表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
宇宙の新星人たち【本編(3)】  作者: イプシロン
第3章 暴走する者たち――その末路と未来
38/80

第38話 精神崩壊

 ヘプタゴンの総帥であり地球軍の総大将であるムーシコフ参謀総長から、矢のような新兵器開発の要請を受けていたトロイヤの精神は崩壊寸前だった。それ以前にバベルの塔に送られてきた、「第二次ケレス星域会戦」「火星宙域会戦」のデータを閲覧していたころ、トロイヤはその凄まじい記録映像を見て、何度か卒倒をおこしていた。いや、そうではなかった。もちろん戦争の惨禍に改めてショックを受けたことも確かだったが、原因は他にもあった。体力の喪失である。

 トロイヤの生活には、それまでも慢性的な運動不足の影はあったが、執務室に閉じこもってからというもの、その問題が急速に表面化したのだ。筋肉は張りを失い、痛んだリンゴのようになっていた。皮膚のつやは失われていなかったが、内側には()がはいり、ぐずぐずになっていたのだ。必要な栄養分を自ら拒否した影響もまた大きかった。弛緩した筋肉の中を流れる血液は汚れて粘着質になり、なんとか退路を保とうとするかのようにのたうっていた。

 トロイヤはすでに失われていた時間や日付や曜日の感覚を持たないまま、虚ろな瞳でコンピューターのモニターを眺め続けていた。体に痛みを感じると不自然な姿勢をとってその痛みを逃がしては、右手にある二本の指先だけを動かしていた。時おり、思考の中枢をつくデータを見つけると、衝動に駆られたかのようにキーボードに両手が伸ばされ、獲物を狙うチーターのような疾走感で画面に文字を弾きだしていた。それでも、トロイヤの胸奥では――まだ何かできることがあるはずだ……――という、消え入りそうな小さな灯火ともしびがチロチロと貪欲に舌を伸ばしていた。その舌先がなにかに触れたときの青白い顔は死肉を漁る餓鬼のようであった。

 ただでさえ日光浴といったことには程遠いアルビノの青年の白い肌は、青さを増す一方だった。いや違った。そげ落ちた頬からは影が落ち、窪んだ眼窩の周囲には青黒い隈が張りつき、その上から顔一面に土気色の蜜蝋を塗りたくったかのようになったいた。

 銀白色の髪は汚れて暗い灰色だった。油脂が染みこんで塊りになった房は硬直して、数日前についた寝癖すら直ることはなかった。

「このデータは使えるかもしれない……。そうだ、たしか関連したものが、アーカイブにあったはずだな」

 トロイヤはすっくと立ち上がったつもりだった。だが、その瞬間、伸びきっていない膝に強い痺れ感じ、いきなり視野に闇が舞い下りてきたかとおもうと、暗幕に無数の星が瞬くのを見た。と同時に全身から力が放出されつくされ、意識がすっぽりと無くなってゆく感覚のなかで床に頽れていた。気絶していたのは数秒だった。しかし、トロイヤは自分が何処に倒れていて何をやっていたのかを、ゆっくりした手順で思い出さなければならなかった。

 人が生きてゆくなかで叫ばれる5W1Hを一瞬で忘れることには強い恐怖があった。ある時には、

 ――このまま自分が誰だかわからなくなれば良かったのに……――と、生への諦めと安堵の入り混じった暗闇のなかで、星の瞬きが治まるのを待ち、時には、

 ――自分が何者なのかを見失いかけたことに底知れぬ恐怖を感じて涙を滲ませていた。

 ある日、忘れかけていた卒倒に突如襲われたときなど、瞼をあげた刹那、倒れていた床置きハンガーの尖ったフックの先端が目の前に見えたこともあった。

 トロイヤはそのとき湧きおこった感情を忘れ去ることができなかった。どうしても記憶から消すことができなかったのだ。

 ――もう少しうまく倒れていれば頭か目に刺さって、死ねたかもしれない……。そうでなかったとしても、見たくもないものを見ないですむようになれたかもしれない……。でも、こんなところで人知れず死んでいくのは厭だ……――と感じながら、そうした狂気を沁み出させる自らの心に、何よりも恐怖した。

 それからというもの、トロイヤが椅子からすんなりと立ち上がることは無くなった。老人のように腰と膝を曲げたまま椅子から離れると、鬱血した両膝を力任せに殴りつけて、渋滞を起こした幹線道路の交通整理をすることが習慣になってしまったのだ。

 着古されて垢まみれになった服もまた酷かった。肌と接する部分は黒ずみ、その逆に服にある鋭角的な部分が接した肌からは、こびりついていた垢が剥ぎ落とされ、肌に縞模様を描きだしていた。完全に温度調整がなされた部屋にいても、悪夢にうなされることで、寝汗をかかない日はなかった。そうした汗と皮脂は、何度も何度も衣服の同じ部分に沁みこんでは生地の柔軟性を奪ってゆき、ある日突然悲鳴のような音を立てて破れた。

 何よりトロイヤを悩ませたのは、異常なまでの記憶力の低下だった。それまで几帳面に整理され、蓄えられていた基礎的な数式や人の名前を思い出そうとしても、一日かかってもその片鱗すら引き出すことができなかったのだ。ライス、パン、ジュース、ティッシュ、シャツ、パンツ、タオルなどなど、生きるために最低限必要なものの名前以外はすらすらと口にすることすら出来なかった。そのくせ、トーリやハウやエリス、グリークの顔、そしてユピテールへの淡い恋心だけは簡単に思い出すことができた。しかし、そうした感情はトロイヤの中ではすでに険悪なまでの憎悪になり変わりはてていた。

 ――何も見たくない……何も思い出したくない……何も考えたくないんだ……。思考なんて止まれ。とまってしまえばいいんだ!――。

 考えることをやめようと、キーボードに向かうと、伸び放題になっていた爪がカツカツと音を立てて、彼の思いを遮った。

 ――くそーっ!――。

 たまらず抱えた頭は脂ぎった感触を手に伝えて、その手を弾き返した。仕方なく、頬杖をつこうとすればそこには無精髭と痒みがあった。

 ――ちくしょうーっ! ちくしょう、ちくしょう!――。

 怒りに支配されたくなくてソファーに転がり込む。だが、もうトロイヤにはそこすら安住の場所ではなかった。眠ろうとすればするほど脳は冴えわたり、脈絡のない空想と思考が駆けめぐり、声も漏らさずに黒魔術の呪文を口にしているように唇が動いていた。痛みと倦怠感を瞼の奥に感じながら、眠れない苦痛に耐えかねてソファーにその身を起こすと、とたんに睡魔が彼を襲った。

 ――なんだっていうんだ! 寝ることを許さないというなら、眠くなるな! 眠くなんか、なるんじゃない!――。

 横になっては起き上り、横になっては起き上る。何度かそうしたことを繰り返したあと、トロイヤは諦めて執務机の前に戻るのだった。

 ――もう限界だ……もう僕には何の力もない……。何もかもどうでもいいんだ……――。

「誰か僕を殺してくれー!!」

 悲憤に突かれるまま、そう叫んだかとおもうと、つぎには濁りきったスミレ色の瞳に狂気を湛えて――

「みんな死ねばいいんだ! 死んでしまえばいい……みんな死んでしまえ!!」

 と、喉が擦り切れたような、乾いてかすれた声で言葉を吐き出すのだった。

 ――もう……本当に無理なんだ……――。

 トロイヤは決意した。いや、そうではなかった。トロイヤにとってそれは遺言を残すことに似ていた。

「僕が人間としての人格を失わないうちに、どうしてもやっておかなければならないんだ……。例えその結果が何を招こうとも……」

 トロイヤは夢遊病者のようにひとり部屋の中を幽鬼のごとく歩きまわって、デスクの上に書類とデータカードを積み終えると、抽斗から何も書かれていない紙を取り出して、ペンを握った。

 その紙に書かれた文字には、かつてIQ200を誇った天才青年の面影は微塵もなかった。


こんごの決つうだんは君にまかせえるよ、ユーピテール

もう君のなまえのスペルさあえ、わすえてしまつたみたいだ

ごめんねゆぽてーる、ぼくうお許うてくだたい


とろいや


ついしん

じいーやとおぢいー様によおしく伝あえてくたたい

あ、そえから、グリのことわ、よおしくお願ひしあすね

ボクわパパとママあのとこおにいきます


 残っていた命の灯火を燃やし尽くして、眠りに落ちていったトロイヤは夢を見ていた。

 きらきらした太陽の日差しを受けて優しく微笑むハウとエリスの笑顔。傍らではトーリが心配そうな眼差しでこちらを伺っていた。

 顔を前に向けると、砂を巻き上げてカニを追いかけるグリークの小さな背中が見えた。風と潮騒の音が聞こえていた。

 ――これが本物の海か……地球の海か……。初めてなのに、なんだか不思議と懐かしい感じがするな……――。

 握った右手の拳から親指だけを上に伸ばしてトーリに見せると、トロイヤは爽快な気分で地球の海と大地に一歩を踏み出したのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ