第31話 トレドの女神
ユピテールは変わった。ニューヨークの高層ビル街にある、DOXA統括本部にもどってから、ユピテールは変わった。トレドと呼ばれる近代的高層ビルは、ガデアンとともに彼女が幼少から少女時代を過ごした場所であった。かつてユピテールを近所の子供や、妹のように可愛がってくれた従業員の大半は、職場をさっていた。ともすれば、彼女の才能に嫉妬して敵視する人もいた。反撥する従業員もいた。だが、トロイヤという変わり者と過ごした十年以上の月日が、ユピテールを成長させていたのだ。甘い顔を見せたり、痛いところを突きながら微笑んだり、屈託なく部下の手柄を褒めたりと、あらゆる障壁を越えて彼女は自分の居場所をつくりあげていった。ユピテールの見事な振る舞いは、それまで湿っていた導火線が乾き、爆発するように花を咲かせていた。彼女は荒れる大河をスイスイと泳いで楽しんでいるようでもあった。多くの人が彼女の影響をうけた。ユピテールが立てた波や水飛沫は太陽の光を含んで輝き、周囲の人々に自然と潤いと温もりを与えていったのだ。
ガラティアとタラッサは、夫たちの不在や子供たちのもつ共通点から、しばらくの間カロンの自宅で共に過ごすことを決めた。ユピテールは、ここがチャンスとばかりに、彼女もまたカロンの自宅でお世話になることを選んだのだった。
トレドの執務室にいても、カロンの自宅にいても、ユピテールの周囲にはいつも誰かがいた。それは、それまでとはあまりにも違う環境であった。だが、彼女は側で萌えだす草花を摘み取ることもなく、水やりをしていくなかで、何度も新しい自分を発見したのだ。ニューオーリンズとニューヨークを往復する通勤も決して楽なものではなかった。しかしユピテールは自らエアカーのハンドルを握って、朝日を浴びて微笑んでいる景色を車窓から楽しんだり、夜の街で買い物をしてゼンタやセドナにおみやげを持ち帰っては、少女たちの笑顔で疲れを癒していた。
「今日はゼンタの誕生日だわ! じゃ、仕事はとっとと片づけないとね!」
そう口にしたかとおもうと、特急列車のような走行音をたてて仕事を終わらせて、誰よりも早くトレドを後にしたこともあった。
カロンの自宅に戻って夜が更けてくると、階段を駆け上がって自室にこもり、一人机にむかって医学と医療の分厚い本を開いては、ともに暮らしている少女たちが苦しんでいる症状の改善のために、明け方まで机にむかい続けることもあった。
扉をノックする音がして、ガラティアが姿をみせた。
「ユピ、また今夜も勉強してたの?」
「ラティさん……もしかして、物音で起こしちゃいました?」
「ううん、そんなことはないわ。どうせこんなことだろうと思ってね、差し入れをもってきたのよ」
「やだー嬉しい! さ、はいって、はいってー」
部屋はデスクライトとベッドランプだけが灯り、薄暗かった。
ガラティアは丸く小さなテーブルに紅茶と差し入れが乗せられたトレイをおくと、椅子に腰をかけた。
「なになに……それは? カステラかしら?」
お腹が空いていたのか、ユピテールは身を乗り出して、小皿を覗きこんでいた。
「ココアのマーブルケーキよ。何かお腹にたまるものがいいかとも思ったんだけれど、もう夜も遅いからケーキを少しだけ切ってきたわ」
「いっただきまーす!……ふんむ……美味しいわ!」
「あらあらまあまあ、あなたったら、子供みたいね……」
ユピテールはココアの甘さにガラティアの優しさを感じていた。
「まあなに? 家庭の医学?」
細いちぢれ毛の娘を心配するガラティアは、たまにこうしてユピテールの様子を見にきていたのだ。
「あのね、トレドの秘書の息子さんがね、このあいだ熱を出したのよ。それでとりあえず買ったの」
「遠慮せずに電話をくれれば、少しは役にたてたのに……」
「そっか! その手があったんだ! あたしすっかり舞い上がってたから……その子いつも元気なのよ。もういい加減にして! ってくらいね。ほら、うちの会社って保育施設もしっかりしてるじゃない……けど、今は人手不足なのよ……」
「で、あなたが?……」
「うん、そう……頼りない保母さんなんだけどねー……」
そういってユピテールは恥ずかしそうに笑った。
「ユピ……あなたは若いし頑張れるときに頑張るのは良いことだと思うわ……。でも体を壊すまで無理しちゃ駄目よ……」
ユピテールは嬉しかった。女親をしらずに育った彼女には、ガラティアの愛情が嬉しくてしかたなかったのだ。
「大丈夫、大丈夫。あたしこう見えて結構頑丈なのよ。紫外線にはめっきりだけどね……」
「大変ね……小さな頃からずっとでしょ?」
「うん。でももう慣れてるわ、そんなことにわ。エアカーも何もかもUVカット仕様。昔はね……あたしが動くたびに周りはてんてこまいだったわ……お気の毒様ってくらいによ……」
「バベルにいた頃のユピって……自分のことしか考えてないのかしら? 正直そう見えたわ……。この子には周りが見えてなさすぎるって……そう思ったのよ……」
ガラティアはユピテールをしみじみと眺めながらそういった。
「……残念でした……意外とそうでもないみたいですよ……」
「あはは……」
「バベルってね……人をおかしくするの……そういう空気があるのよ、あそこって……。足を踏み入れた人をおかしくさせる……人を狂わせる……そんな気がするわ……」
「あるかもしれないわね……何か人を寄せつけない冷たさがあったわ、あそこにわ……」
ユピテールは決して専門的な参考書を部屋に持ち込まなかった。ゼンタたちのために調べたデータは、全てトレドの個人用端末に詰め込んで整理していたのだ。そのデータは日増しに増えていった。だがユピテールは、ガラティアやタラッサにはそうした姿をこれっぽっちも見せなかったのだ。それはかつて、病弱だった自分にガデアンがしてくれたことそのものだった。
女五人の生活。それがいつまで続くのかは誰にもわからなかった。しかし、いつの日か自分はここを去らなければならない。ユピテールはそれを知っていたのだ。戦争という非常事態が生んだ、彼女にとっては楽しい時間もいつかは終わる。そのことを一番知っていたのは誰あろう、ユピテール自身だったのだ。
トロイヤとは音信不通になったままだった。だが、トレドでも戦争の趨勢を知らせる情報が、日々更新されていたのだ。




