第43話 不可意
ニューオーリンズの北東にある草原の丘に建つカロンの自宅――今ではタラッサの自宅となった邸宅には、暗鬱さしかなかった。昼も夜もその家には灯りがなかった。カロンとともに輝いていた二つの恒星のうちの一つであった、タラッサという太陽から光が消えてしまったのだ。心からの善意でタラッサに視覚という光を与えようとして、かえって光の残酷さを垣間見させてしまったユピテールという若い恒星もまた光を失っていた。
だが幸運なことに、数十年に一度しか見れない流星群ともいえたガラティアと子供たちは、光を失っていなかった。それは、サザンクロスともノーザンクロスともいえた。いや、そうではく、ガラティアはベテルギウスであり、ゼンタはシリウスであり、セドナはプロキオンとなり、オリオン座の三つの星のように、厚く暗い雲をはらいのけて、かろうじて弱い光で瞬いていたのだ。
葬儀への参加以外、ゼンタもセドナも学校を休むことはなかった。クラスのなかに父や母を亡くした級友が何人かいた。だから、ゼンタにしてみれば父親であったカロンが亡くなったということがどういう事なのかは、はっきりと認識していた。生来の強く優しい性格でそれまで友人を励ましてきた立場が励まされる立場になった。思春期のはじまりという敏感な年代にあったこともあろう、ゼンタはそうした天と地がひっくり返るような友人関係に、はじめは戸惑っていた。彼女は、それまで口から出て数秒で消えてしまうという小さな親切――励ましというもに一種の虚しさを覚えていたのだが、それは自分の心持ちしだいで、いつまででもしまっておけて、必要だと感じたときに引き出せるということを知ったのだった。ゼンタにとってそれは、数学や理科より遥かに価値のあるものに思えた。
セドナが抱いた心境はまたそれとは違った。ゼンタと同じように級友たちと交じわることで心を癒していたことは確かだった。しかし、それがセドナを救ったわけではなかった。しばらくは、級友たちの言葉に安っぽい同情や遥かな高みからの憐みを感じとっていた。セドナはそれに強い不快感を感じた。そうした感情を湧かせては一人誰もいなくなった校庭や雑草が伸び放題になっていた体育館の裏に座り、自らの過去を振り返ったのだった。そうして、夕暮れの中でセドナが見つけ出したのは、やはり両親の存在の大きさだった。バベルの搭で高熱を出して医務室に運ばれたこと。母であるガラティアと父であるミマースの前で、一人悶々と苦悩してきた――わたしは普通の人間とは違うのかもしれない……――という不安と恐怖を、両親が嘘一つない笑顔で受け止めてくれたこと。セドナにとってはそれがいかに偉大な行為だったかを学んだのだ。
「誰かの言ってること、やっていることを見て文句をいったり、安易に同情したり憐れんだりするのは簡単なのよ。でもその人のことを認めてあげることは大変だわ……。今のあたしにそれが出来るのだろうか? タラさんの悲しみをそのまま受け止められる? ユピ姉さんがタラさんに渡した眼鏡のことを、あたしは今でも心から喜べるの?」
と、セドナは毎日のように胸奥で一人呟いて、イエスと答えていくことの難しさと、その行為がもたらす安心感や充実感を知ったのだった。
――あたしは何ひとつ間違っていない! あたしの人生に無駄なんてなかった。いいの、今のあたしが本当のあたしなんだから。そして今のあたしを形作ってきた過去だってあたしだし、きっとこれから先、鏡の中に見るあたしだってあたしなんだから――という信念が、一時は破壊されたように見えても、元通りの自分が世界にひとつだけの美術彫像品として再生される。それを継ぎ目ひとつ見つけ出せない完璧さで再生させられるということに気づいたのだ。
「でも、すべてを認めることが必ずしも正しいとも思えないのよ……。悪はどうするのよ? ……いいわ……あたしにはまだママもいるしパパもいる、タラさんだってゼンタだっている。ユピ姉さんだっているのよ。きっと一人くらいは答えを知っいてるはずよ」
セドナはひとつ答えを見つける度にひとつの疑問にぶち当たっていったが、持ち前の謙虚さがそうした疑問を深読みさせることを拒ませたのだった。
「そうよ、だってパパとママたちはこれまでだって、あたしに色々なことを教えてくれたんだもの。それにあたしよりたくさんの事を知っているわ。なら聞けばいいのよ! フフ、意外と簡単だったわ、今回の疑問は。でも待ってよ……。タラさんとユピ姉さんに何かを教えてもらいたいなら、元気になってもらわないと無理ね。うん、そうよ……」
と、そう思いつき、早く家に帰ってタラッサとユピテールを励まそうとして家路を急ぐこともあった。
少女たちが小さな胸を痛めながら必死に笑顔を見せようとしている。ガラティアはそうしたことを見逃すような心の持ち主ではなかった。
――あたしが受け止めてあげなくて、誰が受け止めてあげるの。あたしは負けないわ。決して負けないわ――。
ガラティアはカロンの死という悲嘆にくれるタラッサとユピテールを目の前にしても、それまでと変わらずに接していた。
ユピテールはまる二週間、部屋に閉じこもって一歩も外に出てこなかった。部屋の明りはずっと消されたままだった。ガラティアは日に三回食事を二階に運んでは様子を窺っていた。無理に声をかけることもなかった。手のつけられていない食事を見ても小言ひとついわなかった。ただ黙って生活に不便を感じないように、脱ぎ散らかされた服やゴミを拾い上げて、それまでと変わらない部屋がそこにある。それまでと変わらないわたしが、ここにいるということを静かに訴え続けたのだった。
ある夜には、暗闇の中、床で膝を抱えて細い肩を震わせて小さな声で嗚咽し続けているユピテールの姿を見つけた。その瞬間、走り寄って抱きしめて一緒になって泣きたい衝動に駆られたのだった。
ある朝には、悪い妖精に弄ばれて、一晩眠ないでビデオを見ていたような痕跡――ホラー映画のデジタルパックの山を見つけたこともあった。ある昼には画面の照り返しを受けて青い顔をさらに青くして、虚ろな瞳でTVゲームをやり続けている姿を見つけたりもした。
――いい加減にしなさい!!
思わずにじり寄って、力一杯横っ面をひっぱたいてやりたい気持を我慢できなくなりそうな時もあった。しかし、ガラティアはユピテールを信じたのだった。
――大丈夫。あの娘は絶対に立ち直る。あの娘はそんなに弱くない。そう、強い娘なのよ。思う存分悲しみに浸らければいけない時だってある。それだけのことよ。あの娘がわたしを求めてきたなら、壊れるくらい抱きしめてあげればいいのよ――と。
ガラティアはタラッサの前でもそうした態度を貫いていた。開いた窓から吹きこむ風とそれが揺らすカーテンに頬を撫でられながら、作り途中の人形のように表情のない顔をしたタラッサを何度も見た。
底のないほの暗い穴倉に落ち込んだであろう心境がその顔に現れると、それは見るものを畏懼させる能面を感じさせた。ときには悲しみが宿った不可意であり、老女小町であり痩せ女の表情を伺わせた。盲導犬のルーチェはそうしたタラッサを見ると、彼女の足に体を寄せて座ったり、前足を彼女に触れさせてじっとしていた。
庭にある白いペンキで手塗りされた丸テープルを前にして椅子に座っていても、そこで陽光を浴びていても、タラッサの顔には表情がなかった。
自らの心身を焼き尽くしかねない憤懣やるかたない気持ちに打たれた心情がその顔に現れると、それは、橋姫であり、生成であり、般若のようであった。タラッサからそうした妖気が燻ぶりだされると、花は顔をそむけ、虫や鳥たちは焼けた火撥から逃れようとするかのように彼女を恐れて一目散に逃げ出していった。
夜叉の阿修羅かと見まごうおぞましい怒りを顔に湛えたときには、さすがのルーチェも眉尻を下げて悲しそうに鼻を鳴らすと、助けを求めるかのように辺りを見回すことさえあった。
ガラティアはそうしたタラッサを死に物狂いになって支えた。励ましひとつ届かなくなってしまったタラッサを涙ぐましい懸命さをもって支えていた。それはまさに五里霧中の視界不良の中にあっての暗中模索だった。時には、支えることでガラティア自身が闇に飲みこまれてしまいそうなことさえあった。しかしガラティアは必死に耐えて、ユピテールと変わらず、タラッサを信じたのだ。
しかし、そんなガラティアにとっても、どうにもできないことがあった。トーリの遺作だったバイオニック・グラスを耳にかけたときのタラッサである。全身から、うす気味悪い笑いを発散させ、タラッサには合わないサイズのカロン服をだぶつかせたまま着て、見えない幽霊と踊っているかのように家の中をうろつく物の怪のような姿。カロンの部屋に籠って一日中思い出の品を前に、まるでカロンがそこにいるかのように語り続ける小さく見える背中。バスルームの前で裸のまま鏡に映った背中に残っている傷痕を眺め、腕にある傷に歯を立てて――こんな体にさえならなければ、あの人は死ななくてすんだ――という自責の念に打ちひしがれて泣き叫んいる横顔を見たときには、さすがにガラティアも耐え忍ぶことが出来なくなって、その場から逃げ出してキッチンの裏戸をくぐると、背中を丸めた猫が赤子のような恨めしい声で咽び泣くことを禁じ得なかったのだ。
それでも季節はめぐり、夜が来て朝が来た。ガラティアを内と外から励まし続けたのは、普段は無機質に感じる空気や風、木の葉が擦れあう音、庭の片隅でひっそりと蕾みを膨らませてゆく花たちとの交流だった。
ガラティアはそうした優しい感覚に打たれるたびに、手を胸に当ててただ一言だけぽつりと呟くのだった。
「ありがとう……」――と。




