第10話 スペランツァ号宇宙へ
フロリダの空は抜けるように高く青かった。雲ひとつない蒼穹に向けて金色の船体が制御台の力をかりて立ち上がろうとしていた。DOXA宇宙センターにその巨体を見せた<スペランツァ>号は綺麗に洗浄され、最新型の各種装備の搭載を終えていた。あちこちにバルジの膨らみがふえて、かつて誇った流線型の洗練された船型はいくぶん影をひそめていた。しかし、それは細面だった青年に貫録がついて、堅牢たる男児に成長した姿ともいえた。
「シノーペ、頼むから子供が生まれるまでは地球にいて体を気づかってくれないか」
「いいえ、それはできません。あたしの人生はあなたと共にあるのです。それに――」
「それに?」
ニクスは自分が我がままを言ってることを承知して俯く時間が増えていたシノーペの頬に両手を添えると、彼女の瞳をまっすぐに見つめながらが、シノーペが口を開くのを待った。
「それに、どこにいても同じなのよ。赤ちゃんにとっては。あたしは信じるわ。この子の生きようとする力を。生まれ来ようとする力を」
シノーペは心がまっぷたつになるような痛みを感じていた。彼女の打ち震えているような瞳は潤んで懇願しているようだった。それに気づいたニクスはもう一度おなじ言葉を繰り返して、彼女の声を待った。
「それに……それに……」
シノーペは必死に考えた。頭が朦朧として白くなりそうなほど考えた。ニクスが何を求めているのかを、ひたすらひたむきに考えた。
「それに……」
――わからないわ、ニクス……あなたの求めていることが……それに……
「それに…………」
ニクスは今にも泣き出しそうなシノーペの碧眼を見つめて、じっと言葉を待った。
そのとき、シノーペの脳裏に<スペランツァ>号の病室に並んで寝かされている自分たちの姿が浮かび上がって、誰かの声が聞こえたきがした。
――誰? 誰なの? あたなは誰?
「……それに、それに……」
――!!
「そう……それにね……あたしが赤ちゃんを生むのに最適な環境はこの船にあるのよ!」
シノーペが最後に放った声は叫びになった。
「そうだよ。俺はそれが聞きたかった。誰よりも君自身の口からね。君がまず自信を持たなければ、宇宙で出産なんて出来るはずなんてないんだ。そういうことじゃないか」
ニクスはそういうと、シノーペを強く抱きしめた。
「ニクス、あたし負けないわ、決して自分に負けたりしない……やるわ。必ず無事に産んでみせるわ」
二人はしばらく抱き合ったまま、フロリダの溢れんばかりの陽光を浴びていた。
それからいくばくかして、ニクスとシノーペはエレベーターに乗って赤茶色の鉄塔を登り、船に乗り込んでいった。
「しかし、この状態は不便だね。何もかもが九十度傾いている。この打ち上げ用エリアがなかったら一体どうなることやら……」
「そうね、<スペランツァ>号の日常を知っていると、まるで違う船にいるみたいな気分になるわね」
「ああそうだ、出発までは時間がある。ちょっと電話を入れて置こうかな」
ニクスは隣に座ったシノーペの手を握りながら、衛星電話を秘匿回線のモードに入れると、ボタンを押しはじめた。
バベルの塔の執務室にはユピテールの姿しかなった。トロイヤは軍との打ち合わせで席を外していたのだ。そのトロイヤの席の電話が鳴った。
「ん? 誰かしら? とはいってもー……まあいわ。あたしが出ても問題はないでしょ。ホットラインじゃないみたいだしね……」
ユピテールは床を蹴って椅子を回すと、部屋の中央に置かれた執務机にある電話の受話器を取った。
「はい、もしもしー?」
「ん? ……ああ、君か、ユピか!? トーヤが出るのかと思ってたから……。俺だ、ニクスだ」
「ええ、わたしよ。ユピテールよ。何かご不満ですか? ニクス兄さん」
「いいや、そんなことはないよ、我がままプリンセスさん」
「ふふふ……」
「いや、たいした用事じゃーないんだがね、これから<スペランツァ>号の試験航行に出るんだよ。だから、念のためにトーヤに伝えておこうかと思ってね」
「どうして? なぜ兄さんが行くのよ? 誰か他の人にやらせればいいいじゃない。危ないわ、そんな航海……」
「航海か……なんだか懐かしい響きだね……」
ユピテールの胸は、ニクスの飾らない声を聞いて、半ばときめき、半ば狂おしさに喘いでいた。
「あたし、こうみえて世間知らずだし、古風なのよ。ほら……あたしの教育係、憶えてる? 爺やよ。ガデアン。あの岩窟爺様とずっと一緒にいたからね……」
「ははは……。ユピ、君はそうして素直にしているほうが素敵だよ……。俺はその部屋にいる君は好きじゃない……なんでかわからんがね……」
――え? なんで? どうして?
ユピテールは自分を顧みては、ニクスの言葉をどう受け止めるべきかと激しく動揺していた。
「まあ、用件はそれだけなんだ。どっちにしろ、宇宙に出たところで通信はこの電話のように不自由しない。また連絡をいれるよ。じゃあまたね。トーヤによろしくね」
「待って、まって兄さん! ……ねえ、ねえってばー…………」
電話は切れていた。規則正しい電子音だけがユピテールの耳をうっていた。
――なんでよ……どうしてみんなしてあたしの心を揺さぶったままにするの……酷いわ……どうしてあたしばかりこんな目にあうの?……ここにいるあたしはあたしじゃないの?
耳に圧力を感じて、ようやく受話器を戻したユピテールは、ひとり窓の外を眺めて、見えない<スペランツァ>号を探していた。
――でもあたしは負けないわ……ここには、あたしにとって大事な人がいるんだもの……。だから負けられないのよ……何があってもね……。見守っていてね……お爺様。
船首に赤いチューリップと風車の描かれた、黄金色の<スペランツァ>号は、その日宇宙へと旅立っていった。夕暮れ迫るフロリダの、オレンジ色の空にひと筋の航跡を残して……。




