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に:人間①


 とかく人間というものは、猫である私の理解を超えるものである。


 人間という生き物は、不自由を好む。不自由であればあるほどよい。人間ほど己にかせをつけたがる生き物は、ほかにはあるまい。

 また人間はひどく気まぐれな生き物である。笑っていたかと思えば泣き出して、泣いているかと思えば怒り出す。猫なで声で呼ばれても油断は禁物。そのときの気分しだいで、煮干が飛んでくるか石が飛んでくるかわからない。

 私が愛用している餌場の人間もこれに反せず、全く持って不可解で気分屋ではあるが、催促すれば餌が必ず出てくる。


 ところが最近、この餌場の人間の様子がすこぶるおかしい。

 あらぬ方角をぼんやり眺めていたかと思うとにやにや笑い出し、かと思えば難しい顔をしてふさぎ込んでいる。人間の中ではましなほうだと思っていたのだが、考え直さねばならないかもしれない。

 餌場の人間がふさぎ込もうが泣き出そうが、私の知ったことではないのだが、餌を忘れることも多くなるのが困る。

 今日もいくら催促しても餌が出てこない。

 いったい何をしているのかと中を覗けば、机に突っ伏したまま、またあらぬ方向を眺めている。

 この餌場の人間は、常に左目を閉じていて、両目がそろって開いているのはついぞ見たことがない。餌を催促すべく開いている目の前に躍り出ると、驚いて椅子から落っこちた。

「ああそうか、餌を忘れていたな。お前、勝手にその辺にあるものを食べておくれよ。俺は今、とてもお前の餌を用意する気分ではないんだ」

 餌場の人間は、元通り椅子に腰掛けると、再びあらぬ方向を見つめて特大のため息をついた。

 これはいよいよもって重症である。これは早めに何とかしないと、やっと見つけた絶好の餌場を無くすことになりかねない。私は台所から漂う焼き魚の匂いの誘惑に打ち勝ち、餌場の人間の前に陣取ると、相手の右目を覗き込んだ。

 七厘で焼かれる秋刀魚のほうがよほど活きのいい目をしている。

「猫よ、俺はお前がうらやましいよ。好きなときに好きなところに行って、好きなことをしてこれる。いつだって何をするのだって自由気ままでいいんだからな。きっとお前なら自由に彼女のところへ行けるのだろうな。……そうだ、お前なら彼女に会いにいける!」

 腐ったどぶのような目をしていたかと思うと、急に起き上がって叫び、急いで台所から私の餌を持ってきた。焼き魚はない。

「どうだろう、お前、ひとつ頼まれてはくれないか。私は不自由があっていけないから、代わりにお前に彼女の様子を見てきてもらいたいんだ。もし良い塩梅だったなら、この手紙を渡してきておくれ。私の代わりにね。それからできれば返事をもらってくるんだ。どうだろう、上手くいったら刺身でも焼き魚でも毎日腹いっぱいになるまで食わせてやるよ」

 話の間に空になった餌入れをきれいになめてから、前払いとして台所から匂い漂う焼き魚を所望した。餌場の人間は少し嫌そうな顔をしたが、すぐに鮭の切り身と分厚い手紙を持ってきた。

「いいか、くれぐれもよろしく頼むよ。彼女以外の家の人に見つからないように気をつけるんだよ」

 鮭の切り身は非常に旨かった。気を良くした私はその分厚い手紙を加えると、心配そうに見送る餌場の人間を無視してさっさと歩き出す。

 もちろん、毎日刺身と焼き魚を腹いっぱい食わせるという、人間の気まぐれな約束には全く期待はしていない。ただ、切り身の分くらいは手助けしてやっても良いように思えた。

 これ以上、餌を忘れられないで済むのなら、多少の骨折りは我慢しなければなるまい。


 ――――


 餌場の人間がいう彼女とは、同じ縄張りにいる人間のことである。


 私は彼女が好きではない。もっとはっきり言うと嫌いである。

 常々人間のきまぐれには苦労している私でも、彼女以上に気まぐれな人間はついぞ見たことがない。

 なるべく関わりあいたくないというのが本音だが、食べた鮭を戻すわけにもいかない。ちょっと覗いて手紙を置いてくるだけならたいしたことはないだろう。

 二階の角にある彼女の縄張りにはすぐに着いた。二階の窓のすぐ側の木に登ると、うまい具合に枝が窓のすぐ上まで伸びていて、窓も開いている。中の様子を伺うが枝の上からでは良く見えない。仕方なく窓の内側に飛び移ると、いきなり窓が閉められ、驚くまもなく親猫が子猫にするように首の皮を掴まれていた。

「なに、見たことある猫だと思ったら、あんたなの」

 頭のところの毛が妙に長い彼女がつまらなそうに言うのを威嚇すると、口から手紙が落ちた。彼女はそれを拾うと、器用に片手で開けて中を読むと、声を出して笑った。

「あんた、猫でしょう。猫の癖に、犬みたいなことするのね。それともあんたは犬だったのかしら。彼も妙なものを飼ってるわね」

 ひとしきり笑うと、何か思いついた顔ですぐに二通の手紙を書いて私に見せた。

「いい? この小さな手紙は彼へのものよ。それからこっちはあの人への手紙なの。あの人がだれだか、あんたにはわかるでしょう。できれば私が直接お会いしたかったのだけど、私が行くと何かと不自由があるから、仕方ないわね。代わりにこの手紙をお前に預けるから、しっかりあの人に届けてくるのよ」

 何で私がそんなことをしなくてはならないのか。その思いが顔に出ていたらしく、彼女はいきなり怒り出した。

「何よ、その嫌そうな顔は! どうせ日がな一日ごろごろしているしか能がないんだから手紙くらい届けなさいよ! ……ああ、もちろんただでとは言わないわよ。あんた、じゃこ飯が好きだったわね。ちゃんとあの人に届けてくれたなら、好きなだけじゃこ飯を食べさせてあげてもいわよ」

 笑ったり怒ったり猫なで声を出したりと、忙しい人間だ。

 彼女のこういうところが嫌いなのだが、確かにじゃこ飯は私の好物だ。手紙の一枚くらい届けてやっても良いだろう。

 ここでも前払いを所望すると、彼女は何か悪態をついていたが、上品な私の耳はそれらの言葉を受け付けない。ほどなく紙皿の上にてんこ盛りにされたじゃこ飯を食べつくし、皿にくっついた米の一粒まで苦労して舐め取る。満足して側に置かれていた手紙をくわえようとすると、彼女は薄っぺらな手紙を布に包んで私の首に巻きつけた。首輪をつけられたようで不快だが、じゃこ飯の分だけは我慢しよう。

「いいわね、ちゃんとあの人にとどけてくるのよ。もしいい加減なことをしたら、あんたの皮をはいで三味線をつくってやるからね」

 ようやく開けられた窓から逃げるように飛び出すと、後ろから何度も念を押す怒鳴り声が響いてくる。

 

 やはりあの彼女は人間のなかでももっとも厄介だ。



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