第41話 法皇猊下
その部屋の天井には灯りがなかった。四周を囲む壁は花崗岩のような黒一色に塗りこめられ、壁一面には年代すらわからない古代のものであろう象形文字がびっしりと彫刻されていた。
床には毛足の長い赤い絨毯が敷きつめられていた。部屋の中央から金糸や銀糸や華やかな原色の糸で織りなされた文様が放射状に広がっていた。そこに描かれたモチーフは、この世のものとは思えない植物を幾何学的にデザインしなおしたものだった。
部屋の奥には腰の高さほどもある、これもまた古代の文字が彫りこまれた段がしつらえられ、その上には身長の二倍はあろう高さの背もたれが聳える玉座があった。玉座には様々な奇怪な姿をした妖獣の彫刻がまとわりつき、座るという機能がまるで考えられていないように見えた。しかし、その座面と背もたれの幅は座った人物にとっては妖獣が気にならないほどの広さをそなえていた。
玉座の両脇には、これもまた金箔が貼りめぐらされた巨大な彫像が聳えたち。その頂部にある無数のガラス玉からは、硬質な明りが玉座を浮かび上がらせていた。上からの照明はそれだけだった。四周の壁が床と繋がっている部分にはチューブが張り巡らされ、近代的な明りが下から上へとその部屋を照らしていた。
玉座には一人の男が座っていた。人間の腕から先を形とった杖を手にしたその男こそ、一代にしてツァオベラー勢力を築き上げた法皇、アル・イブラヒーム・ルッディーン・ハッカーニⅠ世だった。髭をたくわえた中老の男は、もともとそうした名前ではなかった。だが今では昔の彼の名を知る者はどこにもいなかった。長身で中肉の法皇の顔にはこれといった特徴がなかった。しかつめらしさもなく、貪欲さもなく、温厚さもなく、威厳があるわけでもなかった。そこにはただ無表情があった。しかし、人を飲みこむかのような暗く深い紺色の瞳には間違いなく英知があった。
「あの眼は宇宙そのもだ……」
法皇の瞳と、その中で瞬く光をそう評した者もいた。それは、あながち間違いではなかった。イブラヒームはそれまで何度もクーデターや叛旗を翻す連中を、情け容赦なく排除し、粛清し、その位置を保ってきていたのだ。つまり――
「我こそが宇宙の法である」ということをその頭脳と権勢で示してきたのだ。
傍らには、玉座の両脇で絡み合っている裸の男女の彫像よりさらに美しい侍女が、肌も露わにして控えていた。玉座の据えられた台座から一段下がったところには、これもまた彫像に負けない屈強でグラマラスな近衛兵たちが戦闘服を兼ねる鎧の上から裾の長い銀色のフードを重ねた姿で控えていた。
イブラヒームは無表情な顔で傍らにいる侍女の背中を撫でていた。サイドテーブルにはゴブレットの中で泡を立てているサイキック・シャンパンが置かれていた。
「ヒドラめ、遅いではないか。余が待つことを好きではないことは知っておろうに……」
イブラヒームが不機嫌なのを察した侍女が法皇の太腿に手をのばし、もう片方の手でゴブレットを手渡そうとした。
「ふむ……それは後の楽しみにしておこう……。今日は大切な話があるのじゃ。アイシャ、許せ」
アイシャと呼ばれた侍女はつまらなそうな眼でイブラヒームの瞳を突き刺さしてはみたものの、何の反応もないことに憮然としてゴブレットを元の場所に戻すと、イブラヒームの太腿に頭を置いて眠そうに眼をしばたかせていた。
そのとき、耳に心地よい鐘の音が響いて、ヒドラの来訪をそこにいたものに知らせた。
ヒドラは長いあいだ部屋の中を進み、台座の前までくると跪いた。
「遅かったな。お前にしては珍しいこともあるものじゃ」
「大変申し訳ありませんでした。エロスめが行方不明になりおおしまして。少々捜索に手間をとりましたもので」
イブラヒームの表情には何一つ変化がなかった。
「で、ヘルメスはどうじゃ? 箍のはめなおしは上手くいっておるのか?」
「それならご心配には及びません。アメミット神のグラッジ・コントロールに改良を加えて、効果時間の伸延をはかっておきましたので」
ヘルメスは顔を上げることなく話し続けていた。俯いているからか、その声はこもっていて聞き取り辛かった。
「お主や余や、エロス……。生まれながらに怨念の強いものからすればな、無駄な時間よな。で、サウラーの方はどうじゃ?」
「こちらも特別問題はございません。箍はしっかりしております」
「左様か。じゃがな、ヒドラ……」
その瞬間、イブラヒームの瞳で星が瞬いた。しかし、それに気づけたのは、法皇の太腿で欠伸をしていたアイシャだけだった。女は突然真顔になって、法皇とヒドラを交互に眺めやってから、イブラヒームの言葉を待っていた。
「お主たちの戦いは兵器に頼りすぎなのじゃ。今少し、戦術やら作戦を学ばねばならん。我らの資源は豊富とはいえんからな。今はまだよい。だが、艦船の消費は命取りになりかねんのじゃよ。わかるか?」
「…………」
「グラッジ・コントロールに軍事戦略のプログラムを追加せよ。それとな……お主もその辺りをすこし頭に入れておくのじゃ。よいな?」
「おおせのままに」
それまで緊張していたアイシャの顔が柔らかくなっていた。女はイブラヒームの瞳で星が瞬くとき、それが怒りであることを知っていた。それが自分に向けられたものでないことを知って、安堵していたのだ。
イブラヒームの瞳でまた星が瞬いた。
「それからのー、ヒドラ……。アグリオス。あの男の行方はどうなっておるか?」
「それがまだ……一向に居所が掴めておりません」
「どうやら自由にさせすぎたようじゃな……。あ奴には少々の耐性がある。注意しておくべきじゃったなー」
俯いたままのヒドラの顔に苦渋が満ちていた――顔をあげて法皇の表情を窺いたい。
そうした衝動に駆られていたのだ。しかし、それが無駄なことである、ということも充分に知っていた。
「余はな、お主を買ってきた。じゃが失態は好まない。いけすかない女ではあるが、エロスのお……、あの女の戦いぶりには見るべきものがあった……」
イブラヒームの指がテーブルを規則正しく叩く音が部屋に響いていた。
恐怖を感じたヒドラは全身から冷や汗を吹き出させ、顎から落ちた汗の滴が絨毯につくった跡を見つめていた。
「余は退屈しておる……余のいいたいことはわかるか?」
テーブルを叩く音が止まった。
「もちろん、心得ております」
――つまり……退屈凌ぎに法皇自らがエロスの探索に赴く……。そしてその本当の意味は……俺自身の失脚だ……――。
ヒドラの思考は正確に的を射ていた。
「つぎの戦がその時かもしれんな……。そこにいるオルキーがのお……」
そこまでいってから、イブラヒームはゴブレットを手に取って、残っていたサイキック・シャンパンを飲み干した。
アイシャがすぐに香水瓶のような波打つ曲線をしたボトルからシャンパンを注ぎなおしていた。
「……艦隊の指揮をとってみたいのだそうだ」
「…………」
「まあ、お主しだいじゃわな……。話はこれまでじゃ……」
「ははー! これにて失礼いたします。法皇様におかれましては、良き宵を過ごされますことをお祈り申し上げます」
ヒドラは深々と頭を下げると、立ち上がって謁見の間を辞したのだった。
「じゃそうだ……アイシャ……。さあまいれ……待たせたな」
侍女の瞳には何かに憑かれたような恍惚とした炎があった。
「グラッジ・コントロールとて使いようじゃ……。だが、あ奴らにはそれがわからんようだ……」
アイシャにはイブラヒームのいっていることの意味がわからなかった。ただ愛されたかったのだ。
イブラヒームはアイシャが着ていた服の肩紐を握ると、何かを払いのけるかのような仕草をして、侍女を一瞬にして生まれたままの姿にしてしまった。
床に落ちた服と一体になっていたアクセサリーがぶつかりあう音を聞きつけた近衛兵が、壁にあるスイッチを押すと、台座の上から刺繍の施された分厚い幕がゆっくりと降りはじめた。
「余としてはな、そろそろ後継者を考えねばならんのじゃ……。アイシャ、儂のいう意味がわかるか?」
「……法皇様は、あたくしに子を産めと申されるのですか?」
「いいや、そうではない。それではちと間に合わんのじゃよ。……まあよい、今は楽しむ時間じゃ……」
中老の法皇、イブラヒームの精力と活力、そして狡猾な英知は、まだまだ衰える気配すらなかった。しかし、そのイブラヒームにとっても、自らの意思を継ぐ存在を育てるということは、諸刃の剣であったのだ。食うか食われるか。倒すか倒されるか。海王星では星間戦争とはまた違った火種が燃えさかろうとしていたのだ。




