第47話 男と女――男気と女心
そのブラウンの瞳には怒りがあった。思いが叶わぬことへの怒りが、業火のように燃えていた。栗色の長い髪は掻きむしられて乱れて逆立っていた。整髪料で固められた髪は、まるで白衣の男自身の怒りによって逆立ってしまっているようだった。
「なぜだ! なぜ私がエロスを探しにいってはいけないんだ! どけ! どくんだ!」
「アグリオス様、なりません! あたくしはエロス様からきつく云いつけられているのです。アグリオス様をお守りしろと」
白衣の男はもう長いこと侍従のマレイカと揉みあっていた。小柄で黒い髪をしたマレイカは見るからに非力そうだったが、全身を使ってアグリオスと対峙していた。はじめは、腰の下まである波打った髪の上からスカーフを巻いていたが、そのスカーフは皺だらけになって床に落ちていた。淡い水色のスカーフにはいくつもの足跡がついていた。
「私はやれるだけのことをしたんだ! 高次元砲も完成させたじゃないか。私は宇宙にある謎をこの頭脳で解き明かしたんだ、もう科学で手に入らないものはないんだ! だから、そこをどけ! どくんだ!」
「いけません! あたくしが罰を受けるのです。どうか、ご理解ください。アグリオス様は、あたくしを見殺しにするのですか!?……」
マレイカの凄まじい剣幕に白衣の男は腕に込めていた力を抜いて、黒髪の女の顔に眼をやった。茶褐色の瞳には哀願があった。
「あたくしには科学のことは良くわかりません。ですが……あたくしにもわかることもございます」
「君はなにをいっているんだ? いってることが滅茶苦茶だよ」
話くらいは聞いてやろう。アグリオスの怒りに不審が入りこんで、憤激の火勢が衰えていた。
それでもマレイカには油断がなく――逃がしません! という身構えを崩さなかった。
「あたくしは女でございます。なぜエロス様がマレイカをアグリオス様の侍従になさったのか、おわかりになりませんか!?」
「女であろうと、男であろうと、そんな事は関係ない! 君はただの召使いじゃないか。そうれがどうしたというのだ!」
「落ちついてください、アグリオス様。もう大きな声を出すのはおやめください。お願いですから!」
白衣の男が問うた声も、侍従の女が懇願した声も、しおれて嗄声になっていた。
「いいか、良く聞け! この世にはもともと男と女の間には差などないのだよ。ほとんどの哺乳類はな、受精したときには全て雌なんだよ。昔は男性の精子が持つ染色体と、女性のもつ卵子の染色体が組み合わさることで男女の区別が起こる。そう思われていた。だがそんなものは大昔の話だ。嘘っぱちもいいところだ。受精したときには全ての人間が女なんだよ。そこで受精した胚が分裂していく過程でSRYという遺伝子が働きかけたときだけ、雌が雄になるのさ。そうして男がつくられてゆくんだよ。だから、男は女と何も変わらない。そういうことだ。わかるか!?」
「わかりません! マレイカには難しいことは何もわかりません。ですが、わかることもあるのです……」
「なにがわかるというんだ! いってみろ!」
「女心とか……男気というものです……」
「馬鹿げている……」
アグリオスは呆れた顔をして全身から力が抜けてゆく感覚をおぼえた。
あまりにも会話が噛み合っていない――そうしたあきらめに似たものに突かれて部屋の奥に戻ると、ベッドに腰をかけて、頭を抱えながら考えを整理していた。
――どうすれば、この女に俺の気持ちを伝えられるんだ?……――。
マレイカはそれでも隙を見せずにいた。小動物のように素早くしゃがんで、床に落ちている汚れてしまったスカーフを拾い上げると、視線をアグリオスに向けたまま、乱れた服をなおしていた。
「なあ君……」
白衣の男の声から怒りが消えていた。
「君は男気といったがね。それすらも遺伝子が決定しているんだよ。そのことはさっき簡単に説明したつもりだがね。ようするにさっきいったSRYがその男気を生みだしているんだよ。こいつにはね、まあ面白い部分がある。単なる洒落なんだがね。そのSRY、またの名をPlestMIDのことを『OTOKOGI』と通称することもあるんだよ」
「すみません……あたくりには難しくてわかりません……」
「……まあいいさ…………それより話をしようじゃないか。君が僕のいってることを理解できなくてもいい。……今日はもう逃げ出したりしないから、こっちへきて座りなさい」
「はい……」
マレイカはいわれるままに、アグリオスの側までいくと、そこにあった丸椅子に腰をかけた。
「そういえば君、さっき君は女心といったが、それは一体どんなものなんだね? いや、正確にはね“女気”というんだがね。けど、それに関しては遺伝的にはまだ良くわかっていないんだよ……。話してみてくれないか、その女心がどういうものかということを」
「…………そうですねー……」
長い沈黙のあとマレイカは――
「まず、お姫様でいたいんです……」
といって照れくさそうに笑った。
「それはチヤホヤされたいということか?」
「そうですね。そういう面もありますが、褒められたい。大事にされたい。優しくされたい。大切に思われたい。……そんなところでしょうか」
「我が儘だな…………で、他には?」
「……好きになった人には恰好良くあって欲しいですし、強くもあって欲しいんです。それにユーモアもあるといいですし、自分の前だけでしか見せない仕草なんかをして欲しいんです」
「欲張りだな……で?」
しだいに部屋の空気がやわらいできていた。
「はい……。美しくありたい。理想のスタイルになりたい。そういう気持ちは凄く強いです」
「君もそうなのかい?」
「そうだと思います。ですが、自分の限界はよく知っているんです。人によってはそれがコンプレックスになったりもします。住む場所ですとか服装ですとか化粧ですとか、そうした身の回りのことに関しても拘りは強いですし、そのことで不満が募ることも多いと思います」
「面倒くさいな……それで?」
マレイカの顔からもアグリオスの顔からも、笑みがこぼれ出していた。
「ですが、こうしてお喋りをする相手がいますと、大概の不平不満はあってないようなものなのです」
「単純だな……」
「ご存知かと思いますが、昔からこういわれています。『女心と秋の空』と……。つまり、いま泣いたかとおもうと、すぐ怒ってみたり。昨日まで好きだった人が今日は嫌いになったりするということです」
アグリオスは感心したような落胆したような顔をして感想を漏らした。
「気忙しいな……。なあ君、そんな生き方をしていて疲れないのかい?」
「いいえ、平気です。生まれたときから女ですからね。いま申しましたようなことが普通なのです。もちろん、少しずつそうしたものが積み上げられていって女になる部分もあるのですが、多分そういうものを持って生まれてくるのだと思います」
「なるほどねー……では君は男気というのはどんなものだと思うんだい?」
「それはですね……、多分なんですが、弱い者、虐げられている者に優しくしてやりたい、助けてやりたいということではないでしょうか……」
「ふむ……まあそうだろうね」
「ですがアグリオス様、お話を戻してしまって申し訳ないのですが、女心はもうひとつございます……」
「なんだい、それは?」
「はい…………」
白衣の男とその侍従はすっかりリラックスしていた。マレイカはそれを感じとってか、少し俯いて安心しているようだった。
「それがですね…………」
「ん? いってみてくれ、マレイカ」
侍従は自分の名前を呼ばれたことに感応したのか、ピクリとしたあと――
「愛されたいのです……」
と、顔を赤らめて呟いた。
「アグリオス様……。女というものは、云いつけられたからといって体を捧げられるものではないのです。好きな人でないと触れられるのも嫌なものなのです……」
そこまでいったあと、マレイカは顔をあげてアグリオスを正視してから口を開いた。
「ですが、あたくしはアグリオス様にこの身を捧げることを厭いません……」
アグリオスは小さく嘆息すると、目の前にいる生娘であろう若い侍従を見つめながらいった。
「そういうことだったか……。君が私をとめた必死さはそれだったか……。しかし君、私のどこにそんな魅力があるというのだい?」
マレイカはアグリオスの手をとって訴えるような瞳で語った。
「そんなことはわかりません。好きなものは好きなのです。嫌いに理由はあっても、好きになることには理由などございません。女はどこかしら直感で生きているものなのです……おわかりになって頂けないかもしれませんが……そういうものなのです」
「君はまだ若い……恐らく、恋と愛の区別もつかんだろう。もっとも、この私だってそうだから偉そうなことはいえん。だがね、恋は薄っぺらい。愛には深さと広さがある。そういう言葉を聞いたことがあるんだ。君のいう直感という気持ちだけで突っ走ることがいいことだとは思えないんだ、私にはね……。まあ自分を大事にすることさ。……どちらにしろ」
――エロス……。君は残酷だ。僕のことを知っていながら、こういう娘を側におく。君は一体なにを考えているんだ……。この娘にとっても残酷なことじゃないか……こんな僕を好きになってしまったなら……。きっと、僕には君の気持ちを推し量ることは出来ないんだろうね……遺伝的に考えれば、それは僕にも理解できるというところかな……――。
「マレイカ……今日は下がっていい。もう逃げ出そうとはせんから」
「はい……それでは失礼いたします。何か御用が御座いましたら、遠慮なくお呼びになって下さい」
アグリオスは侍従の言葉を聞きながらサンダルを脱いでベッドに横になった。
しばらくすると、マレイカが部屋の扉を閉じる音がした。
――君は残酷だ……。けど、次の研究の目的が見つかった気はするよ。でもね、君がいなければそこには何の意味もないんだよ……――。
それはアグリオスにとって大きな変化であった。それまで向けられていなかった視線が、人間へと向けられた瞬間だったのだ。しばらく天井を見つめて、あれこれと思索を続けていた白衣の男は、怒鳴りあいと会話の疲れからか、そのまま眠りに落ちてしまったのだった。




