第26話 停止された時間
「トーヤ……あたし……ニューヨークの古巣に戻るわ……」
「…………」
「でも、あたしは逃げ出したりはしない……。必ずいつかここに帰ってくるわ……」
ユピテールはそれだけいうのがやっとだった。しかし、彼女は打ち砕かれた硝子の欠片となっても、その硬質な輝きを失わなかったのだ。だが、部屋を去る足取りは鈍重で、まるで溶けかけた鉛のようだった。何度も転んでは立ちあがり転んでは立ち上がり、壁と柱を支えにして、泥沼のような執務室の床を必死に蹴っては、巨大な扉に据え付けられた小さなドアに向かったのだった。引き裂かれた服と脱げ落ちた片方のハイヒールだけを残して……。
トーリの死は、彼を知る様々な人の耳に伝わり、声を通じて、乾いた大地に水が沁み込むように知れ渡っていった。戦争という渦中にあって家族や友人を失っていた多くの人々は、死というものに怒りや怨嗟の言葉を吐き出していた。だが、トーリの死は、それとはかけ離れた感情を人々の心に吹き込んだのだった。それは清水のように湧きあがり、たゆみなく透きとおった哀悼の潮流を生みだしたのだった。
「わたくしの定期健診などどうでもよかったのです……医者よりも優秀なトーリさんの側にいながら、わたくしはそんなことにさえ気づけなかったのです……」
ことにガデアンとトロイヤの傷心ぶりは目にあまるものがあった。トロイヤは立場ゆえ喪主を務めたが、葬儀の間じゅう傍らに寄り添ったSPの支えなしでは立っている事さえできなかったのだ。葬儀委員長となったハウとエリスの苦衷もまた深かった。男も女も老いも若きも、トーリの死を心から悼んでいた。祭壇に飾られたまだ仔犬時代のルーチェを不器用に抱きかかえて微笑む遺影は、彼を知るものをして涙なしには見上げることができなかった。
ロボペットの開発にはじまり、視覚障害者と介護機器の発明で得た特許は、数百件にのぼっていた。そうした企業や団体の関係者も多く姿を見せていた。
「彼はね、家の製品のために寝る時間すら惜しんで設計してくれたんだよ……」
トーリの生真面目さは心臓に負担をかけていた。それが原因で彼を若くして天国へと旅立たせたのだった。
「彼は軍とのコネを使って、それを民間にフィードバックしてくれたのさ。高性能で安価で取扱いやすくて壊れにくい。そういう良い製品が一気に社会に行き渡ったのは彼のおかげさ……」
すでに軍ではやっかいもの扱いされていたものに、トーリは光をあてたのだ。その一例がHULC(Human Universal Load Carrier)と呼ばれるパワー・アシスト・スーツだった。トーリはここから発想を飛躍させ、中枢神経から意思と反射の経路をわけて、自らの思いに従いつつ条件反射さえこなす、軽量のコルセット型介護機器を開発中だったのだ。と同時に、切れた抹消神経を繋いだり再生する高性能シリコンチューブも実用段階に入っていたのだ。なによりも注目されていたのは、DOXAの機密でさえある、人格型コンピューターの原理を応用して、再生不可能といわれていた中枢神経の蘇生に見通しをつけていたことは驚異的な実績だった。
彼のたどたどしい文字の書かれたノートには、まだまだ沢山のアイデアが書きこまれていた。人々はトーリの意思を引き継ごう。そう話しあって数年後にはトーリアン財団を設立したのだった。夢は必ず叶う。それを実現するという強い信念と、それを受け継ぐ人材さえ育てあげれば。トーリはその身を殉じて、そうした精神的遺産を残していったのだった。
葬儀を終えてバベルの塔に戻ったトロイヤは、身も心も年老いた桜の幹のように捩じくれてひび割れ、黒々とした霧に包まれたように陰々滅々としていた。それから数日の間、彼はデスクに向かってただ茫然と虚空を見つめては、ガクリ、ガクリ、と体を震盪させていたのだった。
――いくらなんでも急過ぎたわね……あいつにとってここは正念場よ……生きるか死ぬか……そういう思いになるしかないのよ……――。
ユピテールはトロイヤへの憎悪と嫌悪に駆られながらも、トーリの残した個人宛ての書類を届けるために奔走していた。オーランドからニューヨークへ、ニューヨークからバミューダへ、バミューダからニューオーリンズへと飛ぶと、夏草が生い茂る丘の上に建つ一軒家を目指したのだった。
「いらっしゃい、ユピテール」
「タラッサさん……あたし何ていったらいいのか……」
「……ユピ姉さん……」
ゼンタとタラッサに迎えられたユピテールは、それまで張りつめていた気持ちがふっつりと切れてしまったのか、玄関でおいおいと泣き出してしまったのだ。
その声を聞いたタラッサは本能のままに彼女の体を抱きしめていた。
「大変だったわね……本当にご苦労様……。あなた一人がこんなに頑張って……いいのよ泣いて。辛かったでしょう。苦しかったでしょう……ねえ、ユピテール……辛かったわね……」
ユピテールはタラッサの柔らかい胸に抱かれて、初めて女親の温かみというものを味わっていた。
「あたしには……ずっと母さんがいなかったの……あたしね……誰にもこうして抱いてもらったことがなかったの……」
タラッサはしゃくりあげるユピテールの頭を優しく撫でながら、持てる愛情の全てを注ぎこむかのように頬をすり寄せて、一緒になって涙をながしていた。
二人の姿を放心したように眺めていたゼンタがその輪に加わった。
「ママ…………あたし、ママのこと信じる……あたし……幸せだったんだね……」
タラッサの腰に腕をまわしたゼンタもまた、大粒の涙をぽとぽとと零しては母の背に塩辛い染みを作ったのだった。




