て:天秤の神子~死んで生まれて生き直し~②
30年前のあの日。
私自身、目を覚ましたと思ったら、世界は真っ白に染まっていた。
混乱する私の前に、あの二つの丸い物体のうち、右側にいた白いほうが現れた。丸いのは、嬉しそうに私に近づいてきたかと思うと、そのまま私にぶつかって、私の中に溶け込んできた。痛みはなく、ただ、 切なさだけが伝わり、右手に白い奇妙な模様が浮かんだ。
そして、私は見知らぬ世界で、見知らぬ幼女姿から生きていくことになった。
それから死を迎えるまでの、30年。
人生をやり直すつもりで、必死に生きてきた。
いろいろあったが、最後の時に泣いてくれる仲間も出来た。
もともと、あの世界で生まれたわけではない私は、死をきっかけにこちらに戻ってきたらしい。
恐る恐るつけたテレビは、懐かしい芸能人が映し出されていて、画面内に表示された日付と時間は、誕生日翌日の土曜日、朝7時を示していた。
「30年たっても、忘れていないんだな」
記号の羅列にしか見えないのに、ちゃんと読み取ることが出来る。ためしに本棚の中から適当に一冊を取り出して読んでみると、多少読み方を忘れてしまった漢字があるものの、読める。
「何もかも、懐かしい」
ひらがな、カタカナ、漢字。
向こうの文字を覚えるのに必死で、ほとんど使うことがなかった文字。
ときどき暗号として使っていたけれど、こうして改めてみると、一つの言葉が三つの文字を持てるとは、本当によく出来ていると思う。
今度は逆に、向こうの文字をこちらで暗号として使えるかもしれない。
念のため、全身を確認してみたけれど、こんなところにホクロなんてあったっけ? という程度で、最初に手を見たときほどの違和感は感じなくなっていた。見慣れない感じと、筋肉がなさ過ぎて全身が柔らかすぎるという感覚はあるものの、それでも自分の体だと認識できている。
「やっぱり、生まれたときからの体は違うのかな?」
向こうにいた30年は、いつもどこか自分自身の体という気がしなかった。初めて自分の幼い姿を見たときに受けた衝撃のためか、いつも借り物のような違和感を感じていた。
その違和感が、今はない。
ただ、一箇所だけ。
「本当に、いない、んだ」
きれいな右手の甲をなでる。
むこうで、幼い姿のときからそこにあったはずの模様はない。
知らず浮かんでくる涙を瞬きで散らして、顔をあげる。
「感傷に浸っている暇はない」
今日が誕生日の翌日ならば、私はまた二日後には“会社”に行かなくてはならない。
どんな仕事をしていたのか、同僚は誰だったのか、場所はどこだったのか。
あいまいな記憶を掘り出して、日常生活が送れるようにしなくては。
パソコンのつけ方はたぶんわかるだろうけど、操作方法に自信がない。それに誕生日が一日つぶれたのは、何かトラブルが起きたからだ。その後処理が残っていたような気がする。
こんなときは、子供のころからの習慣でつけていた日記が役に立つはず。
こたつの上のパソコンの横に置かれた日記帳を手に取る。
「さ、まずは風呂だな!」
浴槽を洗って、お湯をためて、お気に入りだった入浴剤を探して、ゆっくり湯船に浸かって日記を読みふけった。
おかげで、知りたかったことのほとんどを思い出した。
……ちょっとのぼせたけど。
―――
その日は一日、こちらで生きていく上で必要なことを思い出すために使った。
日記や新聞、インターネットから文字の上で必要な情報を調べ、実際に外へ出かけてみたりもした。そうすると、溢れるようにいろいろなことを思い出してくる。
考えてみれば、この体にとっては、一日しかたっていないのだから、その中から記憶を引き出すことは、そう難しいことじゃなかったのかもしれない。
必要なことをあらかた思い出した私は、簡単なパスタを夕飯に作って、それを食べながら今日の日記を書きとめ、さらに向こうにいる間、覚えておけばよかったと後悔したことを調べ、同じように書き留める。
日本語で書いてから、同じ内容を向こうの言葉で書いておく。
日本語と同じくらいすらすらと書けることに、小さな安堵を感じつつ、ペンを持つ右手を見つめた。
「やっぱり、寂しいものだな」
電気を消して、空にひとつしかない明るい月を眺める。
星がひとつ、離れた場所で瞬いている。
「たった一日なのに、こんなに寂しいよ……」
つぶやくと、知らず涙が落ちてくる。
涙が両手の甲に落ちた、そのとき。
右手の甲から白くて丸いものが、左手の甲から黒くて丸いものが飛び出してきた。
「……っ!?」
手のひらで握り込めてしまいそうなほど、小さな二つの物体は、部屋の中を転がったかと思うと、白いほうが右手へ、黒いほうが左手に寄り添うようにして止まった。
それを見て、私は涙を止める術がなくなった。
左手に寄り添っていた黒いほうが膨れ上がり、私を包み込んでも、私はただそれを見つめて涙を流していた。