い:いーさん
僕といーさんの日常。
ぼくの家の近くには、小さな川がある。小さいといっても、ぼくの腰くらいまでの深さがあるところもあるし、魚も泳いでいる。
大雨が降って増水すると、ぼくなんかあっという間に流されてしまいそうな勢いで流れているけど、普段は足を浸して涼むのにぴったりな緩やかな流れだ。
川岸にある大きな石に背を預けて川の水で涼むのが、僕の夏の日課だった。
この大きな石は、ぼくが小さいころからずっとここある。
僕の身長よりもだいぶ大きな石は、大雨が降ったところで、流されずにドン、とその場所を陣取っている。
いつ来ても変わらないその姿が、今よりもずっと小さなころから、ぼくのお気に入りだ。
そして、なにより。
「ただいま、いーさん」
-お帰り、坊。
石に預けた背中が少しだけ、温かくなるような感じがして、石の、いーさんの声が伝わってくる。ぼくは背中だけでなく、頭も預けて目を閉じる。
「今日さ、ぼくテストで82点も取ったんだよ」
-ほう。今日はなんのてすとだったんじゃ?
「国語と理科。理科は82点だったんだけど、国語は64点だった」
-坊は、漢字が苦手だものな。
「読むのはいいんだけど、書くのが苦手。いーさんはカタカナが苦手だよね」
-違いない。坊は良く分かっているな。
笑うような柔らかい声。この声が好きで、ぼくは何度もいーさんのところに来る。
いーさんと初めて話したときのことは覚えていない。
ただ、お母さんにはいーさんの声が聞こえないって言っていたし、いーさんもぼく以外と話したことがないって言っていた。
いーさんは、初めてぼくと話したとき、自分の耳を疑った、と言っていた。それを聞いたぼくはずいぶん驚いたのを覚えてる。
「いーさん、耳あるの?」
-ない。言葉のあやだ。
あやって何だろう、と考えているうちに、でもな、といーさんは続けた。
-坊の声はちゃんと聞こえている。それに、魚がそばを通れば分かるし、雨が降ればそれも分かる。どうしてじゃろうな。
「いーさんにも分からないことがあるんだね」
いーさんはすごく物知りで、ぼくが知らないようなことはもちろん、学校の先生だって知らないことをたくさん知ってる。そんないーさんにも分からないことがあるなんて、不思議だった。
-もちろんだとも。分からないことだらけじゃ。
少しだけ悲しそうに、少しだけ楽しんでいるような声。たくさん悩んだんだって前に言っていたのを思い出す。自分が信じていたものが、すべて崩れてしまったと、悲しい声で。
「じゃ、ぼくと一緒だね。ぼくも分からないことばっかり。ね、いーさん、どうして水は沸騰すると泡が出てくるの? おなべに穴が開いてるわけじゃないのに」
-ああ、それはな……
テストで間違えたところを尋ねれば、すらすらと説明してくれる。
「ねえ、いーさん。明日は算数のテストがあるんだよ」
だから、明日もまた来るからね。
-……そうか。がんばっておいで。
まっておるからな。
そうしてぼくはきっと明日も、大きな石を背にしてプリントの束とにらめっこしているはずだ。
「明日も、晴れるといいな」
-明日も、晴れるといいな。
ほぼ同時にいったのが可笑しくて、ぼくらはくすくすと笑いあった。