それは始まる2:1の関係
未完で文章の短い作品ですが、これからも書き綴っていきたいと思うので、暖かい目で見てやってください。
感想などいただけたら、反省や励みになりますので、よかったら書いてください。
では、また後書きでお会いしましょう。
PS.登場人物の名前には共通点があります、話を読むのついでに考えてみてください。
神崎高俊は今の状況を把握するのに、頭の中を整理する必要がある、そんな風に考えていた。
彼は今では物置となっている、旧校舎の図書室に文化祭で使う道具箱を取り来た。
(そう、それがここに来た理由だ)
しかし、扉を開けるとそこには制服を着崩して本のベッドの上で寝そべって本を読んでいる、癖の強そうな長い黒髪の女子生徒がいた。
(いや、それなら別になんの問題もない、ただのオカルトチックな女の子なんだろう、問題は)
そう、問題は彼女が彼の方に尻を突き出して、さらに言うならスカートがめくれていることだった。
黒いパンスト越しに覗く太ももと白いパンティー、それを見ていると、ちらりと彼女が彼を見て、すぐに本に視線を戻す、そして
「好きなだけ見ていていいですよ、見るだけならただです」
と誘うように軽く尻を振って言った。
「なっ…」
高俊は彼女の思いもよらぬ言葉に、何か言い返そうとするがその言葉が見つからない。
「えっと、オサワリは八千円、頬擦りは一万円、舐められるのは嫌いですが二万五千円で手を打ちましょう」
彼女は聞いてもいない値段を提示し始める。
もちろん、彼女が何を言っているのか混乱している高俊にもなんとなくわかる、彼女は自身を売りに出しているのだ、初対面の相手に対して。
「今、手持ちが無ければ後払いでも構いません、もちろん見ているだけでもいいですよ」
高俊はおもむろに財布をポケットから取り出して中身を確認する、万札が一枚と千円札が数枚入っていた。それを確認してゆっくりと彼女へ近づく。
「それ以上の要望があれば、お値段しだいでお受けします」
本から視線を移さずにそういう彼女の尻へ、高俊は近づきながら手を振り上げる。
そして
スパンッ!!
「ヒィンッ!!」
彼は彼女の尻を全力でひっぱたく、突然尻を叩かれた彼女の体はビクンと一度跳びはねて、一気に力が抜けたように本のベッドに顔を埋める。
高俊は彼女のめくれたスカートを直して、財布から一万円札を取り出し彼女の目の前に落とす。
「それじゃあ、二千円のお釣りをくれ」
本に顔を埋めて動かない彼女を見ながら高俊が言うと、彼女は一万円札をグシャッと掴みガバッと体を起こす。
「スパンキングは二万円です、お代が一万円足りません」
顔を赤くして涙目になりながらふらりと立ち上がり、高俊に詰め寄る。
彼女の顔は髪の毛で半分ほど隠れている、ブラウスは第二ボタンまで外してその上から緩そうなセーターを着ていた。
「触っただけだろ、早く二千円釣りをよこせ」
高俊は引き下がることなく言うと、彼女は怒りを彼にぶつける。
「触っただけであんな音はしません、後一万円払ってもらいます」
そう言いながら、指を一本立てて前に突き出す。
「そんな、今取って付けたようなモノに金を払えるか、この学生娼婦が」
彼女の手を叩いて言い返すと、彼女は腰に手を当てて高俊を睨む。
「触ってきたのは貴方が初めてですよ、普通あんな誘いに乗りますか」
「自分から値段提示しておいて何を言ってやがる」
二人はいがみ合うように顔を付き合わせる。
「これではラチが空きません、私は一年の桐島詞生です。取り立てますので、貴方の学年と名前を教えてもらいますよ」
付き合わせていた顔を離して、“しお”と名乗る彼女はそう言う。
「俺は二年の神崎高俊だ、釣りはキッチリ返してもらうからな」
なんの因縁か二人はこうして出会ってしまった。
ちなみに、この後道具箱を持ち帰るのを忘れた高俊はもう一度ここに来て彼女と顔を合わせる事になる。
――――――
昼休みのはずだが、静まり返る二年の教室、いや正確には静まり返っているのは全体の九割程度だろうか。
「早く一万円払ってください」
静まり返る原因の一人は対面に座るもう一人の原因にそう言う。それに対して箸を止めて言われた原因は言った原因を睨む。
「それより、さっさと俺に二千円を返せ」
本来昼食とは仲の良い友人達が一緒に食べるものだが、この二人の険悪な雰囲気がクラスを包んでいた。
ことの発端は、午前最後の授業が終わった直後、クラスに普段は来ない一年生の女の子が訪問してきた事から始まる。
「神崎高俊さんはこのクラスにいらっしゃいますか?」
そう彼女は教室の入口付近にいる生徒に訪ねた、男子生徒を女子生徒が呼び出すなんて「そういうこと」なのだとクラスは囃し立てて高俊に知らせるが、当の本人は「帰らせろ」と、クラス全員に喝を入れるように言うのだった。
高俊の一言で静まり返る教室へ訪問してきた詞生だけは関係ないというように入り込み、「ここに居ましたか」と、高俊の対面の椅子に座り弁当箱を机に置く。
「飯がまずくなるから帰れ」
間髪入れずに、せっかく来た後輩に対してそう言って睨みつける。しかし、詞生も一歩も引かずに口を開く。
「それはお互い様ですよ、高俊さん」
弁当箱を開きながら不敵に笑う。
「……チッ」
詞生に聞こえるように舌打ちをするが、彼女はまるで気にする様子もなく弁当に箸を伸ばす。
これが、クラスがこの状況に至るまでの経緯である。
そして、更にクラスの空気は重くなっていく。
「私を買ったんだから、お金はキチンと払ってください」
学生にあるまじき発言、それを聞いてざわめき出す教室。
「金は払っただろ、それよりも釣りをよこせ」
高俊の否定しない態度に更にざわめきが大きくなる。
「いきなりあんな事をされると思わなかったです、昨日も言いましたが、それ以上の要望は値段によって受けると、だから後一万円払ってもらいますよ」
高俊は一体何をしたんだと、そういうゴシップな話に興味のある生徒たちはコソコソと話をしている。女子生徒の中には高俊のことが好きだったのか、今の話を聞いて泣き出している生徒もいる。
「具体的な値段は一切説明されていないから、いきなり払えと言われてもなぁ」
彼が鼻で笑うと、詞生は我慢出来なくなり机を叩いて立ち上がる。叩いたショックで弁当箱がガタリと弾む。
「踏み倒すつもりですか、そんなこと許しませんよ」
高俊もその売り言葉を買って同じように机を叩いて立ち上がる。
「お前が許そうが許さまいが関係ないな、早く釣りを返せ」
二人で睨み合いになっていると、いつの間にか横に教師が立っていて、オホンと咳ばらいする。
「お前たち、何の話をしているんだ?」
高俊の担任の眼鏡をかけた男性教員、二人の会話を聞いて誰かが呼び出したのだろう。
「先生、そんな怖い顔してどうしたんですか、俺たちゲームの話をしていただけですよ」
高俊は隣の教師に視線を合わせてゆっくりと座り、迷いなく嘘を吐く、詞生も彼の思惑を瞬時に読み取り、その案に乗ることにした。
「そうです、ゲーム中での貸し借りの話ですよ」
詞生にもそう言われて、教師は困惑したような顔をする、知らせに来た生徒の言っていた事と二人の言っている事が大幅に違っているためだった。
「確かに声が大きかったのは認めますけど、いつもはもっと騒がしいじゃないですか」
いつの間にか教師は言うべき言葉も見つからずに立ち尽くしている。
「それに私たち、同じゲームをするほど仲が良いんですよ」
詞生の言ったこの一言で教師はこれ以上追求できなくなる。
「まぁでも騒ぎにして、すみませんでした」
特に謝るべきでない所で高俊が頭を下げると、それに合わせて詞生も頭を下げる。
「私もすいませんでした」
二人の話術によって、教師は完全に論破されてしまう。
「わかった、これからはあまり騒ぐなよ」
そう言い残して教師は教室を出ていく、教師の後ろ姿を見ながら二人は小さく安堵の溜め息を吐き出す。
目配せを軽く交わして、静かに食事を再開する。
――――――
茜色の光が差し込む旧校舎の図書室、ただ図書室とは名ばかりで大量の本と使われなくなった物が乱雑に置かれている、その埃っぽい部屋で昨日と同じように詞生は本のベッドの上で本を読んでいる、ただ昨日と違うのは出入口に尻を向けていないこと。
そして、今日も突然部屋の扉が開く。
「やっぱりここにいたか」
彼女を見つけて呆れたような顔をしながら図書室に入ってきた高俊は言う。
「残りを支払いしに来ましたか?」
視線だけを高俊に向けて言うが、彼はなんのことだかと笑う。
「今日も道具箱を取りに来ただけだよ、それよりお前は文化祭の準備をしなくていいのか?」
本棚の奥へ向かいながら、昨日使った道具箱を探す。
「見る人がいないと文化祭にはなりませんから、私は見て回る専門です。ところで高俊さん、そちらは危ないですよ」
本をパタンと閉じて本棚の影に入ろうとする高俊に忠告する。
「はぁ?なにおおぉぉ!!」
高俊は「何を言っているんだ」と聞き返そうとしたのだろうが、それがそのまま絶叫になってしまう。影から何かが高俊の身体を搦め捕る、突然捕まってきた恐怖から必死に足掻いてそれを押し退けようと手を出すと、柔らかくかつ弾力のあるスベスベした球体を掴む。
「んっ、大胆……」
高俊はそれが喋った瞬間に不覚にもヒイッと悲鳴を上げてしまう。
さらに、その声がなまめかしく色っぽい甘美な響きで脳に直接響いてくる、恐怖と合わせてクラクラと目眩を起こしそうになる。
高俊が怯んでいる間にソイツは腕を首に回し抱き着くように密着して、まるで西洋の物語りに登場する吸血鬼のように首筋に噛み付く。
「ちょっと待て、やばい」
ガッシリとしがみつかれて、高俊は抵抗するが離れる気配はなく、その間に首筋に激しく吸い付かれる。
このままではヤバい、そう感じてソイツの頭を掴み、そのまま引きはがして首筋との濃厚なキスを止めさせる。
しかし、その頭を引きはがした右手首を掴まれて、そのまま手の平に熱く湿った息を吹き掛けられながら口づけされる。そして、興奮して火照った舌でネットリと舐られる。
「……ねぇ、この手で詞生ちゃんのお尻を叩いたの?」
高俊の目が徐々に本棚の闇に慣れていく、すると目の前には自分の指を一本一本丁寧に舐めながら、甘い声で話しかけてくる女子の姿があった。
それを目の当たりにして一瞬で体中の緊急警報が鳴り響く、「これはヤバい」そう感じるほどその場面は衝撃的だった。
首筋に口づけされていた時と比べて、身体が少し離れたことを利用してグイッとその生徒の肩を突き飛ばし、右手を引き抜きこの状況から脱出する。そして、本棚の影からほとんど転ぶようにして脱する。
「高俊さん、首にキスマークなんて付けて、いやらしい」
詞生の前に転がり出た高俊の首にはクッキリと赤い印が付いている。
「なんなんだ、この図書室は痴女もいるのか?」
詞生の言葉に反応する余裕もなく、立ち上がりヌルリと唾液の付いている右手を見る。
「痴女なんて失礼ですよ、南奈も早く出てきたら」
高俊を襲った相手と詞生は知り合いらしく、彼女は本棚の向こう側に声をかける。
「ちょっと待って、今服を着ちゃうから」
本棚の向こうから布の擦れる音が聞こえる、高俊は確かに布の感触が一切無かったことに気付くが、裸の女性が抱き着いてきたことに興奮や喜びなどは起きず、ただ恐怖が増していく。
「お待たせ」
そう言いながら本棚から現れたのは、キチンと制服を身につけた清楚可憐という言葉が似合いそうな女子生徒だった。
「へ?」
身構えていた高俊は、先程まで恐怖を与えた存在が予想もしていない美少女だったことにマヌケな声を出してしまう。
そんな呆けたような顔をしていると、その詞生に南奈と呼ばれていた美少女は心配そうな顔をする。
「あの、先輩?」
彼女の声は確かに先程彼の脳をくすぐった甘い声だった。それがわかった瞬間に本能的にこの場から逃げ出したくなる。
「悪い、すぐに戻らないと」
もちろんすぐに戻る必要などなく、ただの口実に過ぎないが、恐怖と不安から道具箱も持つことなく図書室から逃げ出す。
その後、教室に戻った高俊は何も言わず、すぐに帰り支度を済ませて帰宅した。
――――――
名前だけを見るとよく男子生徒に間違えられる桐島詞生、彼女のいる一年のクラス、そこは今静まり返っている。
「別にクラスに来なくて良かったんですよ」
迷惑な相手を見るような顔で嫌味たっぷりに高俊に言う。
「気にするなよ、高学年のクラスには来にくいだろ」
こちらも嫌味たっぷりな口調で言う。
今日に限って午前の最終授業が長引いてしまった、授業が終わった頃には高俊が教室の前に来ていた。
「それはいいですけど、首に絆創膏を付けて来ないで下さいよ、何があったんですか?」
詞生は箸を高俊へ向けてそう言う、もちろん首の絆創膏を付けているのは昨日のキスマークを隠す為だが、何があったか知っている彼女はしれっと聞いてくる。
「理由は知っているだろ、一々言わせるつもりか?」
ワザと尋ねてくる詞生を睨みながら言い返す。
「いえ、高俊さんの口から直接聞きたいだけです」
詞生は卵焼きをパクりと頬張る、高俊を見つめるその瞳は彼がどんな返事を返すのか期待している。
「お前の友人が原因だろ」
「もっと気の利いたことは言えないんですか、私の友人にされたキスマークとか」
卵焼きを飲み込んで小さく溜め息を吐き出す、詞生のその態度に高俊は舌打ちする。しかめっつらをしている彼を更に困らせようと、詞生はニンマリと笑って更に口を開く。
「そうそう、彼女がね先輩のことを買いたいそうですよ」
彼女とは昨日高俊を襲った彼女だろう、詞生の言葉に教室はざわめき高俊は落胆するように自分の頭に手を乗せる。
「……お前は俺が頭を縦に振ると思って言っているのか?」
「ええ、好きなんですよね、ああいうのが」
ニンマリと笑った彼女がそう言うと、二つの弁当が乗った机に影が差す。
「ほうほう、そのああいうのとは何か詳しく説明してもらおうか」
二人はそちらに同時に目を向けて、面倒くさそうな顔をする。そこには何かとしつこく追求してくる一年の学年主任が立っていた。
―――――
高俊は指導室で立っている、目の前には強面な顔をした一年の学年主任と、少し弱気そうな二年の学年主任がこちらを見ている。
(確かに昨日のこともあるし、呼び出されたのは仕方のないことだろう、それについては何も問題ない。しかし、何故だろうな、俺と同じように注意された桐島詞生が隣にいるのではなく、この痴女がいるんだ)
高俊の隣には、昨日彼の首筋に跡を付け、右手にベットリと唾液を塗り付けた女子生徒、牧野南奈が立っている。
(しかし、教師の話しからすれば彼女は、容姿端麗、成績優秀、その上クラスの委員長、家もお金持ちで性格も良いご淑女様らしく、非の打ち所が何処にもないが、彼女は本当に昨日の彼女なのか)
教師は高俊のことを疑いにかかっていて、彼の話を聞こうとはしない、教師の問いには高俊の代わりに全て南奈が受け答えをしている。
一連の話は教室で詞生の話術によって、高俊が他校の生徒にちょっかいを出されていた南奈を助け、首筋の傷はその時のゴタゴタで付いたものとすり替えられ、完全にでっちあげられていた。詞生が言っていた「買いたい」は高俊をボディーガードとして雇いたいという意味に変換されて、「ああいうこと」は喧嘩のことになっていた。
「私は昨日夕食の買い物の為に少し遠回りして帰りました、そこで突然三人の男性に声をかけられて、困っている所に高俊さんが助けてくれたんです」
もちろん高俊にはそんな他人を助けるような行動力はない、更にその話で彼は南奈の彼氏役を演じて現れたらしい。それを聞いた時に高俊は話の中の自分を賛美し、同時にその勇気を耳かきひとすくいでいいから自分に分けて欲しくなった。
「高俊先輩はこれが問題になると、私が学校で追求されると言って、怪我をしているのに大事にしないでいてくれたんです」
南奈は涙ぐみながら先輩に助けられたヒロインを演じる。高俊は物語の中の自分と今すぐ交換して欲しい、とか考えていた。
「本当なのか、高俊」
いきなり話を振られて、上の空だった高俊は口ごもり無言になってしまうが、すぐに溜め息を吐き出し。
「本当ですが、嘘にしておいてください、こんなくだらない問題に彼女が巻き込まれたことについては」
高俊は話の中の自分に合うように出来るだけ紳士的に答える。
「高俊先輩……」
上目遣いに南奈は彼を見つめる、こんなベタベタな展開はドラマの中くらいの話だが、二人がそう言っている以上、教師たちはそうなのだと認める他ない。
「今回は被害者がいないわけだし、罰は与えられんし、問題とするわけにはいかないな」
ドラマのように教師もそう言う。
今、この場にいる全員が詞生の作った盤の上の駒に過ぎなかった。
―――――――
「昨日のことで迷惑をかけてしまい、すみませんでした」
指導室を出ると南奈は高俊に謝る。昨日のこととは、南奈を高俊が助けた作り話のことではなく、旧校舎の図書館で起こったことだろう。
「いや、呼び出しまでして悪かったな」
南奈は詞生に言われて仕方なく昨日のことに及んだのだと、高俊は自分を納得させた。
「そんな、問題は私にあったのに、高俊先輩が悪いことになってしまって」
二人で並んで廊下を歩きながら、高俊は軽く溜め息を吐き出して、南奈の頭に手を乗せる。
「とりあえず、お互い様ってことにしておこう」
南奈は頭に手を乗せられて、恥ずかしそうに顔を伏せて頷く。
「あの、高俊先輩」
「ん?」
顔を伏せたままで南奈は立ち止まる。
「お手洗いに寄っていいですか?」
そう言いながら赤くなった顔を上げる。
「そんなこと、別に俺に了解を取らなくてもいいんじゃないか」
「いえ、昨日のことについてもう少しお話したいと思いまして」
ちょうど目の前にはトイレがあり、高俊はこの子の申し出を断ることもできなかった。
「わかった、待っているよ」
丁寧に一礼してから南奈は扉に入る。
壁に寄り掛かり、時計を見ると授業まで後十五分といったところ、時間には余裕がある。
高俊は昨日のことについては全て詞生が悪いということで納得しており、南奈もそれについて話すのだと考えていた。
しばらくして、もう一度時計を見ると五分程度の時間が経過している、女子は時間が掛かるのだろうと考えていると、扉が開き南奈が出てくる。
「すいません、お待たせしてしまって」
彼女は顔を真っ赤にして頭を下げる、別にとがめる必要もないので壁から離れて歩き出す。
「いや、気にするなよ」
そう言う高俊に南奈は小走りで追い付き隣を歩く。
「えっと、それで昨日の話ですけど」
チラチラと高俊の顔色をうかがいながら彼女は言う。
「詞生ちゃんは何も悪くないんです」
黙って聞いていた高俊は吹き出しそうになり、南奈の方を向く。
「なにを……」
「だから、高俊先輩は全部詞生ちゃんの仕組んだことだと思っていますよね。でも、私が全て悪いので、彼女には非はありません」
高俊の言葉を遮って南奈は必死に詞生の無実を彼に説明する。
「あのな、別に庇わなくていいんだぞ」
「庇ってなんかいません、だから詞生ちゃんを責めないであげてください」
真剣な顔をして言う南奈を前にして、彼は淑女様もここまでいくとある意味病気だなと諦めたように溜め息を吐き出す。
「わかった、それに元から詞生を責めるつもりはないよ」
「本当ですか、良かった」
高俊の言葉に安堵したような仕種をして、ニコリと微笑み右手を差し出す。
「えっと改めて、私は一年の牧野南奈です」
なんとも、律儀な奴だと高俊は苦笑いしながら、自分も手を差し出す。
「二年の神崎高俊だ」
簡単な自己紹介をしながら、南奈の手を握る。
ゾワリ
南奈の手を握った瞬間、不快感に似た違和感が高俊を襲う。そして、その違和感の訳をすぐに理解することになる。
目の前にある、いびつに歪んだ笑顔、それが違和感の原因。眉を困ったように曲げ、瞳は恥ずかしそうに上目遣いに高俊を見つめ、頬はつり上がって紅潮し、口は三日月を描くように頬へ切れ目を入れる。
今までの節度のある彼女を全てぶち壊してしまうほどの、背徳感に心を踊らせるような淫靡で歪んだ笑顔。そう淑女はこんな顔を見せない、今の彼女の笑顔はまるで娼婦が客を引くために見せる笑顔だった。
高俊はこの時に悟る、彼女が言っていた「私が全て悪い」と言う意味を、彼女は決して詞生を庇っていないことを、全ては彼女の意志で行ったことなのだと。
「では、次が移動教室なのでもう行きますね」
彼女は手を離して、歪んだ顔を伏せながら走り去る。高俊は南奈と握手していた手をグッと握り込む。
「おい、高俊」
背後から高俊の肩に手を置いて、興奮気味にクラスメートが声をかけてくる。
「さっきの、今年の一年女子の中で注目度No.1の牧野南奈だろ」
軽い放心状態の高俊が口を開く前に、ペラペラと話しを続ける。
「知り合いなのか」とか「どういう関係なんだ」とか「俺にも紹介しろ」とか、だがその全てが今の高俊には耳に入ってこない。
「悪い、ちょっとトイレ行ってくる」
それだけ言い残して来た道を彼は引き返した、背後から「もう、授業始まるぞ」と言われたがそんなことは今の高俊には小さなことだった。
トイレに駆け込み洗面台の前に立ち、先ほど南奈と握手した自分の右手を恐る恐る開く。
ネチャリ
そんな音を立てながら手が開かれる、手にベッタリと付着した液体、昨日塗り付けられた唾液とは粘りやヌメリが違っているそれを見て高俊は固まってしまう。
(なんだ、これは)
いや、考えるまでもない。先ほど握手した彼女、牧野南奈が塗り付けたモノだろう。
毒かと一瞬考えるが南奈も素手だったため、その線は消える。
次に南奈が握手の前に寄っていたトイレで付いた水ではないかと考えるが、この粘りやヌメリは決して水ではない。
そう考えていると嫌な予想が脳裏をかすめる。この液体が何か、そして彼女はトイレで5分間も何をしていたのか。
その核心に近付こうとした瞬間、考えるのを止める。きっとそれは気付いてはいけない部分、だから高俊は考えるのを止めた。
小さく溜め息を吐き出して、ゆっくりと右手を顔に近付けて、その液体の匂いを嗅ぐ。すぐに高俊の顔は険しい表情になり、急いで手を丁寧に洗う。
「くそっ、最悪だ」
そう彼が毒づくと授業開始の鐘が校内に鳴り響く。
――――――
今日もこの旧校舎へ足を運ぶ、道具箱や支払いや釣りを貰いに来たわけではない。
今回はここに居るであろう痴女に文句を言うために来た。
扉を開くと本のベッドの上で寝そべりながら脚を組んで本を読む女子生徒がこちらに視線を向ける。
「あ、こんにちは、私の友達を格好良く助けてくれた高俊先輩」
コイツはなんでそんなに人の気持ちを逆撫でするのかと、彼女を睨みつける。
「そんなに怖い顔しないでくださいよ、道具箱ならあっちですよ」
昨日、高俊が襲われた本棚の方を指差しながら言う。
高俊が思い出したくもないことをピンポイントに突いてくる。高俊は溜め息を漏らしながら、一々反応していたら詞生とまともに話など不可能であると考える。
「おあいにくさま、うちのクラスは文化祭の準備も終わって、今日は道具箱に用はない、だから襲われる心配もないわけだ」
鼻で笑いながらあしらい、彼は乱雑に置いてある椅子の一つを掴んで座る。
「そうなんですか、少し残念」
やはりと言うべきか、本棚の影から南奈が顔を出して言う。高俊から南奈の姿は肩の辺りまで見えるが、今日も服を着ている様子はない。
南奈はすぐに引っ込み着替えると思われたが、高俊の姿を見つめながら、昼間高俊へ向けた娼婦の顔をする。
「あの、高俊先輩」
甘ったるい声で呼ばれたが、彼はそちらから視線を背ける。そんな高俊に構うことなく彼女は続ける。
「アレを舐めたりしましたか?」
アレとはお昼に高俊の手に付着したアレで間違いないだろう。
「舐めるわけないだろ、あんなもの頼まれても舐めない」
自分の右手を見つめながら不機嫌そうに言うと、南奈はシュンとした顔をする。
「そうですか…」
寝転がっていた詞生が本を閉じて、何かを企むような顔をしながら起き上がる。
「でも、匂いくらいは嗅ぎましたよね」
この女は何故こんなにも鋭いのだろうか、的を射た詞生の言葉で高俊の思考が止まってしまう、沈黙が返事になり、南奈がシュンとした淑女の顔から娼婦の笑顔になる。
「ふふ…私、嗅がれちゃった」
高俊はその甘ったるい声がした方向へ視線を向けられず、不甲斐ない自分に落胆してしまう。
「高俊さんは本当に変態さんだね」
詞生にまでそう言われて、この数日で自分の右手が非常に汚れてしまったように思えてしまう。
「私はそんな変態さんな高俊先輩が好きですよ」
いつの間にか着替えて本棚の影から出て来た南奈が高俊を背後から抱きしめる。
「そうだ高俊さん、あれのことは考えてくれましたか?」
抱き着かれて、南奈に抵抗している高俊へ詞生は問い掛ける。
「あれのこと?」
抵抗を止めずに詞生に問い返すが、彼女は何も言わぬまま本のベッドから下りて彼に近付く、それに言い知れぬ恐怖を感じて立ち上がろうとするが、南奈の腕が絡み付きそれを阻む。詞生は動けない高俊の膝の上に向かい合わせになるようにゆっくりと座る。
「高俊さんが私を買うことと」
「高俊先輩が私に買われること」
二人で高俊の耳元で囁く、まるでステレオのように囁かれて、椅子から高俊は立ち上がろうとする。
「勘弁してくれ」
「ダメですよ、逃がしません」
南奈が囁いてニュルリと耳を舌で舐め回すと、彼の体がビクリと反応する。詞生も高俊の首に張り付いている絆創膏を剥がして、まだ残っている赤い跡に口づけする。
「お前らいい加減に……」
高俊は二人からの押さえ付けられ、ネットリとした舌での愛撫に抵抗が出来ない。
「身を委ねていいですよ」
詞生が脳の裏をくすぐるような声で囁くが、どうにか拘束を外した腕を詞生の首の後ろに伸ばして襟を掴んで引き剥がす。
「委ねてられるかっ」
そう言いながら力尽くで立ち上がる。女子の力では男子を押さえられず、詞生と南奈は尻餅を付きながら高俊から離れる。
「痛い」
「ひゃんっ」
高俊は首と耳を袖で拭きながら、二人と少し距離を取る。
「もう、乱暴なんですね」
南奈はゆっくりと立ち上がり、服に付いた埃を払いながら彼に笑いかける。
「うー、埃っぽい」
本の山に尻餅を付いた詞生はブスッとしたような顔をする。
「お前ら、何がしたいんだ」
高俊にそう言われて、南奈は不思議そうな顔をする。
「言ったじゃないですか、高俊先輩を買いたいと」
さも、当然と言いたそうに断言する。
「私も言いましたよ、高俊さんに買ってもらいたいと」
ブスッとした顔のままで詞生も起き上がり、先ほど高俊が座っていた椅子に腰掛ける。
「私達じゃご不満ですか?」
南奈は椅子に座っている詞生を先ほどの高俊のように抱きしめ、誘惑するように、高俊を見つめる。
「それとも、高俊さんはあっちの性癖の人なんですか?」
詞生は困ったような顔と言えば語弊のあるような、相手を小ばかにしているような顔を高俊に向ける。
「お前ら、俺は買わないし売らないぞ」
二人は普通ではないことを理解しながら、強く二人に言い放つ。
それを受けて、詞生は不機嫌そうな顔を高俊ではなく南奈に向ける。
「ほら、やっぱりダメだった」
その詞生の頭を撫でながら南奈は困ったように首を傾げる。
「普通の男性なら完全に落ちるはずですが、高俊先輩が普通じゃない」
本人の前で失礼なことを言いながら、南奈は考える。
「そりゃ、昨日あんな目にあったのに平気でここに来る人が、普通とは思えないよ」
二人は目の前にいる高俊について話を続けている。
「おい、俺のことで好き勝手言っているなよ……」
高俊が言うと、二人の視線が彼に向けられる。
「本人に直接聞けばいいか」
「そうですね、その方が早そうです」
二人は視線を高俊に向けたまま、ギラギラと目を輝かせた南奈が先に口を開く。
「高俊先輩はどんな女性がお好きなんですか?」
やや興奮気味にそう言われて、高俊は少し後ずさってしまう。
「どんな女性って、お前らじゃないのは確かだよ」
詞生はその会話を聞きながら少し不満げな顔をしていたが、南奈にその顔を向ける。
「ダメだよ、そんな聞き方じゃ、もっと外堀から埋めていくようにしないと」
そう言いながら、高俊へゆっくりと視線を戻す。
「高俊さんは女性にしてほしいこととかありますか?」
高俊は詞生ほど、何か企む顔が似合う女子高生もいないなと考えながら一度溜め息を吐き出す。
「その女性ってのがお前らなら、どんなこともごめんこうむるよ」
「でも、私たち以外ならなくもない訳でしょ?」
首を傾げながら、もう一度高俊に問い掛ける。
「そりゃあ、ないわけじゃないが……」
そこまで言って高俊は自分が失態を演じてしまったと口を閉じて渋い顔をする。
しかし、まだ「ある」か「ない」か、しか答えていない、情報としては不十分のはずだが、それなのに詞生と南奈は勝ち誇ったような、無邪気な笑みがその顔に張り付けている。
「なら、片っ端から試せばいいかな」
「ええ、そうすればいつか当たりますよね、だから」
二人は同時に口を開く。
「「楽しみにしていてくださいね」」
高俊はそう言った二人の顔を忘れられなくなる。もしかしたら二人の無垢な笑顔に心を奪われたのかもしれない。
―――――――
「昨日はなんだかんだで、取り立てしませんでしたね」
昼休み、学食へ避難していた高俊の向かいに座る詞生はそう言う。
「お前から見つからないためにここに来たはずだが……」
高俊の言葉に詞生は笑いながら「先輩方が丁寧に教えてくれましたよ」と話して、身を乗り出して高俊の弁当を覗き見る。
「しかし、先日から思っていましたが、高俊さんのお弁当は色鮮やかですね、まるで女子高生のお弁当みたい」
詞生の言う通り、高俊の弁当は可愛らしいという言葉が似合う色鮮やかな物だった。
「姉が作っているから仕方ないんだよ」
弁当のことはよく言われると言いたげな顔で春巻を頬張る。
「へぇ、お姉さんがいるんですか、美人なんですか?」
もっと始めに尋ねるべき質問があるんじゃないかと高俊は考えるが、先日会ったばかりの彼女はそういう奴なのだと無理矢理納得した。
「そういうことは、身内にはわからない」
高俊が春巻を飲み込んで言うと、詞生は少し考えてからニンマリと笑いながら口を開く。
「じゃあ、彼氏はいるんですか?」
高俊は眉をピクンと動かして溜め息を吐き出す。
「そういう話は聞かないな、俺に聞いてもこれ以上情報なんて出て来ないぞ」
「ふむぅ、そうみたいですね」
残念そうな顔をして、箸を使って高俊の弁当から素早く料理を奪う。
「おい」
高俊が詞生にそう言った時には、既に彼女は奪ったそれを口に入れていた。
モグモグと口を動かしてから飲み込む。
「これは利子です、なかなか美味しいですね」
高俊など気にする様子もなく、料理の感想を言う。
「お前から金なんて借りてないぞ」
「ツケの分の利子に決まっているじゃないですか」
当然と詞生は笑い、更に高俊の弁当から料理を奪う。しかし、彼は呆れたように溜め息を吐き出して、食事を再開する。
「無反応ですか?」
「別に弁当の中身くらいかまいやしない、元々俺の弁当は米に対してオカズが多いんだ」
箸が弁当と口の間を数回往復する。
「そうなんですか」
抵抗もしない高俊の反応を見て興味のなさそうな顔で詞生が言い、食べ終えた弁当をしまう。
「そういえば、高俊さんは香水とか付けているんですか?」
突然話を変えた詞生に高俊は首を傾げる。
「いや、付けていないが、それがどうかしたのか?」
「昨日、抱き着いた時に高俊さんからなんとも言えない匂いがしたので」
詞生はそこまで言ってから、両手を振って「でも、嫌いな匂いではなかったですよ」と付け加え、そのまま言葉を続ける。
「イカ臭かったり、青臭い匂いではなかったから、拭き残しではないと思いますよ……でも、そちらの匂いの方が健全といえば健全なのかな」
学食で話すべき話ではないと高俊は溜め息を吐き出して、弁当を片付ける。
「もう少しお前は時と場所を考えるべきだな」
今日の日替わりメニューはタイミング悪くイカ天うどん、周りを見ないようにしているが何人がこの会話で不快な思いをしているか、彼は考えたくもなかった。
「そんなの今の話に関係ありません、高俊さんの匂いの話をしているんです」
大まじめな顔で詞生は高俊を見つめる、彼はそれが詞生にどれだけ重要なことなのかよくわからなかったが、とりあえず正直に答えることにした。
「油絵の具の匂いだよ」
思いもよらぬ答えに詞生は少し黙るが、何か思い付いて明るく笑う。
「ボディペイントプレイが好きなんですね」
「はぁ?」
詞生の出した答えに高俊はポカンとしてしまう。
「だから、ボディペイントですよ、身体に服のペイントをして裸で外を歩くプレイです」
「そんなことするわけないだろ、普通に絵を描いているんだよ」
高俊が否定すると詞生は小さく溜め息を吐き出す。
「ちぇっ、そんな普通でつまらない答えを聞きたくありませんでしたよ」
「大きなお世話だ」
呆れている高俊を尻目に、詞生は少し考えてから、ポンと手を叩く。
「じゃあ、私たちが絵のモデルになってあげますよ」
高俊は黙ったまま詞生を見つめてから、ゆっくりと唇を開く。
「まぁ、それは助かるな」
彼の言葉を聞いた瞬間に詞生は満面の笑みで立ち上がる。
「じゃあ、南奈に言っておきますね」
そう言いながら嵐のように学食から走り去っていく。
残された高俊は地雷を踏んでしまった気がしてならなかった。
―――――――
先に詞生が教室に帰ったため、高俊は一人で教室に向かって歩く。そんな彼に小さく手を振りながら、一人の生徒が話しかけてくる。
「高俊、今日学食食べた?」
「いや、学食は食べてないぞ」
高俊は言葉足らずな女子生徒に軽く突っ込みを入れて、「学食で弁当を食べていたんだ」と答える。
美しく珍しいアッシュカラーの髪の毛を、耳の横でクルクルと指に絡み付けてながら、問いに答える高俊の顔を見上げていると、彼女は唇を少し尖らせる。
「高俊、女難の相出てる」
彼女の言葉に高俊はピクンと反射的に眉を動かしてしまう。
「図星?」
高俊の反応を見て、すぐに彼女は言葉を続ける。
高俊は返事をせずに苦笑いする。その表情を見て意味を察した彼女は無表情のまま、高俊の手を握る。
「助言欲しい?」
高俊の手を握る彼女の名前は伊勢崎みどり、ラスベガスで働くマジシャンの父と、最近スピリチュアルなことで話題になっているイタコの母との間に生まれた、占いが得意な高俊のクラスメート。
彼女自身は得意な程度と言っているが、その占いは外れない。さらに新聞部に所属しているため、学校の情報の殆どは彼女の手の中にあるらしい。
「ああ、お願いするよ」
彼女はそれに対して頷いて、目を閉じる。
情報を手中に入れていることに加えて、彼女が恐れられる理由には、感情を顔に出さないことと、彼女が使う言葉が理解しにくいという二点がある。
しかし、表情に関しては、わかりにくいだけでみどりにも喜怒哀楽はある。言葉が理解しにくいのは、彼女の言葉には助詞と接続詞がほとんど抜けていて、片言で話しているように聞こえているだけである。
そういった彼女の特徴を理解している高俊などには、少々言葉が足りない女の子程度の認識である。
そして、みどりは高俊から手を離して、ゆっくり瞼を持ち上げる。
「結果出た」
彼女のクセなのだろう、髪を指に絡み付けるのを再開して、ジッと高俊を見つめながら口を開く。
「エクセントリック」
みどりの助言はほとんど参考にはならない。もちろん、占いの内容を尋ねれば彼女は答えてくれるが、高俊はそれを聞くつもりはない。
「普通から外れた、逸脱した、といったところか?」
高俊がみどりの助言を自分なりにかみ砕いて尋ねると、彼女は心なしか満足そうな顔で「そう」と言いながら頷く。
「そいつは大変だな」
みどりにキッパリと言い切られ笑いながら歩き出す。みどりは少し早足になりながら、彼の後ろをついて歩く。
「うん、高俊大変」
高俊はそう言った彼女が後ろで笑っている気がしたが、きっと気のせいだと考えて振り返ることはしなかった。
他の生徒からすれば奇妙な光景だろう、学校で最も恐れられる存在が、ただの男子生徒の後を付いて歩いているのだから。
少し廊下を二人で歩いていると、歩幅が合わない高俊に付いて歩くみどりが彼の袖を摘んでツンッと引っ張る。
「っと」
不意に袖を引っ張られて高俊がみどりの方へ振り返ると、自分を見上げる彼女と目が合う。
「歩く早い」
高俊はそう言われて、納得したような顔をする。
「ああ、悪い悪い」
誰かと一緒に歩くことに慣れていない高俊は軽くみどりに謝り、少し歩く速度を緩める。みどりは袖を掴んだまま、今度は彼の隣を歩く。
しかし、しばらくして今度は階段に差し掛かった所で、再度高俊の袖を引っ張りみどりが立ち止まる。
「今度はどうした?」
困惑気味に高俊がみどりの方を見ると、彼女は彼の袖から手を離す。
「私先行く、高俊ここ十秒待つ」
そう言って一人で階段を駆け上がる。
「バイバイ」
階段の途中で立ち止まり、高俊に手を振りながらそう言い、彼女は高俊の視界からいなくなる。
「……十秒か」
本日、詞生に続いて二度目の置き去りをくらう。
高俊は占いからの助言なのだろうと、言われた通りに十秒待つことにする。
(一……二……三……四……五……六……七……八……九……)
「高俊先輩」
十と数えようとした時、背後から声をかけられる。彼をそう呼ぶのは一人しかいない、それもつい最近知り合った人物からそう呼ばれている。
「こんな所で立ち止まって、どうしたんですか?」
振り返れば、先日高俊に助けられたことになっている、女子生徒が立っていた。
「先輩はモテるみたいですね、少し妬けちゃいます」
みどりと歩いていたのを見ていた彼女は、少し顔を赤らめた優等生の笑顔で高俊を見つめる。
「俺を好きになる物好きなんてそういない、そう思わないかい、牧野さん」
牧野南奈、彼女と会うことは回避すべきことではないのか、彼は助言をした、みどりに心の中で文句をつける。
「そうは思いません、高俊先輩は素敵な人ですよ、だって……私を助けてくれたじゃないですか」
少し困ったように言葉を詰まらせる仕種や、俯き加減の表情など、まるで恋する女子のようで、それには彼女の本性を知っているはずの高俊でさえ可愛らしいと感じてしまう。
「あれは成り行きだ」
そんな気持ちを打ち消して、彼女の本性を思い出すが、どうにも今の彼女と一致しない。まるで彼女に双子の姉妹が存在しているようにも思えてしまう。
「先輩にはあの出来事はその程度だったのですか……」
シュンとしたような顔を彼女がする。高俊は嘘偽りの話でここまで演技ができる彼女をある意味尊敬した。しかし、こんな茶番にいつまでも付き合っていたらキリがないと感じた。
「そういえば、詞生がお前を探していたぞ」
嘘はついていない、自分にそう言い聞かせながら南奈に言うと、彼女はパッと表情が変わり、興味が高俊から離れる。
「そうなんですか、じゃあ私は教室に戻りますね」
あっさりと高俊から小走りに離れて、彼女は自分の教室に向かう。
だが、その途中で引き返して高俊の手を掴む。
「高俊先輩、今日も待っていますからね」
その時の彼女の顔には優等生の笑顔の裏に、何かを期待しているような娼婦の微笑が見えていた。
「では、失礼しますね」
今度こそ走り去った彼女を見送り、ズンッと疲れてしまった体を引きずって教室に戻る。
そこで椅子に座っているみどりと目が合うと、彼女は彼に向かって親指を立てて見せる。
それに高俊は返事として、溜め息を吐き出しながら軽く首を振る。それを見てみどりは不満そうに唇を軽く尖らせる。
―――――――
「何あった?」
言葉足らずな彼女は放課後に、昼に助言をした男子生徒の前に立つ。
「別に何もないが、みどりの助言が久々に外れたと思ってな」
助言とは、本来良い方へ向かうために助けとなる言葉のことである。
しかし、昼のみどりの助言は高俊にしてみれば、悪い方向に向かう言葉に思えた。
「そう、仕方ない」
彼女の占いは外れないが、必ず“当たる”わけではない、占った結果にいたるまでにはその結果を変える要素が多すぎる、そのため占いが完全に的中することなどほとんどない。
ただ、もしもあの時みどりと話しを続けた場合、南奈が十秒後に声をかけて、その話しの中で三人は険悪な関係になってしまう、それは彼女しか知らない占いの結果である。だから、みどりはあの助言を間違っていたとは思っていない。
「仕方ないか、そうだな仕方ないな、助言された結果が全て良い方向なんてつまらないもんな」
さらに言うなら、あの十秒は彼女なりの南奈への気遣いである。
それを知らない高俊は席を立ち上がり、みどりに笑いかける。
「女難の相が出ていても、そこへ進んで行く、占いは信じるが、結果は俺が掴むものだからな」
ポンポンとみどりの頭に手を置いて彼は言うが、みどりには女難の相が消えている高俊が見えていた。その高俊の顔を見て、きっとあの時の女難とは自分だったのだと、みどりは考えていた。
「頑張れ」
不意に出た自分の言葉にみどり自身が驚いた、これは助言なのか、自分の本心なのか、わからなかった。
「おう」
その言葉の意味を深く考えずに、高俊は手を上げて返事をする。
そのまま彼は教室から出ていく、その後ろ姿を眺めながらみどりはもう一度「頑張れ」と呟く、それにどれ程思いが込められたのかわからない。ただ、数少ない友人が去る姿は彼女の胸を締め付けた。
「なに、乙女みたいな顔してるの?」
女子生徒の声と共に、細く長い指がみどりの頬に触れる。薬指以外に明るい青色のマニキュアが塗ってあるその指は優しくみどりを擽る。
「今日、三人」
その手を払ってみどりは呟く、払われた手を引っ込めた女子生徒は驚いた顔をする。
「三人からナンパされちゃうの?」
自分の頬へ小指だけに深紅のマニキュアを塗った手を沿えて、惚れ惚れとした顔をする。
「三人、逆ナンパ失敗」
返事の代わりにボソリと呟く、それを聞いて女子生徒は薄化粧をした顔を少し歪めて溜め息を吐き出す。
「なんで、そういう人の気持ちが萎えるようなことを言うわけ?」
女子生徒、嬬恋葵はみどりの頬を摘んで引っ張る。
「占いの結果には嘘を付かない」
しかし、今のみどりは嘘を吐いている、なぜなら彼女は葵を占っていない。
「はぁ、なら今日は一緒に遊びに行く?」
葵はみどりを信じたようで、頬をから手を離してポンポンと高俊と同じように彼女の頭を叩く。
「葵、おごり?」
みどりがそう言って葵を見上げると、彼女は少し困ったような顔をして偽物のブランドバックから、これまた偽物のブランド財布を取り出して中身を確認する。彼女は渋い顔になり「厳しいなぁ」と呟いて、教室にいる面子を確認する。
「みどり、サンドバッグ付きでいい?」
「財布?」
「そうそう、財布」
みどりは唇を尖らせてから、「いいよ」と呟いて意思表示する。
みどりの言葉に葵はニンマリと笑い、一人の男子生徒に向かって手招きする。
「何か用か?」
その男子は学校終わりの開放感からなのか、だらし無く笑って二人へ歩み寄る。
「あのね、高俊君が一年生とよろしくしてるから、昭久も私たちとよろしくしない?」
甘えるように、小悪魔的な顔をその男子に向ける。みどりは、葵に言い寄られている彼の顔を、髪を指に絡み付けながら眺める。そして、いつになっても消えない彼の女難の相が今日も濃くなったのを確認する。
「もちろん、三人でよろしくなろうぜ」
葵からはサンドバッグと呼ばれ、みどりからは財布と呼ばれる男子生徒、大和昭久は今日も懲りずに葵の誘いに乗って、自分の席に戻り帰り支度を急いで始める。
「高俊君もあれくらい煩悩がアリアリならいいのにね」
葵がいたずらっぽく笑ってみどりに言うと、みどりは珍しく感情を表情に出して不快そうな顔をする。
「それ、高俊違う」
「それもそうか」
とぼけたように葵は言う、そこに昭久が「二人とも早くしろよ」と満面の笑みで言う。
みどりは昭久の愚かしさに少し呆れたような顔をして、葵は昭久に「今行くから、待って」と猫を被った声を出して、それぞれに帰り支度をする。
――――――
キリの良い部分で教師が授業の説明を終えて、今日の最終授業が終わりに差し掛かる。
黒板の文字を書き写し終えた詞生は帰り支度を始める。もちろん、昼の高俊との話については南奈に話してある。
南奈の方から尋ねてきたので多少驚いたが、高俊とのことを説明すると彼女は不満げな顔をして「直接言ってくれれば良かったのに」と呟いていた。
しかし、その南奈も今日はすぐそこまで迫った文化祭の準備で忙しいらしい。
(生徒会に所属するのも大変だ)
そんなことを適当に考えながら、旧校舎の図書室へ向かいその扉を開ける。
部屋の中には棚から本を取り出そうとしている高俊の姿があった。
「今日は早いですね、そんなに私の裸体が見たいですか?」
困ったように笑い、ゆっくりと部屋の中に入り、本のベッドに座り上履きを脱ぐ。
「いや、今日は画材がないから、文化祭が終わった辺りから頼む」
本を棚に戻してから、椅子に腰掛け指で枠を作って詞生に向ける。詞生は枠越しに高俊を見つめながら、ベッドの中から本を一冊手に取る。
「良いモデルになりそうですか?」
本に視線を向けながら彼女が言うと、高俊は枠の向こう側で笑う。
「描いてみないとわからないが、期待は出来そうだ」
チラリと高俊を見てから、詞生はフフッと不適に笑う。
「ご希望があれば隅々までお見せしますよ」
「そいつは値が張りそうだな」
高俊は面倒臭そうに苦笑して言うと、彼女は少し考えてから首を小さく横に振る。
「今回はこちらから言い出したことです、だから無料でいいですよ」
高俊は驚いたように眉を持ち上げて、枠の向こうで疑うような眼差しを詞生に向ける。
その視線に気付いた彼女は溜め息混じりに笑う。
「私も細かいことは気にせず、この関係を楽しむことにしただけですよ」
そう言うが思い出したように「でも、一万円は支払ってもらいます」と付け足すのだった。
やはり彼女は変わらず彼女なのだと、手を下ろしながら肩を竦める。
「嫌なこった、お前こそ釣りを早く返せよ」
この関係を純粋に楽しむ、そう言った彼女は本を閉じて、目の前の高俊を見つめて鼻で笑う。
「お断りします」
彼女の返事は高俊の予想通り、だから嫌味混じりに次の言葉を吐き出す。
「まったく、細かいな」
「何を言っているんですか、そんなのお互い様ですよ」
呆れたように、彼女は本に視線を戻してしまう。
その後、南奈が部屋に入るなり服を脱ごうとし始め、説明するのに高俊が襲われそうになり、そのまま彼は逃げるように帰宅するのだった。
――――――
歌を口ずさみながら、楽しげに玉葱を炒めるエプロン姿の女性、時計を見ればもうすぐ彼女の弟が帰宅する頃、文化祭の準備が終わっても帰りが遅いことを、今日こそ注意するぞと、弟にとって親代わりである彼女は少し意気込む。
その時、玄関で扉が開く音がする、ピクンとその音に敏感に反応すると、コンロの火を消してパタパタとスリッパを鳴らしながら玄関に向かう。
「おかえり」
姉が満面の笑みで弟である高俊を出迎えると、彼は少し疲れたような顔をしながら返事をする。
「ただいま」
高俊の姉、神崎流美は先程までの意気込みを思い出して、慌てて困ったような顔をして軽くお説教をしようと口を開く。
「あのね……」
「姉さん、先に帰って来たら鍵を閉めておいてって言ったよね?」
しかし、姉の言葉より同時に喋りだした弟の言葉の方が大きく、彼女の言葉はそれに掻き消されてしまう。
「あ…うん」
流美は少しシュンとしながら返事をする。
「最近は物騒だから家に居ても鍵を閉めておかないと、何があるかわからないからさ」
何度言ってもそれを聞かない姉に、弟は仕方ないと言うように溜め息を吐き出す。
「でも、トシちゃんがすぐに帰って来るから」
彼女は人差し指の先をすり合わせながら言い訳をするが、彼は靴を脱ぎスリッパに履き替えながら、それに返答をする。
「それでも、キチンと鍵を閉めておいて、俺は姉さんが心配なんだよ」
彼がそう言うと、さらに姉はシュンとした顔をして俯いてしまう。
少し言い過ぎた、彼はそう思い姉の頭に手を乗せる。
「次から気をつけて」
クシャクシャと流美の頭を撫でながら、出来るだけ優しく笑いかけると、彼女は小さく頷く。
高俊はそれを確認して、自分の部屋へ向かう。しかし、彼は自分のこの行動が、姉が毎回言うことを聞かない理由であるを知らない。
残された流美は高俊の手が撫でていた自分の頭を触り、高俊が部屋に入る音を聞いてから小さく呟く。
「今日も撫でられちゃった」
明日も鍵を開けておこう、彼女はそう心に決める。
―――――――
今日の神崎家の夕食は流美特製のトマトスープのシーフードパスタ。それを食べながら流美は今度こそ注意しようと機をうかがい、そして話を切り出そうと口を開く。
「トシちゃん、あのね……」
「そうだ、姉さん」
またもやタイミング悪く、高俊が話し出してしまう、こうなると流美は押しが弱くなる。
「なに?姉さん」
高俊に彼女の声は届いているが、手を振って話を譲ってしまう。
「大丈夫、トシちゃんからどうぞ」
いつも弟に対して押しが弱い、大学の学友やバイト先の人達にはそんなことはないのだが、唯一高俊に対して強く自分の意見が言えない。
「わかった、えっと」
フォークをくるくると回してパスタを巻き付け、流美はどうお説教しようかと考えながら、弟の話を聞いている。
「明日からお弁当は簡単なものでいいから」
どうせ、詞生に食べさせることになるのなら手の込んだものでなくていい、そう思い高俊は言う。
しかし、その彼の言葉になめらかに動いていた姉のフォークがピタリと止まり、彼女の頭が一瞬真っ白になった。表情には出ていないが流美は相当焦り始める。そして、弟が言った言葉に含まれた真意を考える。
(なんで、そんなことを言うの?)
そう考える彼女の頭の中ですぐに三つ仮説が立つ、"朝早起きしている自分を気遣っている"、または"うちの家計を気にしている"、またはその両方のどれか。そして、そのいずれにせよ流美にとっては一大事だった。
(ダメダメ、トシちゃんは育ち盛りだから、ちゃんと食べないと)
もう弟の帰りが遅いのを説教することなど、流美の頭から飛んでいる。
「わかった!お姉ちゃん、頑張るから」
流美は弟を真剣に見つめながらそう言う、高俊は話の内容が食い違っている姉に対して首を振る。
「いや、頑張らなくていいんだが」
「大丈夫、お姉ちゃん家計簿も付けてるから」
完全に食い違う二人の会話、高俊は悪い予感しかしないことに溜め息を吐き出す。
――――――
文化祭を明日に控えた今日は、午前放課だが文化祭の準備のある生徒は残ることになっていて、前日と言うことも相俟ってほぼ全校生徒が普段より遅く帰る事になる。
そんな日にも、詞生は高俊の教室を訪問して、今日は高俊の前に来るまでに先輩の女子生徒からお菓子などを貰っている。クラスが早くもこの状態に順応し始めていた。
高俊の方はクラスメートから「詞生ちゃんを食べちゃダメよ」とか、「節度あるお付き合いをするんだよ」とか、冗談混じりに言われるが、内心では食われそうなのは俺の方だ、と教えてやりたかった。
そして、自分の向かいの席に座った詞生が弁当を広げるのを見て、嫌そうな顔をしながら鞄から自分の弁当箱を引っ張り出して広げる。
「今日は一段と豪華ですね、重箱ですか?」
詞生はドンッと置かれ、机のほとんどを占領している高俊の弁当箱を見て苦笑いする。
高俊が昨晩言った姉への言葉は完全に思惑とは逆方向へ作用していた。
「頑張ったんだとさ」
朝、満面の笑みの姉がこの異常な重さと大きさの弁当箱を渡してきた時点でこうなることは予測できた。
「じゃあ、遠慮なくいただきますね」
ひょいひょいと高俊の弁当箱から詞生が料理を取っていくが、その量は減る気配がない。
「食い切らないと泣きそうだな」
どう考えても食べ切れるような量ではない料理に溜め息を吐き出して、見ているだけで腹が膨れそうな弁当箱から一口、二口と料理をつまむ。いつも、並の定食屋よりも旨い料理を作る流美だが、今日はそれにも増して料理が美味い。
「これは昨日と比べても、一段と美味しいですね」
「いや、だからと言って、食いきれないだろ」
彼女は高俊に向かって親指を立てて、「頑張ってください」とエールを送る。そんな彼女に「元はと言えば」と言いそうになるが、そんなことは詞生にはまるで関係のないことだと考えて開きかけた口に料理を詰め込む。
「そういえば高俊さん、一年生の学年新聞に素敵な事柄が記載されていましたよ」
箸を置いてゴソゴソとポケットから、四つ折にした紙を取り出して、それを広げる。
「なんだ?」
箸でエビフライを摘んだままで、その紙に書かれた文字を読む。
白黒印刷の記事には写真や見出しが書かれ、一年の学年新聞には珍しく新聞らしくまとまっていた。
そして、その一番の見出しが『牧野南奈、二年の先輩に片思い中!?』と書かれており、それを読んだ瞬間高俊が渋い顔をしながらザクンッとエビフライをかじる。
高俊の反応を確認して、詞生は愉快そうに笑って、その記事の詳細を読みはじめる。
「えっと、一学年の成績トップで、生徒会役員までこなす才色兼備な彼女に今までなかった、恋の話が浮上してきた。一流企業の社長を父に持つ彼女は高嶺の花であり、多くの生徒たちが告白もせずに諦めていた。しかし、一昨日の昼休みにことが起こる、本来呼び出しとは無縁である彼女が指導室へ呼び出される事態が起きた。事情をよく知る人物に話を聞くと、その時二年の生徒が一緒に指導室に呼び出されていたことを、私たちに証言してくれた」
「おい、それを証言したのお前だろ?」
エビフライの尻尾を弁当箱の端に置きながら睨むように彼女を見る。
「でも、嘘は証言していませんよ」
そんな彼の言葉を意に介す様子もなく彼女は言い、そして記事読みを再開する。
「我等、一学年新聞発行係はその二年生の正体を独自に調査し、その結果一人の生徒が浮上した。しかし、その生徒は昼食を牧野南奈とは別の一年生徒と食べているらしく、そのことを考える限りでは、牧野南奈の恋は片想いか、その男子生徒の二股かのどちらかとなる。どちらにしても今後の調査が必要となる、だってさ」
「おい、情報提供者、いい加減にしろよ」
今度は唐揚げを箸で挟みながら彼が言うと、彼女はさらに愉快そうな顔をする。
「いい加減じゃないですか?」
「どこがいい加減だ、話題作りからなにもかも、お前が仕組んだ結果だろ」
彼の言葉に心底楽しそうに彼女は笑う。
「全部、高俊さんの行いの結果ですよ、それに南奈の方も、朝から自分にも可能性があるんじゃないかって勘違いした男子から告白とかされて、大変みたいでしたよ」
「そりゃあ、くだらない話だな」
不快そうな顔で高俊が言うが、詞生が「また、そんなこと言って、高俊さんにも関係ありますよ」と高俊が聞いてもいないことを喋り出す。
「南奈は高俊さん一筋ですから、高俊さんが知らぬ間に南奈がフッた相手の恨みを買うことになりかねませんよ」
「まったくもって、迷惑な奴だな」
唐揚げを口に放り込み、今度は煮物を摘みながら、溜め息混じりにそう呟く。彼のそんな反応を見ながら詞生は少し挑戦的に笑う。
「なら、先に私を彼女にしますか?」
少しの間、高俊は彼女を見つめ、そしてフンッと鼻で笑う。
「それは、本気か?」
彼の態度で答えは見えている、それに対して彼女は「七、八割くらい本気です」と話を本気でない方向へシフトさせる。
「お前の場合、九割は遊びだろ」
「どうでしょうね?」
彼を見つめて怪しく笑い、そして思い出したように周りを見渡す。
「そういえば、このクラスには新聞部所属の人は居ないんですか?」
彼女は今までの会話が二年の記事にならないかと、ウキウキした顔をしている。
高俊はそれに対して、横目でこのクラスに居る新聞部の部員を見つけて、そちらに顔を向けて顎で指す。
「あいつだよ」
高俊の向く方向に詞生は顔を向ける。その先には、一組の男女の話を聞きながら、弁当を摘んでいる女子生徒がいる。
彼女は高俊達が自分を見ているのに気付き、無表情のまま手を振る。
「伊勢崎みどりさんですか……」
「よく知ってるな」
手を振るみどりに、応えるように片手を軽く上げながら高俊が言う。
高俊の反応に詞生は呆れた表情を浮かべて、溜め息のように言葉を吐き出す。
「そりゃあ、この学校で一番力のある生徒ですから、知っていますよ」
「へぇ、そうなのか」
高俊は心底感心のなさそうな顔で、これと言って興味のなさそうに呟いた。
「反応が薄いですね」
詞生が不満そうに言うと、高俊がフンッと鼻で笑う。
「反応が薄いとか濃いとか関係なく、あいつは俺にとってただの異性の友人だ。学校内で最も力のあるなんて、あいつには似合わない」
高俊の言葉が詞生のどこか忘れていた、古い心のさかむけのようなトゲに引っ掛かる。そして
チクリ
そんな小さな音と一緒に、心の一部が剥げ穴があき、そこから暖かい何かが流れ出る。詞生にはそれが何なのか自分のことながら理解できない。
手を振るのに飽きたのか、みどりは視線を戻して料理を食べるのを再開する。
「新聞の占い記事担当者では、今の会話を記事にはしてくれませんね」
ふぅ、と小さく溜め息を吐き出す。詞生の何気なく吐き出したその溜め息にどんな意味が含まれているのか、それが詞生本人にもわからず、ただ心が暖かい何かに浸かるのを感じていた。
「では、今度同じ会話を一年のクラスでしませんか?」
詞生は矛盾した心地の良い違和感を感じながら、それを隠すようにいたずらっぽく笑って見せる。
そんな彼女の違和感に気づく様子もなく、乾いた笑いをしながら「勘弁してくれ」と高俊は詞生の提案を拒否する。
―――――
神崎流美は煮物を箸で挟んだまま弁当の上でそれが止まり、突然上の空になってしまう。
「ほら、まぁたぼーっとしてる」
「ホントに高俊君のことになるとダメお姉さんね」
彼女の向かいに座る二人の女性は、今日はやたらと豪勢な彼女の弁当から料理をひょいひょいと奪いながら、溜め息混じりに呟く。
「昨日の夜に流美が十五通くらいメールしてきたよ、全部高俊君に直接聞けばいいのに……」
「アタシの方は五通目以降メールを返さなかったから電話が来た……」
「ああ、だから、私の方には十五通しかメールが来なかったのね」
二人の女性の内、赤みを帯びた短い髪をヘアピンで止めている方が「和泉の裏切り者」と呻くように呟き、恨めしそうに隣で納得している黒いストレートヘアの彼女を睨む。
「そんなの、甘菜の自業自得でしょ?」
和泉と呼ばれた彼女が、ショートヘアの彼女を甘菜と呼んで窘める。そう言われて、甘菜は「むぅ」と不満げな顔をする。
二人は流美の友人、ショートヘアの方は流美と小中学校が同じだった上楽甘菜。
ロングヘアの方は流美と高等学校が同じだった大城和泉。
その二人は、大学が同じになった流美の紹介で知り合い、今までの三人で大学生活を一緒に過ごしてきた。
「なんでトシちゃん、あんな事を言ったのかな」
溜め息混じりに呟くと、箸で挟んでいた煮物がポトリと落ちる。
それを和泉が替わりに箸で挟んで、口に運びモグモグと食べる。
「しかし、いつまでたっても流美は弟君離れができないね」
呆れたように呟いてから、甘菜は自分のお弁当に詰めてあるゴマシオを振った白ご飯を口に含み。和泉も自身の白ご飯に梅干しだけの日の丸弁当を食べる。
二人とも流美の弁当の料理をオカズに食事をしている。
「しかし、あれだねぇ」
「そうね、あれねぇ」
和泉と甘菜が顔を見合わせて同時に溜め息を吐き出してしまう。
「料理が多い」
「食べ切れない」
三人がかりで流美の弁当を食べているのだが、四角い枠の中にはまだまだ料理が残されている。
「この分だと、高俊君の方も量が多そうね」
ほうれん草のお浸しを食べながら和泉が呟くと、隣でうんうんと甘菜が頷いてから、ヒヒッと笑う。
「そうだねぇ、弟君も悪戦苦闘しているだろうね」
それを聞いて流美がムッとした顔になる。
「トシちゃんはちゃんと残さず食べてくれるもん」
「まぁまぁ、それより私たちもこれを食べ切らないとね」
和泉が二人をなだめて、まだ料理の残る箱を苦笑いしながら指差す。
―――――――
「お前、自分の教室に戻らなくていいのか?」
料理を詰め込み膨らんだ腹を摩りながら、高俊が詞生に尋ねる。
「私は見る専門ですから、前にも言いましたよね?」
溜め息を吐き出して、高俊の弁当から飾り切りされた林檎を手に取り食べながら詞生は答える。
放課後であることと、明日が文化祭であるということで、クラス全体に浮ついた雰囲気が満ちて騒がしい。
「あ、誤解がないように言いますが、クラスの出し物を手伝っていないわけではありませんから」
詞生はそう付け加えて、また溜め息を吐き出してしまう。
先程からの違和感が消えない、それに伴い溜め息の回数が多くなってしまう。柔らかい木漏れ日に包まれるように心がぬくい、それ自体は不快ではないのだが、違和感の原因がわからないことが詞生の心を不安定にさせていた。
「そうかい、そいつはなによりだ」
「それより、高俊さんのクラスの準備はいいんですか?」
周りを見回しながら「今のところ、準備をしている様子がありませんけど」と付け足して、首を傾けながら高俊を見る。そう言われて机の上を片付けながら彼は肩をすくめる。
「準備していないなら、大丈夫なんだろうよ。あいつらが残っているのは、今が明日への前夜祭だからだよ」
少し投げやりに、けれど今のクラスの空気を楽しんでいるように笑って見せる。
「前夜祭ですか」
明日の行事に心を踊らせて、笑いの絶えないクラスを二人で眺める。
主催する側のイベントは準備をしている時が一番楽しい、それを体言しているようにクラスメートは楽しげに騒いでいる。高俊はそれを一つ外から見ているような顔をしている。クラスの浮かれた空気、その中に居てそれを楽しんでいるのだがきちんと馴染めていない、今の彼はそんな顔をしている。
「まぁ、この雰囲気は嫌いじゃないさ」
鞄に弁当箱を詰め込み、替わりにスケッチブックを取り出して、白紙のページにクラス全体を眺めながら鉛筆を素早く走らせる。
クラスを眺めるその顔は、仏頂面でその表情を見ていた詞生には、彼が何処を見ているのか掴めなかった。焦点をクラスそのものに合わせて居るような、何処も見ていないような、そんな吸い込まれるような瞳を彼はしていた。
「高俊さん」
不安になり彼の名前を呼んでしまう、すぐに詞生は集中している彼へ言葉を発してしまったことを後悔する。
「どうした?」
しかし、彼女の予想とは裏腹に、彼は気にする様子もなく、視線はクラスに向けたまま、手も止めずに返事をする。
「あ、いえ……えっと、明日文化祭をご一緒しませんか?」
高俊の絵を描く姿に圧倒され、言葉を詰まらせながら彼を誘う。
「別にいいが、牧野さんは一緒か?」
視線は何処へ向いているのかわからないが、高俊の表情が自身を皮肉るように歪む。それを見て少し詞生はホッとする。
「彼女は生徒会の仕事で明日は忙しいらしいですよ、高俊さんは南奈のことが本当に苦手ですね」
「そりゃあ、会う度にアレだからな……」
「彼女のアプローチは情熱的ですからね」
「情熱的とは、別なもっと直接的な行動だと思うんだが」
「もっと直接的ですか……求愛行動?」
「求愛行動か……正直、俺を標的にしてほしくないな」
少し鉛筆を動かすのを止めて、小さく溜め息を吐き出して、そして再度手が動き始める。
「それは無理ですよ、求愛行動というのは特定の異性にするものですから」
口元を吊り上げながら「まったく本当に残念ですね」とクスクスと笑う。
「お前、本心で話したらどうなんだ?」
「本心ですよ、高俊さんも正直に喜んだらどうですか?」
「お生憎様、俺は捻くれているんだ」
「じゃあ、私は正直者なんですよ」
高俊がフゥと細く息を吐き出して、ニィと笑う。
「お前は嘘つきなんだな」
「高俊さんも嘘つきですね」
高俊と同じような顔をして詞生が言い返す。
クラスを虚ろに見ていた彼の視線の焦点が合い始める。
「まぁ、こんなものかな」
少し満足そうな顔で自分が黒く汚したスケッチブックを眺める。
「どんなものですか?」
詞生は身を軽く乗り出してスケッチブックを覗き見る。
教室の中を楽しそうに踊る女子生徒が描かれている、所々でコマ撮りされたように動きが描かれ、全部で14回描かれている。
「これって」
顔や細部までは描かれていないが、14回描かれている絵の中の女子生徒に違和感を詞生は感じた。それは、描かれた女子生徒は背丈や体格、髪型などがそれぞれ全て違うことが理由だった。
詞生がバッと顔を上げてクラスを見回すと、絵の中に描かれた生徒たちが楽しげに笑いながら、そこにいた。
詞生は数えていないが、その時にいた女子生徒の数は14名、実際には踊ってはいないが動きのモデルにしたのは一番忙しく動き回っていたクラス委員長、彼はその足取りと同じ場所に踊っているクラスメイトを描いていった。
「ふむぅ、女子生徒ばかりなんですね」
少し幻滅気味に呟いて、高俊を上目遣いに見つめる。
「男子が踊っていてもどうしようもないだろ?」
「そうでしょうか、男子生徒も需要があると思いますよ」
「需要って、お前なぁ……」
ふぅ、と細く溜め息を吐き出して、呆れ気味に詞生を見つめる。
「需要とかそんなモノで絵を描く気はない、それにこれは完成させるつもりはないんだよ」
高俊に見つめられて、詞生は身を乗り出すのをやめて椅子に深く座る。
「未完成のままでいいんですか?」
「まつりごとは始まらず終わらないのが一番楽しいだろ、だから今は完成させない」
スケッチブックを閉じて、楽しそうに自分のクラスメート達を見つめる。詞生には高俊がこの空気には馴染めないが、今を彼なりに楽しんでいるように思えた。
「なるほど、確かにそうかも知れませんね」
ゆっくりと立ち上がり、高俊に笑いかける。
「その絵を見ていたら、自分クラスが恋しくなってきました。明日は一時にあの部屋でお待ちしています」
彼女特有の悪戯っぽい笑顔のままで、高俊の描いた彼女達のように軽いステップを踏みながら教室から出ていく。
詞生は自分の教室に向かいながら、あのスケッチブックに自分が描かれることを考え、『ジュンッ』と心が濡れるのを感じた、その感覚は高俊に感じていた心地のいい違和感に似ていたが、それ以上に痺れるように甘美なものだった。
―――――――
時間は止まらない、楽しい時間はいつしか始まり、いつしか終わる。
今日の文化祭も同じで、もうすぐ校内が開放されて、明後日には終わっていつも通りの日常に飲み込まれてしまう。
それでも企画者達や主催者達も、そして参加者も非日常的な今を求めて、そこへ集まるのかも知れない。
「だる」
クラス全員に学園祭の全ての出し物や催し事の書かれた冊子が配られ、今日巡る予定などを友達同士で話し合っている。
しかし、やはりと言うべきか高俊は少し外れた位置に立っている。
「高俊、お前テンション低いな」
すると、突然背後からドンッと叩かれる。
「騒がしいな、今日の俺はこれでも高い方だ」
高俊が面倒くさそうに溜め息を吐き出してから、振り返り自分の背中を叩いた昭久の方を見る。
「もうすぐ開園だろ、一緒に楽しもうぜ」
高俊は彼の言葉を半分くらい聞き流す、「ナンパ」や「三年と一年が」など聞こえてくるが、大体を適当な生返事でやり過ごす。
しかし、次の昭久が言った言葉は聞き逃せなかった。
「あれ、高俊のお姉さん達じゃないのか?」
それにピクリと反応して窓の外に視線を向ける。
「ああ、確かに俺の姉さん達だ」
昨日からソワソワしていたと思ったら、案の定弟に秘密で学園祭に来て驚かそうと考えていたのか、と高俊は思い。同時に入口ですぐに教師に捕まり口論をして目立っている辺り、間の抜けているとか考えてしまう。
「お、本当だ、甘菜さんもいる、挨拶しておかないとかな」
「和泉さんいる、メガネ?」
昭久を押し退けながら葵が、高俊の腕に掴まりながらみどりが、ヒョコリと顔を出して窓の外の三人を見つめる。
「ねぇねぇ、高俊君どうするの?今日は一年生ちゃんとデートでしょ、お姉ちゃんとの鉢合わせは危ないような気がするな」
肘で高俊の脇を突きながら、葵はニィと粘っこい笑いを見せる。
「まぁ、そうだが……どうにか、なりそうな気がする」
別に咎められることなど、一つもないのでケロッとそんなことを言うと、葵は驚くよりも驚愕に近い顔をする。
「いつも慎重な高俊君が姉に対して強気なんて、さてはあんた偽者だね」
そんな軽口を叩いていると、学園祭開催のアナウンスがかかる。
「ぞろぞろと入って来るね」
土曜日だけあって一般の参加者も次々に校内へ入ってくる。
そんな場景を虚ろに見つめている高俊の腕を、みどりがグイッと引っ張る。
「ん、どうした?」
顔をそちらに向けると、いつも通り表情の変化が乏しいみどりがジッと彼を見つめる。
「助言欲しい?」
疑問形を疑問形で返されるが、高俊は気にする様子もなく手を差し出す。
「そうだな、もらうよ」
彼の差し出したその手を小さな両手でキュッと包むように握り、唇を少し尖らせて目を閉じる。
高俊が、この時期のみどりは手が温かいな、と考えている内に彼女はゆっくりと目を開いて、再度その瞳に高俊を映す。
「三年四組オリジナル、デラックスプリン&チョコレートクレープ、生クリーム&カスタード盛り盛りスペシャル」
無表情のままでみどりは謎の呪文を唱える。高俊が理解出来たのは、三年四組はクレープ屋で、自分は今の呪文をその店先で唱えればよいのだということくらいで、それによりどんなことが起きるのか想像もできない。
「名前だけで、胃がもたれそう」
口元を押さえて、ウップと葵が呟く。
「俺はソイツを買って食えばいいのか?」
予想範囲から大きく外れた助言に、高俊は困ったような顔をする。みどりはそんな彼の瞳を見つめながら、彼の手をまるで子猫を扱うように両手で優しく撫でる。
「そう」
短い返事をして、彼の指と自分の指を絡み合わせる。
「ところで、みどり」
「なに?」
「あまり人の手で遊ぶなよ」
そう言われた彼女は高俊の顔と手を交互に見つめて。
「わかった」
と呟き、スルスルと絡み付いた指を彼の手から解いていく。
「いい子だ、とりあえず三年の出し物でも見ながらクレープを買いに行くか」
高俊がみどりに遊ばれていた自分の手を握ったり開いたりしながらそう言うと、葵と昭久はニコニコしながら、みどりは無表情のまま手を振る。
「いってらっしゃい」
「頑張れ」
「味の感想よろしく」
口々に言って高俊を送り出そうとする。
「一人で行けと?」
「だって、友人が三年四組オリジナル、デラックスプリン&チョコレートクレープ、生クリーム&カスタード盛り盛りスペシャル、なんて注文したら恥ずかしいじゃない」
葵はそう言った後「高俊君がそれを赤面しながら注文している姿は、見てみたいけれどね」と付け足してニィと笑う。
「わかったわかった、一人で行ってくるよ、姉さんに会ったらよろしく言っておいてくれ」
高俊は片手を振りながら教室を出て行き、三人が残される。葵は彼が去った後、少し不満そうな顔をしながら、みどりの耳元に顔を近付ける。
「これで良かったの?」
葵の言葉にみどりは目を丸くして、葵が何故そう言うのか意味が理解できないという顔で首を傾げる。
「何が?」
そんな顔をして聞き返されてしまうと葵は何も言えずに、歯痒い気持ちになってしまう。
「三人で一年二組の喫茶店に行こうぜ」
そんな二人の横でヘラヘラと笑いながら言う昭久が彼女の目に入り、その歯痒さと鬱憤を晴らすために彼のスネに踵で蹴りを入れる。
―――――――
三年の階は、さすが最高学年というべきか、最後の学園祭ということもあってか、どの出店や出し物も活気に溢れている。
行き過ぎて何か起きなければいいが、と考えながら高俊は廊下を歩く。
すでに一組と二組の出し物を巡り、自分の教室を出てから大分時間が経過している。
一般参加者も廊下を歩く、別の制服を着た他校の生徒や、子供連れで遊びに来た家族、見慣れた学校に見慣れない人達、それに違和感を感じて少し周りを見渡してしまう。
「っ……」
見渡した先に彼の知る人物が立っていた。正確には立っていた訳ではなく、その人物も歩きながら周りを見渡していて、ちょうど視線を向けた先で高俊と目が合っただけである。
高俊は逃げる訳にもいかずに、諦めたように溜め息を吐き出す。
「高俊先輩、こんな所でお一人ですか?」
「牧野さんこそ、こんな所でお一人ですか?」
おうむ返しのように高俊は質問を聞き返す。
優等生な後輩はそれを気にする様子もなく、柔らかく彼に笑いかける。
「はい、実行委員会の見回りです」
実行委員と書かれた腕章を指で引っ張って彼に見せる。
「それはご苦労様、忙しそうだし、俺は退散するよ」
高俊がそそくさと彼女の前から歩き去ろうとするが、彼のその手を南奈はギュッと握る。
「高俊先輩は一人みたいですし、もう休憩時間になりましたので、お茶をご一緒してくれませんか?」
上目遣いで見つめ、上品でありながら少し甘えたような声を出す。
「お茶と言っても、場所がないだろ」
負けじと抵抗の言葉を吐き出すが、彼女はクスクスと笑い、彼の背後を指差す。
「高俊先輩の後ろにうってつけな場所がありますよ」
そう言われて彼がバッと振り返ると、『珈琲専門喫茶店、三々』という看板が目に入ってくる。
「ちっ……まったく散々だよ」
毒づくように呟くが、南奈に手を引かれて、今日だけ喫茶店になっている教室に入って行く。
―――――――
「マンデリンを」
「ブルーマウンテンを」
店員の生徒に席へ案内されると、そのままメニューも見ずに二人はそのウエイトレスに注文する。彼女は少し面食らったような顔をするが、すぐに注文を繰り返し、一礼をしてから席を離れる。
「先日は申し訳ありませんでした、舞い上がってしまって」
服を脱ぎながら抱き着いた先日のことを、モジモジと恥ずかしそうに話し始める。
「高俊先輩が私をモデルにしたいと言うから、私我慢できなくて」
「……もっと自制してくれ」
高俊は彼を見つめている南奈から目を少し逸らしながら、小さく溜め息を吐き出す。
「無理ですよ、これでも自制している方ですから」
そんな二人の横に先程のウエイトレスが立ち、二人の前に珈琲を置いて「ごゆっくり」とお決まりの台詞と共に頭を下げて、そこから立ち去る。
高俊は明らかに不満そうな顔をしながら、湯気の立ち上るカップを掴み、口に含む。
そんな高俊を直視出来ないのか、南奈は彼の胸元を見ながら話を続ける。
「あの、私……高俊先輩に聞いて欲しいことがあって、聞いてもらえますか?」
高俊はそれに対して、鼻でハンッと笑う。
「聞かないと言っても勝手に話すんだろ?」
「わかっていただけているなら、話が早いですね」
そう返事を返されて、高俊はこの状況に慣れてきている自分に落胆してしまう。
そんな彼をまるで知る様子もなく、南奈は真剣な顔をして口を開く。
「私、すごく詞生ちゃんのことが好きなんです」
高俊は何を今更と言いたそうな顔で南奈の真剣な顔を見つめ返して、適当に返事を返すことにした。
「はいはい、それで?」
「もちろん、一人の人として詞生ちゃんのことが好きです。ですが、それ以上に女性として、いえ、恋愛の対象として彼女が好きです」
彼の適当な返事に対して、真剣な顔でとんでもないことを彼女は口にする。
この時、南奈の顔が娼婦の顔にでもなっていたら、収拾がつかなくなっていただろう。
「それで、俺に話してどうするつもりだ?」
雲行きの怪しい会話に少し危機を感じながら、落ち着けと自分に言い聞かせながら南奈が続きを話すのを待つ。
「高俊先輩に話す理由ですか、それは高俊先輩に私たち二人の接着剤になって欲しいからです」
南奈の言葉が理解できずに、高俊は「は?」と間抜けな声を出してしまう。
「私は詞生ちゃんが好きです。でも、詞生ちゃんはきっと私を友達と考えています、だから私は二人の間に入る接着剤が欲しい」
「……なるほど、その適任が俺なわけだ?」
頬をピクピクと引き攣らせながら聞き返すと、グイッと身体を乗り出して、南奈が我慢できなくなったのか、唇に触れるか触れないかの位置で、淫靡な笑顔を顔に貼付けて高俊を見つめる。
「ええ、詞生ちゃんが興味を持った人ですから、それだけで私には高俊先輩が美味しそうで魅力的な媚薬に見えます」
呟くように囁くと、身体を椅子に戻し、同時に顔もいつもの優等生になる。
「だから、私は高俊先輩が好きなんです」
「不純すぎるだろ」
落胆しながら、すっかり冷たくなってしまった珈琲を喉に流し込む。
――――――
喫茶店の支払いを済ませて、高俊はいよいよ三年四組に向かう。
「高俊先輩、今度はクレープですか?」
余計な後輩が彼の後ろをついて歩いているが、出来るだけ無視をする。
「もう、無視しないで下さいよ」
溜め息を吐き出しながら、後ろで膨れたような顔をしている南奈に少し視線を向ける。
「仕事はいいのか?」
自分に視線を向けた高俊に満足そうに笑いかけ、彼の横に駆け寄りながら手を握る。
「大丈夫です」
「そうですか」
握られた手を振り払おうとも考えるが、それはそれで不自然になり視線を集めそうな気がしたので、その試みを断念して、甘い匂いの漂う教室へ入る。
いらっしゃいませと笑う店員がメニューを差し出すが、それを見ずに一息吸い込み暗記していた呪文を口に出す。
「えー、三年四組オリジナル、デラックスプリン&チョコレートクレープ、生クリーム&カスタード盛り盛りスペシャルを一つ」
呪文を唱えると、店員の顔が凍り付く。クラスの出し物として冗談程度に作ったメニューだったため、店員がそれの存在を忘れており、その存在を思い出すのに時間がかかっていた。
「……あ、はい」
店員は、そういうメニューがあることを思い出すが、この人が一人であのクレープを食べるのかと、少し顔を歪める。
高俊がなんとも言えない居心地の悪さを感じていると、キュッと自分の手が締め付けられる。反射的にそちらへ顔を向けるとニッコリと笑う南奈と視線が合う。
「ねぇ、二人で食べ切れるかな?」
突然彼女が敬語を使わずにそう言い、彼は面食らったような顔をする。
困惑する高俊の手を南奈はもう一度軽く握り締め、音には出さずに口を「話を合わせてください」と動かす。高俊は少し戸惑いながら言われた通り、しどろもどろに話を合わせる。
「あ、ああ、どうだろうな?」
二人の会話を聞いて、店員は少し納得したような顔をする。
「少しお時間いただきますが、よろしいですか?」
注文した彼は別に食べたくないが、隣の彼女にねだられ仕方なくついて来たと、店員は考えていた。
「わかりました」
二人は手近にあった椅子にへ向かい、そこに並んで座る。
「高俊先輩は手が大きいですね」
彼女はゆっくりと高俊の手に指を絡み付ける、教室は騒々しく二人の会話に耳を傾ける人など何処にもいない。
「始めて握った時も思いましたけど、やっぱり大きい」
モゾモゾと指を動かして、切なそうな顔をして彼を見上げる。
「あれ、ペンダコ……」
彼女は違和感を感じ、少し嬉しそうな顔をして、彼の手に自分の手を擦り付ける。
「高俊先輩、何か喋らないと不自然ですよ」
彼に寄り添いながら、教室の甘い匂いが比較にならないほどの、甘ったるい声で囁く。
握っている手は二人の汗でジットリ濡れているが、彼女は気にする様子もなく、そのままヌルリと彼の手を手の平から手の甲へ、関節から手相の溝まで丁寧に愛撫する。
「……別に、どこにでもあるような手だろ」
辛うじて高俊はそう言うが、彼女はそれに対して嬉しそうな顔をする。
「そうでしょうか、私にはとても愛おしいですよ」
耳を擽る甘い声と頬にかかる彼女の熱い吐息、右手からはゾワゾワと寒気に似た快感が手から上がってくる。
「お待ちの方、出来上がりましたよ」
店員が言ったその一言は高俊からすれば、この状況からの抜け出せる救いの言葉に間違いなかった。
高俊は立ち上がりそれに引っ張られるように南奈も立ち上がる、彼は財布を取り出すために右手を彼女の手から離すことに成功する。
「九百八十円になります」
店員が言った予想外の高額な値段に吹き出しそうになるが、あくまでも冷静に財布から千円札と十円玉を三つ取り出して店員に渡す。
店員は慣れた調子で、それを受け取り五十円玉を高俊に渡す。
「五十円のお返しと、こちらが商品になります」
出された巨大なクレープを見て、高俊の頬がヒクリと動いてしまう。
「おっきい……」
クレープを見て、南奈は目を見開いて小さく呟く。
高俊は五十円玉を手早くしまい、その見ているだけで胸やけをしそうなクレープを受け取って、南奈の手を引いて足早に教室から出ていく。
――――――
「高俊先輩は甘い物が好きなんですか?」
巨大なクレープをどうやって食していこうかと悩んでいる高俊に、南奈はニコニコと笑いながら尋ねる。
「甘い物が嫌いな奴も珍しいだろ」
とりあえず頭から食べることを決めながら、南奈に応える。
「高俊先輩が珍しい部類に属している可能性もありますよ」
「残念ながら、俺は例外には属していない」
三枚重なっているクレープ生地に食いつき、モシャモシャと食べていく。
クレープ自体はまずくないが、如何せん量が多い。一口食べて高俊はそんな感想を持つ。
「なら、今度何か作ってみますね」
急に、繋いでいた南奈の手が熱くなる、彼女は身体を縮めてモジモジと身体をくねらせ、今まで高俊へ視線を向けていたが、今は恥ずかしそうに顔を伏せている。
「お前は忙しいだろ、無理するなよ」
そんな彼女に少し疑問を持ちながらも、大量に入っている生クリームやカスタードが食べる毎に出てくる巨大なクレープに悪戦苦闘していて、それどころではない。まるで子供がソフトクリームを食べる時のように、だらし無い食べ方になってしまう。
「大丈夫です、それくらいの時間はあります」
紅潮した顔を上げた先の彼は、頬にクリームの付いた顔でクレープを頬張っている。
「……っ!!」
そんな高俊の顔を見て、南奈はギュウッと彼の手を握って、また俯いてしまう。
「おい、大丈夫か?」
調子の変わった南奈が心配になり、口の中の物を飲み込みながら南奈の顔を覗き込む。
「平気では……ないです」
覗き込む彼の顔を虚ろな瞳で眺める。そして、彼女は苦笑にも見えるような、いびつな笑顔を見せる。
「なら、どこかで休んだ方が…」
「高俊先輩、詩生ちゃんにキスしましたか?」
高俊が喋っている途中で脈絡のないことを早口に口走る。
「何言ってるんだ、今は……」
「じゃあ、謝らないと」
高俊の言葉を無視しながら寂しそうに笑い、何かに取り憑かれたように独り言を呟く。
高俊は彼女の異常状態が恐ろしくなり一歩後退る。
しかし、彼は恐怖していることを彼女に知られてはいけなかった。
結局のところ、その行動が彼女の最後に残った理性の蓋を開けることになった。
バンッ
高俊は一歩だけ後退ったはずだが、廊下の壁に並ぶロッカーに押し付けられてしまう。もちろん、そこに押さえ付けているのは目の前にいる彼女、男女の力の差から抵抗すればすぐに彼女を引きはがせる。しかし、今の彼にはそれが出来ない、彼の思考は一時的に停止しているから。
高俊は、ピチャリと南奈の舌が彼の口内を混ぜる音で微かに思考を取り戻し、反射的に唇を離そうと顔を引く。
タラリと涎が糸を引きながら二人の唇が離れる。
「あ……」
南奈は甘く切ない声を漏らしながら、高俊の唇をねだるように見つめる。
「……もっと」
顔を近づけて高俊の唇に向かって口を開く。彼は痺れるような感覚がある中で、それから逃れようと顔を背けようとするが、彼女の腕が彼の首に纏わり付き、彼女は無理矢理唇に食いつく。
彼女は舌で彼の唇を丹念に舐め回し、開きかけた唇に舌をねじ込み自分の舌を彼の舌に絡み付ける。
「…ん…んっ」
右手にはクレープを持ち、左手は南奈の右手と繋がっている、頭は押さえ付けられて、思考は脳髄を掻き混ぜるような猛烈な口づけでまともに機能していない。
どれくらいの間、唇を貪られたのか、十数分だろうか、もしかしたら十秒もなかっただろうか、錯乱する意識の中で高俊はそんなことを考えてしまう。
彼の感覚が狂ってしまうほどの濃厚な口づけをした彼女は、満足したのか彼の唇を解放する。
「…ふぁ……あまい」
だらしなく涎をダラリと垂らしながら、彼女は幸せそうに笑う。その顔は締まりが無く、他者を取り締まる立場の人がしていい顔ではなかった。
「詩生ちゃんに謝っておいてください」
口を手の平で隠して、ジュルリと垂れた涎を啜り、その場から小走りに去っていく。
残された彼は、ガクリと膝を折りその場に尻餅を付きそうになるのを、必死に堪える。
周りの目がコチラに向いているのを感じて、涎でベットリと汚れた口にクレープを押し付けて隠し、転がりそうになりながら三年の階層を走り抜ける。
――――――
「くそっ」
無理に走ったせいで、詩生と待ち合わせた場所に到着した頃にはフラフラと足どりが覚束ない。
ガラリと旧校舎の図書室の扉を開くと、先に来ていた詩生が本のベッドの上に座って彼に視線を向ける。
「随分と楽しそうですね」
息を切らし、制服は乱れ、片手に食べかけのクレープを持ち、口にクリームを付けている彼に彼女は笑って見せる。
「楽しそうか?」
フラフラと歩いて、高俊は手近にあった椅子に腰掛ける。
「ええ、クリームを付けて、服がヨレヨレに乱れて、髪がグシャグシャになった、小学生みたいで楽しそうですよ」
本のベッドからゆっくりと起き上がり、スタスタと高俊に歩み寄る。
「そりゃあ愉快で楽しそうな小学生だな。ところで、お姉ちゃんはクレープお好きかな?」
掠れた笑いを吐き出しながら、右手に持った食べかけのクレープを詩生に差し出す。
「好きですよ」
彼の手からクレープを受け取り、一口食べてニコリと笑う。
高俊はうなだれ、全身の力を抜いて肺の中に溜まった鉛のような空気を吐き出している。
そんな彼を不思議そうに見つめながら、彼女はモフモフと受けとったクリームやカスタードがタップリ入ったクレープを食べる。
「ん、高俊さん…何か付いてますよ」
口の周りにクリームを付けた彼女が、彼の襟に何か挟まっているのに気付き、手を伸ばして引っ張る。
それは小さく畳まれた一万円札だった。
「一万円札なんて襟に挟んで、どこぞの大泥棒ですか?」
高俊は彼女の広げた一万円札を見つめる。もちろん自分で入れた覚えはないが、つい先ほど会っていた女子生徒が、忍び込ませたのだと考えて、落胆してしまう。
「残りの支払いだ、受け取れよ」
正直、その札を自分で持っていたくなかった、そのため投げやりに言い放つ。
「……高俊さん、もしかして買われましたか?」
困りましたねと言いたそうな顔で、彼女は一万円札をポケットに詰め込む。
「誰にも売った覚えはないさ、ただ泥棒さんに憧れてるだけ。そういえば、牧野さんがお前に謝っておいてくれと言っていたぞ」
彼がそう言うと、彼女はポケットの中でクシャリと一万円札を握った。
「そうですか」
売った覚えはない、それが詩生にとってすべての答え、だから彼は無理矢理買われたことになる。
「抜け駆けされちゃった」
自分の飼い犬が他人の餌を食べていたような、複雑な気持ちになりながらボソリと呟く。
「何か言ったか?」
彼は彼女たちの目的も知らない、ただ知ったところで彼に拒否権はなく、ただ二人の間で接着剤になることしかできない。
「いえ、まだ襟に何か付いてますよ」
高俊に手を伸ばして、身体をゆっくりと屈め、彼の頬に手を触れる。
「ん?」
高俊が顔を上げると、詩生に唇を塞がれる。
南奈より冷たい唇、そして軽い口づけ。
「キスって、やっぱりあまいんですね」
唇を離して、口の周りに付いたままのクリームを、指ですくって舐めながら彼女は笑う。
「……生クリームだろ」
「カスタードかもしれませんよ」
高俊の膝に座り、彼の顔に付いているクリームを指で取って舐める。
「チョコレートかもしれないな」
脱力してされるがままにしていると、彼女はクレープをすべて口に入れて飲み込む。
「なら、確かめてみます?」
自分の唾液が付いた指で彼の髪をくしゃくしゃと撫でる。
高俊は返事をせずに、二人とも無言で見つめ合う。
そして、詩生がクルリと逆を向いて高俊に寄り掛かる。
「では、初回のサービスはこれくらいにしておきます、またのご利用をお待ちしていますよ」
高俊は苦笑いして「次の利用は無いことが望ましいな」と旧校舎の図書室の高くもない天井を眺めながら呟く。
中途半端な部分で切れていて申し訳ありません、文章の方は出来るだけ早く書き綴りたいと考えていますので、何とぞよろしくお願いします。