第46話 エロスのゆく道
「エロス様、超光速航行のシステムの修理が終わりました」
「ご苦労だったな……」
エロスにしては珍しいことだった。労いの言葉をかけることが。
「しかし、まだ完全とはいえません。虚数空間に入ることは間違いなく出来ますが、そこから脱出できなくなる可能性があります……」
「そうか……」
すでに一日分の食事を通常の五分の一にまで減らしていたエロスと技術官は、やせ細っていた。かつては体に張り付いていたように見えたインナースーツも、肌から浮き上がり、その隙間には飢餓の空気が澱んでいた。
「仕方あるまい。ここにこうしていても死を待つだけだ。たとえ戻れなくなったとしても、それよりはましだろう……そうは思わんか?」
技術官の顔には困惑があった。命令されることに慣れていたからだ。質問されることに違和感を抱いたのだ。
「どう思うのだ? 遠慮はいらん……いってみよ」
「はあ……」
それでもその男は、何も答えようとしなかった。聖戦団一を誇る「アル・インサーン」団の厳しい訓練を受けてきた男の顔がそこにはあった。
「あたしはね、お前たちが憎くて怒鳴ってきたわけじゃないんだよ。ほかの連中がどうかはしらない。けどね、あたしはあんたらを、ボルトだとかナットだとかって思ったことはないんだよ。あたしのやっていることには理由があるんだ。それが分り辛いのが玉に瑕なんだがね……。まあいい。どう思うかいってごらんよ」
「……そうですね、虚数時間というものは、この時空とは反対の時間の流れでございます。若返るのも悪いこととは思いませんが……」
エロスの顔には満足があった。だがそれは男が服従したことへの優越感ではなかった。男の望みと自分の進みたい方向が一致したことへの慊焉たるものだった。
「で……一応、上手くいくと考えた場合、なにか他に問題はあるのかい?」
「これを問題といっていいのかはわかりませんが、現状のまま超光速航行しますと、反重力装置と航行速度のバランス調整が取れていませんので、虚数空間で眩暈をおこしたり、吐き気を感じると思われます」
「それくらいなら我慢はするよ。他には?」
技術官はしばし黙ったまま、何をどこまで伝えるのかを頭の中で整理してから、話しはじめた。
「不快感への対策としましては、サイキック・ドリンクがございますが、時間感覚の狂いが起こったり、時空の歪みの中に落ち込む可能性がないともいえません」
エロスは少しだけイラついた様子を見せた。
「つまり……どうなるっていうんだい? もう少し分かりやすくおいい」
「はあ……そうですね。通常空間に戻ったときに、未来や過去を見たり、あるいは、エロス様が実際に未来か過去を経験する可能性があるということです」
「てことは、この船がどこの時代に飛ぶかわからない壊れかけのタイムマシーンになった。そういうことだね?」
「その通りでございます」
「少し待て……」
それまで上体を起こして男の話を聞いていたエロスは、倒れた背もたれに体を預けると、窓外の宇宙に目を向けた。
――あたしとしては、どっちを望んでるんだい? 戦争の終わった未来かい? それともまだ戦争が起こってない過去かい? どっちもさして変わらない気がするねー。過去に戻って嫌なことを清算する。それはそれで何だか後ろ向きなのさ……。けど、知りもしない未来に行って何が出来るっていうんだい? その世界が住みやすくなってるとも思えないね。人間なんてものは、そう簡単に変わりはしないからね。暇さえあれば終末論てやつを口にする馬鹿どものいっていることが現実化していたとしたら。……人っこ一人いやーしない。そうなっていることだってあり得る。……ならまだ過去のほうがましかもしれないね。もしも……あの時より前に戻れたら……あたしの人生を全て変えることが出来るかもしれない……。いいや、そいつは無理さ。しょせん、あたしはあたしさ。結局同じような道を歩くんだろうさ……。こうして考えて見ると、戦争の真っただ中にいても、今ってもののありがたみをつくづく感じるねー……。まあいい……――。
エロスは考えておくべきことは考えた――とそう思い、体を横にしたまま男に目線だけを向けて切り出した。
「船を小惑星から離して、超光速航行に入れな。目的地は海王星だよ。いいね!」
「ははー。かしこまりました」
技術官は型どおりの礼を返すと、航法と航路を制御するコンソールのある場所へと移動し、軽快な手つきでデータを入力しはじめた。
と同時に、サブブリッジの床に振動が伝わりはじめた。
「懐かしい感覚だね……。なんだか生きてるってことを実感するよ」
エロスの声に反応して技術官の男が振り返り、少しだけ嬉しそうな顔をして会釈をしていた。
<カプティエル>は小惑星から充分な距離をとると、船全体が光球で包まれた一瞬ののち、光を発散させて星が散りばめられた宇宙から姿を消したのだった。
純白の悪魔が自らの棲家である煉獄に帰ったのか、はたまた天国に迷いこんでしまったのかは、誰にもわからなかったのだ。




