と:とどめを刺すならさくさくと②
とても心地よい夢を見た気がした。
暖かくて柔らかな毛布に包まれて、おいしいご飯と飲み物をもらって、冬眠中の熊のように眠りをむさぼる夢。
毛布はいつでも暖かくて、包まれているだけで、すごく安心感があった。
だから、目が覚めたとき、見知らぬ天井が見えてもしばらくぼんやりしていた。
見知らぬ天井。見知らぬ家具。見知らぬカーペット。見知らぬベッド。見知らぬ毛布。
ここ、どこ?
ゆっくり二度、瞬きをしてみても、見ているものに変化はない。
起き上がろうとして、全身に鋭い痛みが走った。
鼓動にあわせて脈打つように痛む胸の上のほう、鎖骨の辺りだろうか。
ひじ、手のひら、膝、足の裏。
痛む部分をそっと確認しようとして、それらの部分全てに包帯が巻かれているのが見えた。
怪我? ここは、病院?
横になったまま、全身の痛みを刺激しないようにそっと辺りを見回すと、病院というよりは、高級ホテルの一室のようだった。
病院特有のアルコール消毒のにおいもしないし、花もない。
ベッドも見える限り木製で、どこか上品なつくりをしている。
『目が覚めたか』
地を這う、重低音。
一気に意識が覚醒した。
ちょうどベッドで死角になる床から、のっそりと、豹と狼と熊を合わせたような巨大な獣が姿を現すと、一気に記憶がよみがえって、ひゅっ、とのどが鳴る。
そうだ、私は。
「どうして」
どうして、生きているのか。
どうして、ここにいるのか。
どうして、あそこに居たのか。
どうして、獣が居るのか。
聞きたい事は山のようにあるはずなのに、言葉が出てこない。
一難去ってまた一難とかいうレベルじゃない。
だって、今はまだ、理性も感情も一回転してひねくれてない。
ストレートで、純粋な“恐怖”がわきあがってくる。
反射的に、獣の反対側へ逃げ出そうと体が動く。鋭い痛みに襲われるが、それ以上に恐怖に追いやられていた。
『動くな。傷に障る』
低く、恐ろしげなのに、とても冷静で平坦な声に、びくり、と体の動きが止まる。
『熱が引いたばかりだ。横になっていろ』
いいから寝てなさい。
風邪を引いて、小康状態のときに母からよく言われた言葉。
「・・・おかあさん?」
『咬み殺されたいか』
逃げ腰の状態で思わずつぶやくと、スッ、と目を細めた獣に威嚇されて、本当に身動きができなくなった。
獣は、小さくため息をつくと、右前足でちょいっ、と服のすそを引っ掛けると、そのまま引っ張って横に倒す。
「痛いっ」
引き倒された衝撃がそれぞれの傷に響いて、痛みをこらえるために顔をゆがめていると、生理的な涙が出てきた。
『だから動くなといっただろう。鎖骨にヒビが入っている』
「今のはあんたのせいでしょ!?」
心底あきれた声で言われて、痛みの苛立ちもあって思わず怒鳴ると、さらに傷に響いて呻く羽目になった。
『泣くな』
べろん。
そんな効果音がぴったりな動きで、目じりに浮かんでいた涙が普通の犬の3倍はありそうな大きな舌で舐めとられた。その力が強すぎて、頭が左右に大きく振れて、トウコは彫刻のように硬直した。
な、舐められた?
一瞬呆然としていると、反対側も同じように舐められて、頭が左右に揺れる。
まさか、慰めてくれて・・・
『うまい』
いるわけがないっ!!
重低音で告げられた感想に、ほとんど反射的に手が出ていた。すぐそばにある鼻先を思いっきり平手でぶっ叩き、痛みも忘れてベッドから飛び降りようとしたけれど、体が縫いとめられたように動かない。
着ていたネグリジェを引っ張ると、すそに大きな獣の前足が乗っかり、爪でしっかりとベッドに縫い付けられていた。
そのまま視線を上げると、叩かれた鼻先を反対の前足でなでて痛みを散らしていたらしい獣が、威嚇するように牙をむき出しにしてうなる。
『なにをする』
「それはこっちの台詞っ! なんなのよ、あんたは!」
ネグリジェをひっぱりながら、少しでも獣から離れようと体を引くと、体中のあちこちからズキズキと痛みが響いてきて、一瞬気が遠くなった。
「味見だかなんだか知らないけど! どうせなら気絶している間に全部終わらせてくれてもいいんじゃない!?」
痛みと怒りと恐怖で頭がぐちゃぐちゃになってきて、トウコは気づけば噛み付くように怒鳴っていた。
どうやら、感情はまた一回転してあさっての方向に着地したらしい。
墓穴を掘る台詞をはいたことに内心青ざめているトウコを見下ろしながら、獣はむき出しにしていた牙を収めて、なんとも不思議そうに首をちょこん、と傾げて見せた。
『・・・勝手に終えてもよかったのか?』
「やらないでくれるのが一番いいけど」
『わかった』
え、わかってくれるの?
思わず動きを止めてぽかん、と獣を見上げると、獣はネグリジェから手を離し、ベッドの傍らに“お座り”した。
すかさずネグリジェを直しベッドの反対側まで下がって、改まった雰囲気につい、こちらもベッドの上で正座する。膝と足首が痛むから、ちょっと斜め座りだけど。
『我が真名は、ティラビエラ・ラーグァイ・ファナ・リルーグ。おまえは?』
「どれが、名前?」
『リルーグだ』
「リルーグ? 私は、西川透子」
『トウコ、だな』
突然始まった自己紹介と、一度聞いただけじゃ絶対覚えれない外国風の名前に戸惑いを覚えつつ、自分の名前を告げる。
それにしても、何でだろう。
獣に、リルーグに名前を呼ばれた瞬間、ひどく落ち着かない気持ちになった。むずがゆいような、いたたまれないような。
リルーグも、トウコがリルーグの名前を呼んだとき、真っ黒な鋭い目がほんの少し和らいだような気がした。
もしかして本当に殺されないですむ・・・・
『では、トウコ。血をよこせ』
わけがないよねっ!
さっき学んだはずなのに、全然学習していなかった。一気に血の気が引き、すぐに飛び降りて逃げようとしたけれど、遅かった。
『四肢を動かすな、西川透子』
重低音が響いたかと思うと、手足から力が抜けて、指先ひとつ、動かなくなった。
「な、なに、これ・・・」
上半身をひねろうにも、鎖骨が痛い。
『あまり暴れるな。体が痛むのだろう。また熱が上がるぞ』
言葉はこちらを気遣うようなものだが、ベッドの上に身軽に乗ってきて、動かない右腕をじっと見る。
『トウコは、本当に何も知らないのだな。では、聞け。今後、おまえは我に属する』
視線が腕から足へと移動し、また肩のほうへと戻ってくる。
『我が糧となり、従者となる。そして我が庇護下に入る』
冷静な重低音で、ゆっくりと話す内容に、頭がついてこない。
ちょっと冷静になったほうがいいかもしれない。
「糧って、やっぱり餌なの、私」
『餌だが、殺しはしない。その必要がない限りは』
その必要があったら、殺される。
その事実に頭の片隅で、泣き喚く自分が居るけれど、それを押し留めて、冷静な自分を表に出す。逆に言えば、その必要が出てくるまでは、殺されずにすむというわけだ。
『血を飲めば完全な契約となり、おまえに何かあればわかるようになる』
そういってから、すっと目を細め、顔を近づけてくる。
『おまえが我から逃げようとしても、我にはわかる』
だから血をよこせ、と。
ああ、だめだ、冷静で居られそうにもない。
だけど、逃げ出したくても、さっきから何度も試しても手足は動かない。かろうじて動くのは首から上だけ。頭突きしかできない状態で、どうしろと?
「け、契約しないですむ方法は!?」
『真名を交わすことは、契約の承認となる。すでに手遅れだ』
あっさりと告げてくる重低音に、気が遠くなりそうになった。
「そ、そんなの知らなかった! どうして先に言わないのよ!?」
『勝手に終えろといっただろう。それに、おまえだって、言わなかった』
「なにを?」
『気を失う前に。苦しい、と。痛い、と言わなかった』
初めて会った時のことを言っているのだろう。
しかられた犬みたいに視線をはずしてバツが悪そうな表情をしている。
あんなに痛めつける気満々の殺す気満々の様子だったくせに、全力全身で押さえつけていたくせに、といいかけて、ふと、思う。
あれ。もしかして。まさか。
「あの時、全然、全力じゃなかった、とか?」
きょとん、とこちらを見てくる無防備な目がなんだか、かわいらしく見えた。
『威嚇はしたが、押さえていただけだ。爪だって、出していない』
きょとん、とこちらを見ている全身凶器なリルーグに、総毛だった。
な、なるほど。ただ乗っかってただけだったんだ。
・・・乗っかられたほうは圧死しかけたけど。
爪もしまっていてくれたんだ。
・・・鎖骨にヒビ入ったけど。
思わず遠い目をして呻いていると、無防備になっていた右腕を、カプリ、と咬まれた。
釘を押し付けられたような痛みに、顔をしかめると、そのままぺロリ、と舐められる。うっすらにじんでいた血が、リルーグの舌を通ってのどの奥へ消える。
「な、な、なにっ!?」
人間だったら、にやり、と意地の悪い笑みを浮かべているだろう気配を感じた。
『“おもいきって、さくさくやっちゃって”だろう? 契約成立。これでおまえは、我から逃げられない』
それでいて、寧猛な笑み。
もういろいろ限界を超えていたトウコは、自分の意思で、気絶した。
なにがなんだかわからないうちに契約させられてリルーグの餌兼従者になった私が、この世界のことを知り、どうしてリルーグが契約を急いだのか、どうして私がここにきたのかを知るのは、1年以上が経ってからだった。