と:とどめを刺すならさくさくと①
たとえば。
デコピンをされるより、デコピンをされるまでの時間が嫌い。
注射をされるよりも、注射を打たれるまでの時間が嫌い。
テストをするよりも、テスト直前の休み時間が嫌い。
仕事で失敗して叱責されるよりも、叱責されるまでの時間が嫌い。
「というわけで。思い切ってさくさくやっちゃって」
『・・・いい度胸だな』
重低音の声が降ってくる。
実際には低くうなり声を上げているだけで、日本語を話しているとは思えないのに、日本語に聞こえるから不思議だ。
トウコは自分の体の上にのしかかる大きな獣の顔を眺める。
猫と犬を足して割ったらこんな感じだろうか。
いや、豹と狼のほうが正しいかも。
モコモコ毛皮の生き物特有の愛らしさがありながらも、ほとんど顔しか見えないこの獣は、より物騒な、肉食獣の鋭さを持っている気がする。
そして、その鋭さの先には、自分が居るこの状況。
こりゃ、死んだな。
人生あきらめるほど生きてはいないが、これは自分の力ではどうしようもない。
実際、前足で両肩を地面にめり込むほど押さえつけられて痛いのか苦しいのかわからない状態だし、足もどうなっているのか見えないからわからないが、ぜんぜん動かせない。
両腕はといえば、ひじから下が動くだけ。
できることといえば、獣の胸あたりの毛皮をなでることくらいだ。
あ、意外と柔らかい。
やっぱり猫科なのかも。
意外ななで心地のよさに、思わず反対側の手も同時に動かして、獣の毛皮を堪能する。
この毛皮を抱き枕にして寝たら、さぞかし気持ちいいだろうなぁ。
あ、でも実際にはこの抱き枕の中身になっちゃうのか。
・・・それはとっても気持ち悪そうだ。
嫌な想像をしてしまって、なでる手を下ろす。
その間も獣はまっすぐに突き刺さるような鋭い視線でこちらを見ている。
「正直、現実感ないんだけど。触感はあるし、匂いもするし、温度も感じてるから」
ということは、これは現実だ。
痛覚がある夢も苦しい夢もあると思うけど、すぐ目の前の獣から発せられる獣臭さや生暖かい息は夢ではありえない。
頭の片隅では、大混乱を起こしてる。
どうして、なんで、ここはどこ、怖い、痛い、苦しい・・・っ!
それでいて、主導権を握っている理性は、ひどく冷静だった。たぶん、極度の恐慌状態に陥って、一回転して現実逃避に走っているのだろう。
だって、今、食い殺されかけてるし。
逃げ場ないし。
道具も、知恵も、奇跡もない。
理性が一回転して現実逃避に走れば、感情だって一回転に失敗してあさっての方向へれっつごー、だ。
「大体さ。普通、獲物見つけた肉食獣って、引き倒して圧し掛かって睨みつける前に、さくっと噛んで終わらせるものでしょ。なのになんであんたは、わざわざこんな、デコピン直前で溜めまくるようなことするわけ?」
目の前でむき出しにされている牙で噛み付かれたら、デコピンどころの騒ぎじゃないだろうけど。
やられていることは、一緒だ。
この猫科(推定)の獣は、獲物の身動きを奪ってその鋭い牙を見せ付けているくせに、威嚇するように唸るだけで噛み付いてこない。
こっちはいつ痛みがくるかと全身が硬直し続けているというのに。
そりゃ、腕をちょろっと動かして毛皮を堪能したくもなる。
あ、でも無理だ。
もう、無理だ。
「あんたの言葉、わかるのに。せっかく、わかるのに、あんたは、はなさないし」
獣が低く、警戒するように唸っている。これは日本語に聞こえない。
伝える気がないからだ。
捕まえた獲物をなぶりたかったのか、今おなかいっぱいだから後で食べようと思っていたのか。
いったいこの獣がなにをしたかったのかはわからないけど。
どうして自分がここに居るのかも、どうしてこうなったのかもわからないけど。
「はなしも、せずに、わかっ、て、もらえる、と、おもうな、よ?」
仰向けで寝転がった状態で。
体の上に自分の体重以上のものが長時間乗っかっていたら。
呼吸なんて、まともにできるわけがない。
痛いのも、苦しいのも嫌だけど、まぁ、仕方がない。
それじゃ、おさらばだ。
痛くて、苦しくて、悲しくて、混乱した頭のまま、トウコはこの世に別れを告げた。