ほ:本気にさせた代償を
いつだっただろう。
何もない世界に、一粒の種が植えつけられたのは。
その芽は逆境にも耐え、健気に少しづつ成長してきた。
そして、俺の中にしっかり根付いた時、それを失う恐怖が芽生えた。
「カディ、ねぇ、カディったらぁ。たまにはさぁ、頑張る可愛い女の子のお誘いを受けてみてもいいと思わない?」
べノン村で、今日も見慣れた光景が繰り広げられていた。
体格の良い長身の青年の周りをくるくると動き回る長髪の少女は、青年の完全無視にもめげず、積極的な誘いを繰り返す。
べノン村では、すでにおなじみとなっているその光景に、周囲の人々も何も言わない。
青年の長い腕に絡みついて、振り解かれそうになりながらも少女はそのまま青年の家の中までついていってしまうが、これに対しても村人たちはなんの疑問も抱かない。
普通なら未婚の男女、しかも相愛関係にない者がひとつの部屋に滞在するなど、有り得ないこととされている。
だがしかし、何千何万回の少女の告白にも全く見向きもしない青年が少女に何かする訳もないということは、もう何年も前から証明され続けているともなれば、村人たちも気にしなくなってしまう。
「ユーシャもいい加減諦めて他の男にすりゃいいのにねぇ」
「カディスもカディスだ。あんなに可愛い子の何が不満だってんだ」
村人たちのこんな声は後を絶たない。
それを知りつつ、いや、知っているからこそ、長髪の少女ユーシャはカディスにつきまとう。
「・・・いい加減にしろ」
家の中に入ってまで腕にくっついてきていたユーシャに言えば、一途な少女はあっという間に策士の顔になって離れて行った。
「なんだ、今日は機嫌が悪そうだね。いいじゃないか、多少くっついたって減るもんじゃなし」
にやり、と笑って勝手に人の食卓から果物を取ると無造作にかぶりつく。一体、この村の何人がユーシャの本性を知っているのだろう。
綺麗な長い髪をもち、優しく働き者なユーシャは近隣の村からも恋のお誘いがあとを絶たない人気者だ。そのどれにも興味がないユーシャは同じように恋愛に興味がないカディスに目をつけた。誰かに誘われるたびに、自分はカディスが好きで好きでたまらないから他の人とは付き合えない、という演技で。
一途にカディスだけを追いかけるユーシャに、次第に周囲の青年たちは諦めて離れて行く。
一方、カディスに想いを寄せていた女性たちもユーシャのためにカディスに近づけなくなった。
ユーシャの完璧な演技と熱心な告白に、村の人々はユーシャと言えばカディス、カディスと言えばユーシャと認識するようになっている。
つまり、ユーシャは勝手に二人を公認の未来の恋人同士に仕立て上げてしまったのだ。
「女たちがうるさいって文句たれていたのはカディスだろう。よかったじゃないか。少なくとも、私が近くにいる間は静かだろう?」
確かに、女たちはうるさかった。
それが一人分に減ると思えば、ユーシャの行動にも目をつむっていたが、最近は目に余る。
無言で睨みつけていると、ユーシャは肩をすくめて、はいはい、とやる気のない返事をした。
「まったく。カディスは照れ屋なんだから・・・っと。危ないなぁ。お椀は投げつける物じゃないだろう。お行儀の悪い男だね」
手加減して投げた椀はたやすく受け止められた。ユーシャはそろそろ頃合か、と残りの果物を口に放り込んで、腕に伝った汁を舐めて、仕事の支度を整えているカディスを残してさっさと家から出て行った。
「・・・男を男と思わん奴が何を言う・・・」
独白は、誰にも届かず消える。
カディスはひとつため息を着くと、仕事に取り掛かった。
ユーシャの二重人格とも言える二つの顔は、カディスにとって子供の頃から馴染み深いものだった。子供の頃から最低限の社会性はあるものの、人間嫌いで変わり者扱いされていたカディスの心の中にたやすく入り込んできたのが、ユーシャだった。どんなに無視しても拒絶してもユーシャはカディスを構うことをやめない。それは今も続いている。
全く、子供の頃から変わらない。
・・・変わったのは、自分だけ。
「そろそろ、まずいな」
いつの頃からだろう。
ユーシャがそばに来るそのぬくもりを心地よく感じるようになったのは。
二人きりでひとつの部屋にいて、平気な訳が無い。
変わったのは、変わってしまったのは自分だけで、ユーシャは変わらない。変わってくれない。
そのくせ、ユーシャを遠ざける事もできない。本気で遠ざければ、ユーシャはあっさりと離れて行くだろう。そうなれば、男たちがユーシャに言い寄ってくるのは目に見えている。
もう、俺はユーシャを手放せない。
それなのに、ユーシャにとって俺は男ですらなくて。
「どこまで持つかな」
ユーシャは賢く、鋭い。
いつもカディスを本気で怒らせる一歩手前でさっさと逃げ出してしまう。
いっそ、本気で怒らせてくれればいいのに、とさえ思う。そうすれば、それを理由にユーシャを手に入れることができるのに、と。
だが、カディスにとって都合のいいそんな状況には、決して陥ってくれないのがユーシャだった。
どうすれば、ユーシャを捕らえることができるのか。
カディスは静かに半眼で虚空を睨み付ける。
本気で怒らせてくれないなら。
「・・・本気にさせてやる」
そして。
手に入れる。
そのために、必要なことは。
虚空を睨みつけたまま、無意識のうちに口の端がつり上がっていく。
それが本気になった時のカディスの癖だということを知る者は、ここにはいない。
そして、彼の本気の執着を知ることになる者も、幸か不幸か、ここにはいなかった。