな……」
「そう、その人よ。それにあの副官よ。司令の指示がなければ何も出来ない人……あの人のせいで……」
「確かにこれは人為的に起された悲劇だね……それは確実だ。僕らが証人だ……でも、この気持ちはいいようがないな……たとえ千の言葉を並べても伝えられない……」
ダフニスは話題を変えようとした。
「ねえクロエ、君、ヘルメットを外す勇気はあるかい?」
クロエは何かに突かれたように壁から背をはなすと、両手でダフネスの腕を掴んで激しく首を振った。
「そうか。じゃあ僕が見本をみせるよ。僕は医者だ。君にいまお手本をみせるからね。嫌な気持ちを振り払うには空気が必要なんだ。深呼吸がいい例だ」
白いグローブに覆われた手がヘルメットへと伸びていき、やがて反射鏡のバイザーが開かれた。
クロエはそれを見て、自分も反射鏡を開いた。
「大丈夫だ。何も怖くない」
ダフニスは恐怖に震えているクロエのグレーの瞳を見つめながら、ヘルメットに手をかけて持ち上げた。
外したと同時に、これまで体験したことのない異臭に襲われたダフニスは激しく咳き込んだ。
「ゴホ……ゲフォ……フィ……ル……ゴホッ……タ……ー……ゴホ……ゲホッ……」
ダフニスが何を求めているかに気づいたクロエは立ち上がるなり、部屋にあるコンソール目掛けてジャンプすると、赤く点灯していたボタンを手当たりしだいに押し込んだ。
部屋に微かな気流が渦巻き、モーターの回転音が響きはじめた。
「馬鹿ね、ダフ! これを回さないとよ……。とはいってもあたしも気づかなかったけどね……」
クロエはそういいながら、自らヘルメットを外しながらダフニスのもとへと戻った。
「ゲホ……ゴホ……すまない……つい、うっかり……」
「なんて不注意なお医者さんなの。……あたし、あなたの診察はお断りよ!」
アシストフードを外して柔らかい金色かかった栗色の髪を風になびかせながら、クロエは笑いながらダフニスの背中をさすっていた。
「もう……大丈夫だ……」
「そう?」
「ああ、平気だ。恰好をつけるつもりはなかった。これはただの失態だ……素直に認めるよ。嫌な話をしたくなかった。起こってしまったことは元に戻せないからね……」
「ええ、わかってるわ。……でも、おかげでなんだかリラックスできたわ。壁の染み。不気味だと思ってたけど、これ機器が置かれていた跡ね。これなら何も怖くないわ。こういうのはいつも見てきたもの……」
クロエはしばらく、壁にある染みをさすってから、ダフニスの横で膝を抱えて座り込んだ。
「なら良かった……」
「さすがに疲れたわね。安心したらどっときたわ……」
「少し眠ろうか……」
「ええ……」
「でもなんだかもったいない気もするな……」
吐息混じりにクスリと笑うクロエの声が小さく聞こえた。
「ねえ、仔猫の話。憶えてる?」
「もちろんだ。忘れるわけがない」
「あたし、救えたかな……一匹分くらいは……」
「いいや、三匹分くらいは救ってる……」
「そっか。良かった。自信なくすんだよね。こんな悲惨なところにいると。無力感に苛まれるのよ……」
「まだ救えるさ、そのためにも休まないとだ。さあ、少し眠ろう」
「そうね。ありがとう、ダフ」
クロエはそういってダフニスにキスをすると、彼の腕を掴んでさっさと眼を閉じてしまった。
「なんだかそっけないね……ま、いいか……」
そういうと、ダフニスも瞼を下ろして眠りへと落ちていったのだった。






