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く:苦言

 僅かな月明かりが差し込むだけの部屋の中。

 窓際の卓には酒と肴と茶が用意されている。

 いつもと同じように窓際の椅子に腰掛けると、差し向かいに座る女が静かに酒をそそぐ。


「……不快だ」

 しばらく杯を重ねていた男は、やがて一言口にする。

 女は空いた杯に酒を注ぎながら、ちらり、と男の顔に眼差しを当てる。

「不快なのだ。誰も彼もが、正反対のことを言う。我が行いを誉めそやすものがいれば、同じことに眉をひそめ、つばを飛ばして叱責するものがいる」

 低く、暗い声が部屋に落ちる。

 女はひるむことも、さげすむこともなく、静かに男の言葉を聴いていた。

「どちらの声も、不快なのだ」

 男は、女の注いだ盃に月明かりを落とし、しばらく揺れ動く月を眺めたあと、ぽつり、と本音を漏らす。

「誉めそやす声も、叱責する声も。どちらも不快で、どちらも消してしまいたくなる」

 嘘偽りのない本音をこぼし、盃の月を飲み干し、女の杯に茶を注いでやる。

 男と同じようにしばらく手の中の月を眺めていた女は、やがてゆっくりと茶を飲み干すと、まっすぐに男と視線を合わせた。


「良薬口に苦し、といいますが、言葉にも同じことが言えましょう」

 決して大きな声ではないのに、鮮明に響く独特の声。

「苦言というものは、耳に痛い、不快なことが多くありますが、それは病を癒すためには必要なこと。一方、甘言は耳ざわりがよく、心地よいものではありますが、時に病を重くすることもございましょう」

 女の声に耳を傾けていた男は、顔をしかめた。

「良薬口に苦しとはいえ、苦すぎて飲み込めないような薬は薬ではあるまい。飲み込めず、吐き出し、不快に終わるようなら、それは良薬ではなくただの毒となろう」

 今日受けた罵倒とも言える叱責の数々を思い出し、その不快を流すために酒をあおる。


「左様にございます。何事も過ぎれば身を滅ぼすもの。なれば、どちらも適度に取り入れてはいかがか」

 憤る男におびえる様子もなく、女は盃に酒を注ぐ。

「適度に、な。では、甘言と苦言をどう見分ける? 苦言のような甘言もあろう。甘言のような苦言もあろう。……我は、常に己の周りの者に己の資質を試されているように思うのだ」

 甘やかな言葉に針を混ぜるもの。

 毒のような言葉の中に溺れるような甘露を混ぜるもの。

 その両方が己の資質を測っている、という不信感。

 湧き上がる不快感を押さえ、女の言葉を待つ。


 杯に新たに茶を注ぐと、女は一口、口にした。

「己とは、己以外のものの目によって、初めて己となると申します。さすれば、他者とは己の目を当てて、初めて他者となるともいえましょう」

 杯に映る月から、ゆっくりと視線を男に当て、女は瞬きもせずにまっすぐに見つめる。


「御身に、他者は居りましょうか?」


 月明かりを反射して輝くような女の瞳を見つめ、男は己の周りの者たちの顔を思い浮かべる。

 顔も姓名もわかる。

 家柄も由来も暗じられる。

 だが、それは、必要であるからこそ、幼いころより周囲に叩き込まれた結果であり、直接、言葉を交わしたことがある者は、ごく限られている。


「人は己の姿を、行いを、他者としてみることはできませぬ。ゆえに、他者の目を通して己を見るのでしょう」

「他者なくして己なし、か」

 盃を手に取り、男は女から視線をはずさぬまま、酒を飲む。


「我は、そなたを重用せぬ」

 いきなりの言葉に、驚く様子もなく、女は静かに首肯する。

「わきまえております」

「我は、そなたを顧みぬ」

 時にきまぐれにこうして酒と茶を酌み交わすことはあっても。

「かまいませぬ」

「我は、そなたを手放さぬ」

 飼い殺すのだと、強い視線のまま告げれば、女はわずかに視線をはずす。

「……存じております」

「だが、我はそなたの言葉に耳を傾ける」

 告げれば、女の強い視線が戻ってくる。

「ゆえに、私はここにいるのです」

 月光のような儚い光ではなく、抜き身の剣のような、鋭く、強い光。

 女の目にその光を見た男は、小さく笑みを浮かべた。


「よかろう。そなたの苦言、飲み込めるか否かは我の器次第だ」

 

 女はそっと目を伏せると、空になった盃に新たに酒を注いだ。



 ――――


 後世。

 

 歴史は語る。

 三大賢帝の一人として、男の名を。

 

 歴史は、語らない。

 その男の傍にあって、賢帝へと導いた女がいたことを。





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