み:身の程を知れ
「身の程を知れ」
脳裏に父の厳格な声の響きがよみがえる。
この言葉を言われたのは、いくつのときだったろう。
「己を知らぬものほど、身の丈に合わぬ欲を抱く」
他の兄弟姉妹もそろっているなか、一人ひとりを見回すようにして、父は続ける。
「他を知り、己を知れ」
繰り返し、繰り返し言い含められる言葉。
いったい、父はどんな気持ちでこの言葉を子供達に言い聞かせたのだろうか。
深く、多くの意味を含んだこの言葉の意味を正しく理解したいと思ったとき、ばらばらになった兄弟姉妹たちを探すことを決めた。
同じ言葉を聞いて育った兄弟姉妹たちが、今どうしているのか、どうしても知りたかった。
―――
どこでなにをしているのかは全く分からなかったが、手がかりはある。
街を行く人に、左腕の袖を少しめくり、金の装飾を見せてこれと同じような腕輪を見たことがないか、と尋ねる。
「みたことないねぇ、こんな見事な細工なら一度見たら忘れないだろうからね」
細く、肌に直接描いたかのように繊細な腕輪。
物心ついたときからともにあるその腕輪は、微妙に細工が異なるものの、兄弟姉妹全員が身に着けているもの。
父の腕にも同じようでいて、もっと荘厳な細工の腕輪があった。
家を出てから初めて知ったが、同じような装飾の腕輪を持つものにはこれまで会ったことがない。だからこそ、兄弟姉妹たちの居所を探る指標になる。
「すばらしい細工だ。どこかで見たような気がするが、外してもっとよく見せてくれないか?」
同時に、この腕輪は所有欲を抱かせるものだということも知った。
何度、言葉巧みに奪おうとされたか。外せないと知ると、中には腕そのものを切断しようとしたものさえいた。
それでもこれしか兄弟姉妹を探す手がかりはないから、方々で腕輪を見せながら旅しているうちに、同じようなものをつけている人を知っているという子供に出会った。
「もし見つけたらつれてきてあげるって約束してるんだ。おいでよ、僕が案内してあげる!」
うれしそうに手を引く子供のあとに続くと、人里から少し離れた丘の上に、小さな家があった。周囲では大勢の子供達が走り回り、少し大きな子供は水汲みをしたり、洗濯物を干したりと忙しく働いている。
その中に、姉の姿を見つけた。
家を出て行ったときと変わらず、暖かい陽だまりのような明るい表情で小さな子を片腕に抱き、もう片方の手も子供とつないでいる。
姉は、こちらに気がつくと、ふわり、と微笑んだ。
「ようこそ、私達の家へ」
ベンチに誘われて座ると、次々と子供達が集まってくる。
「私の子供達だよ。みんな、私の宝物さ」
全部で12人の子供達が順に自己紹介をしていく。
色とりどりの瞳にみつめられる。中には良く似た子もいれば、肌の色の違う子もいる。
話を聞くと、この街外れの家で畑を耕し、果樹園で果物を育てているのだという。
「うちの作物はこの辺りじゃちょっと有名でね? かわいい売り子達もいるからよく売れるんだ」
姉の言葉に、はにかむように笑う子供達。見渡せば、数多くの野菜が青々と実っている。
幸せなのだな。
姉の顔、子供達の顔を見れば分かる。
それを姉に告げれば、当たり前だろう、と自信に満ちた笑みを向けられた。
「私にできることなんか、限られているけどね。私はこの子達を生涯見守ると決めている。そのためにできることは、全てやるよ」
誰よりも早く生まれた姉は、誰よりも長く父のそばにいた人でもある。その強いまなざしは、父とよく似ていた。
姉と子供達とともに食事をして、一晩とめてもらったあと、他の兄弟の行方を尋ねると、少しだけ嫌そうに眉を寄せて、兄の居場所を教えてくれた。
「あんたには、あんたの道があるんだって事を忘れるんじゃないよ」
見送るとき、泣いて別れを嫌がる子供達をなだめながら、姉がつぶやく。
少し道を行ったところで振り返ると、姉が大きく手を振っていた。日の光を反射して、きらきらと輝く繊細な金の腕輪には、豊穣を示すモチーフがかたどられていた。
―――
姉に教えられた兄の居場所は西へ向かったところにあった。
華やかな王城。
豪華絢爛、芸術の極み、贅の限りを尽くしたその場所に兄はいた。
はじめは兄弟姉妹だといっても通してもらえなかったが、左腕を見せると取次ぎを経て、会うことができた。
久しぶりに会う兄は、相変わらず華やかな美しさの持ち主だった。整った顔は兄弟姉妹の誰も持ち得ない陶磁器のようなすべらかな肌で覆われ、誰もが目を向けずにはいられない華やかな雰囲気を持っている。
「はるばるこんなところまで、よく来たね?」
そして相変わらず、黙ってもっと聞いていたくなるような声をしていた。
その声を心地よく聞きながら、兄の腕の中で眠る女性に目を向ける。
「この女性はね、俺が大切にしたくて仕方がない人なんだ」
愛しげに女性を見つめたあと、部屋の中を見回す。
「この部屋の中のものは、全て彼女が作ったものなんだ。すばらしいだろう?」
絵画、タペストリー、金銀の食器、文机の装飾にいたるまで、一つ一つの調度品全てが芸術的で、何よりそれら全てがこの部屋をひとつの芸術品に仕立て上げていた。
「俺はね、彼女と彼女の才能と彼女の作品の全てが欲しいんだ」
腕に抱えた女性を大切そうに抱きしめながら、兄はどこか暗い笑みを浮かべる。
「身に過ぎる望みだと分かっている。才能あふれる彼女は、きっとどこまでも高みを目指し、どこまでも成長していくだろう。いずれ、彼女の瞳に俺が映らなくなることも分かっている。それでも、俺は求めずにはいられないんだ」
苦悩し深く沈んだ声は、父とよく似ていた。兄の苦悩とは裏腹に、眠る女性は満ち足りているように見える。そしてこの部屋でこうして彼女を抱えている兄は、その全てが一枚の完成された絵のようにさえ見えた。
それを告げれば、兄はほんの少し口元をほころばせる。
この完成間近な芸術品をそっとこのままにしておきたくて、早々に弟妹の居場所を尋ねてみた。
すると兄は興味をなくしたように、腕の中に眠る女性を見つめていたが、辛抱強く待っていると、南だよ、とつぶやいた。
「同じ父をもつ同じ男といえど、あれは血にはやるばかりで、何も生み出さない」
そういって、初めて腕の中の女性から、視線を外してまっすぐにこちらを見つめてくる。
「お前は、お前だ。お前自身の道をいくんだよ」
まっすぐに、直接かけられた言葉は耳を通して、全身に響くようだった。兄はすぐに興味をなくしたように腕の中の女性へ視線を戻す。
これ以上この完成された空間の邪魔をしたくなくて、音を立てぬように、静かに部屋を出た。
扉が閉まる直前に振り向くと、やさしく女性の髪を撫でる兄の腕に輝く繊細な金の腕輪。
そこには記憶に焼きつくほど美しい富と芸術を示すモチーフが描かれていた。
―――
兄の言葉に従い、南へどんどん下っていくと、次第にすれ違う人が増え、その雰囲気も緊張感を含んだものになっていった。
休憩所で一緒になった南から移動してきた女ばかりの家族に南の様子を尋ねると、小さく首を振って南はもうだめだ、と力なく首を振る。
「あっちもこっちも戦、戦でおちおち作物も育てられやしない」
「昔はそりゃぁいいところだったのに、あの男が来てからおかしくなっちまった」
詳しく話を聞くと、南の国に一人の軍人が現れ、あっという間に出世の階段を駆け上がり、悪政をしいていた王を廃して自らが王になったのだという。初めは悪政から開放されることを喜んだ民衆だったが、新王は次々と周辺の部族や町を支配下に置き、他国の領土を奪い始めた。王自ら参戦し支配領域を拡大していくが、戦に男手を取られ税は重くなり、畑を捨てて逃げる女達が増えているのだという。
今、その王はどこにいるのか聞くと、女達は、死体をたどっていけばいい、といった。
どんどん南に下っていくと、次第に道に打ち捨てられた死体が目に付くようになった。その数が多い方向を選んで進んでいくと、いくつものテントが張られ、陣が作られていた。そこにいる男達はみな疲れきった表情をしながら、目だけは鋭く、ぎらぎらと輝いている。
首筋に当てられた冷たい金属の感触に、取り乱さずに済んだのは、ひとえによく知った気配を感じていたからだ。
「なにをしに来た?」
低く太い声はあまり聞き覚えのないものだが、その根幹をなす声音はよく耳に馴染んだもので。
それでも勝手に振り向いたら、やはりさされてしまうのだろうか、と尋ねてみると剣が下げられた。
ゆっくりと振り向くと、記憶にあるよりもずっと逞しくなった弟が立っていた。鎧を身につけた堂々とした体躯は、誰よりも父に似ている。面差しも良く似ていて、実の弟だというのに威厳さえ感じる。
「我を止めに来たか?」
見下ろす視線に首をゆるく振れば、それは良かった、と口の端をゆがめる。
「邪魔をするなら、たとえ兄弟姉妹といえど排除するつもりだったが」
ひやり、と先ほど剣を当てられた部分がその冷たさを思い出したかのような錯覚が起きた。周囲の荒れ果てた様子に目を向ければ、弟は更に遠くを見つめるまなざしで辺りを見回した。
手にした抜き身の剣を掲げる。
「我はこの世界の地図を塗り替える。手始めにこの国を、そして大陸を。世界の全てを手に入れる」
世界を手にしてなにをするのか、と尋ねれば、抜き身の剣越しに睨まれる。
「他の兄弟姉妹たちは、何も分かっていない。父上の言葉の本当の意味を。故に持ちえた力を無駄にしている」
我は違う、と弟はつぶやく。
「父上から授かりし、我が力。この力でもってこの世界を変えて見せる」
どこか遠い目をした弟は剣を降ろすと、剣を持っていないほうの手を差し伸べてきた。
「我が元へ来い」
懐かしささえ感じてしまう、大きくて力強い手。その手をとりたい衝動に駆られて、目を閉じる。
脳裏に浮かぶ、姉の力強い瞳、兄のまっすぐな声。
目を開けて小さく首を振れば、弟は差し出した手を強く握り込んで、暗く笑った。
「どこへ行こうと、なにをしようと、いずれ全ては我が手中に入る。それまで好きに過ごすがいい」
妹がどこにいるか知っているかと尋ねると、嘲笑を浮かべた弟は、島だ、と答えた。
「あれと同じ道を行くくらいならば、永久に己の道を探し続けろ」
それだけを言うと、背を向けて戦場へと歩き出す。
剣を握った太い左腕には戦と王者のモチーフが荒々しく象られた金の腕輪が鈍く輝いていた。
―――
島に居るという妹を探し、いくつもの島に渡った。
海に囲まれた島々はそれぞれ独自の文化を持ち、独自の考え方を持っている。
よそ者を極端に嫌う島があれば、旅人でにぎわう島もあった。
ある小さな島で、「ここへ来たなら神殿をみていかにゃぁ」と老人に勧められ、島の神殿へ案内された。
大きな海鳥と大きな魚をモチーフとした神殿に、息を呑む。繊細でありながら神秘的なその神殿は、見るものに自然と敬虔な念を抱かせる何かがあった。
「ここは静かでしょう?」
懐かしい声に振り向くと、にやり、というのが一番近い表情を浮かべた巫女姿の妹が立っていた。
真っ白な衣装が良く似合う。兄弟姉妹一小柄な妹は、まだ幼い少女のようにさえ見える。
「聞こえるのは、波と風の音、そして穏やかな声だけ」
耳を澄ませば、風が運ぶ波の音が聞こえる。その波の音に、島に上陸したときに見た海で戯れる子供と、それを見守る家族の姿が思い浮かぶ。
よそ者の自分を見て、笑顔で手を振ってくれた子供たち。
この島の人々はみな明るく、人懐っこい。悪人などこの世にはいないというような善良な人々。まるで暖かな箱庭のように見える。
それを妹へ告げようとすると、妹はクスリ、と笑った。
「そうよ、ここはあたしの大切な箱庭。雑音が入らない、特別な場所」
そういって目を閉じ、耳を澄ませる妹の小さな耳には、多くの音が届いているのだろう。昔から、父と妹は他の兄弟姉妹には聞き取れない音を聞いていたことを思い出す。
「『他を知り、己を知れ』」
はっとして妹を見ると、妹は目を閉じ、耳を澄ましたままで言葉を続けた。
「いずれここに来ると思っていたの。他の兄弟姉妹とはもう会ったでしょう?」
己は見つかった?
声に出さない声が聞こえた気がして、妹と同じように目を閉じてみる。風と波の音しか聞こえない。
それでも。
己の中にある思いを言葉にするよりも先に、妹はにっこりと微笑む。
「あたしはこれからも、この島で生きていく。だから、もしまた会いたいと思ったなら、ここへ来て」
これからどこへ行くのか、なにをするのかを言葉にしなくても、妹は心の声を聞き取って先回りをする。
だから何も言わずに小さな妹をそっと抱きしめた。
感謝と、親愛を込めて。
神殿を出て、船に乗るまで見送ってくれた妹の細い腕には、繊細で神秘的な信仰をモチーフにした金の腕輪が煌めいていた。
―――
船の上、波に揺られながら、再会した兄弟姉妹たちの姿を思い浮かべる。
兄弟姉妹たちは、全く異なるそれぞれの道を歩んでいた。
己の道を、己の望みのままに。
まだ、父の言葉の真意は分からないけれど、兄弟姉妹たちのように、己の道を見つけたい。そして、それが己の道だと、誇れるものでありたい。
そう、思う。
風が、強く吹きぬけいく。
捜しに行こう、己の道を。父の言葉の真意を。
そして、終の棲家となる場所を。
船の上。
晴れやかな表情で前を見つめる旅人の腕には、旅と安息を示すモチーフが描かれた金の腕輪が、陽光を受けて鮮やかに輝いていた。