か:金持ち
50音順にネタをUPしていくはずが、そろそろストックが切れてきてしまったので、「か」をもうひとつUPしてみました。
世の中、平等がうたわれようが、自由が尊ばれようが、金銭面においては、歴然とした差が出るものだ。
金持ちと貧乏人ってのは、ある意味平民と王族くらい遠い存在とも言える。
金持ちの気まぐれで俺達貧乏人がどれだけ振り回されているか。
たとえ無人島に流れ着いたとしても、この差は埋まらない。
その証拠に、見ろ。
あいつの持っていた最新のGPSつきの携帯電話のおかげで、あっという間に救助されてる。しかもSPつきでのお出迎えだ。さすが、世界で5本の指に入る金持ちのお嬢さんは違うね。
皮肉な気分で救助のヘリを見上げていると、ぎゅっと俺の手を握る小さな手。
「お前も一緒に行くのだろう?」
俺はなんとなく切ない気分になりながら、その小さな手を見下ろした。俺が一緒に行くとは思っていないから、これほど不安げな声でたずねてくるのだろう。そして俺は一緒に行く道は選べない。
「お嬢はお嬢の迎えといきな。あれは俺の迎えじゃない」
小さな手に更に力がこもる。離さない、というようにぎゅっと握られても、無骨な俺の手はちっとも痛みを感じない。ただ、その柔らかな暖かさが心地よいと思ってしまうだけだ。
「お前も、一緒に行こう」
必死に見上げるそのきれいな瞳を脳裏に焼き付ける。短い時間だったが、手の届かない遠い存在が、ほんの少し触れることができた。それだけで、十分だ。
「いきな、お嬢。幸せにな」
そっとその小さな頭を撫でて、とん、と背中を押してやる。小さな手は嫌がるようにこちらに伸ばしてくるが、それをつかむわけにはいかない。
金持ちってのは、嫌なものだ。俺の手よりもずっと柔らかく、白い手がその小さな手を掻っ攫う。ぎゅっと抱きしめる細い腕。上質なスーツに包まれたその細腕が、小さく震えているのが分かる。
小さな頭がヘリの中に仕舞い込まれ、俺の前には怒れる天使が降り立ち、その背後でヘリが飛び立つ。
あの小さな手を持つたった一つの宝物を、俺から遠くへと引き離す。
ヘリがマメ粒より小さくなって見えなくなるまで見送った。
そうして、初めて目の前の天使が手を上げる。
乾いた音が、砂浜に響いた。
「お前は、自分が何をしたか分かっているのか」
全力で力を込めて叩かれたはずのほほも、日焼けのせいでほとんど変化なく見えるのだろう。実際音ほど痛みはない。それが物悲しかった。
「そういうあんたこそ、どうしてここへ残った?」
もうヘリはいない。SPもいない。この無人島に、二人。生かすも殺すも俺次第のこの状況。たとえ銃を持っていたとしても、素人から奪い取ることはあまりにも容易なことは、分かっているだろうに。
「……あの子は、お前とともにいきたいそうだ」
うつむくことなく、まっすぐに俺を見つめたまま、絞り出すような声で告げる。こどものわがままだと聞き流せばいいものを、それをできずにもがく様が滑稽で、知らず口元に笑みが浮かぶ。
「俺と来てどうする? 俺には何もないんだ」
だから分かりやすい場所を選んだというのに。ただ、ほんのひと時あの小さな手と一緒にいたくて行動を起こした。そしてそれが叶った今、俺には何の望みもない。あるとすればただひとつ。あの小さな手で、望む幸せを掴めるように。
「何もない? 何もないのは、何も得られないのは私のほうさ」
自嘲気味に嗤う声。
あまりにも似合わないその笑いと、うつろな瞳に、嫌な予感が走る。
「大切なものは全て私の手をすり抜ける。そういう運命だと知りながら、大切なものを持ってしまったのは血のなせる業か。代々見事によく似通っている」
青い、青い空のようだと思ってきた瞳は、今、涙をたたえて深い海の色に変わっていた。
「よく聞け。一度しか言わん。あの子の親権を、お前に譲渡した」
さっき殴られた以上の衝撃に襲われた。いま、なんていった?
目を見開いているだろう俺を見ながら、どこか遠くを見る目で天使は言葉をつむぐ。
「あの子の治療は、もうすぐ完了する。再発の恐れもない。その治療が完了すると同時に、あの子を我が家の系譜から外し、相続権の一切を破棄させる。法的処置も根回しも全て完了済みだ」
一粒、涙を落として、天使は嗤う。
「あの子は、お前とともにいくんだ」
「……あんたは」
どうする。
のどまででかかった言葉を飲み込んだのは、決してそらされることのない視線に気圧されたからかもしれない。
「あの子は、わたしにとっても何より大切なものだ。たとえ、二度と会えなくても。それを忘れるな」
私を忘れないでくれ、と。
そう聞こえた気がした。
「あんたに手放せるのか? それとも、あんたもあの家から出るのかい?」
揶揄するように言葉をつむぎながら、ありえない可能性を思わず口にする。そんなわけがないと分かっていながらあえて口にするのは、あの小さな手を掴みながら、離そうとする相手の思惑が見えないから。
「二度と、会えないといった。治療が終われば、あの子はお前の元へいく。それだけだ。だから、お前には待っていて欲しかった」
悔しそうに顔をゆがめ、もう一粒涙をこぼす。
「おい?」
尋常ではない様子に声をかければ、目を閉じて、背を向けて歩き出す。
「幸福を祈る」
「まて、まだ話は」
終わってない、といおうとした言葉は発せられることなく、振り向きざまに繰り出された細い手を反射的に掴んでいた。
そこへ、わき腹にけりが入る。強烈な衝撃に、無意識のうちに掴んでいた手を引き倒す。
そのままのど元に腕をあてて体重をかけようとして、我に返った。すぐに片腕で体重を分散させたが、押さえた相手は苦しげに咳き込んでいる。
「あんた、なにがしたいんだ。俺を痛めつけたいなら、SPを帰さなきゃ良かっただろうが」
隙を突こうとしたらしいこぶしは、ダメージらしいダメージを与えない。先ほどのけりは反射的に反撃しかけたが、この程度なら問題ない。
「お前はっ! 本っ当に無神経な男だな! これはただの八つ当たりだ!」
だからおとなしく殴られろ! といわんばかりの相手に、少しは自分の置かれている状況を見ろ、といってやりたい。頭に血が上ると、周りが見えなくなるのは今も変わっていないらしい。
「俺に八つ当たりするくらいなら、どうして手を離すんだ?」
怒りで真っ赤になって暴れる姿に、奇妙な安堵が広がる。そうだ、全てをあきらめたような悲壮感なんて、この女には似合わない。
「離したくて離すんじゃない! この朴念仁! 私にだって、どんなに願ったってできることとできないことがあるんだ!」
「へぇ? 大財閥の一人孫娘にもできないことがあったのか。そりゃ初耳だ」
売り言葉に買い言葉で言ってやれば、ぴたり、と動きを止める。
「金があればたいていのことができる、そういったのはあんただろう?」
耳元に口を寄せてささやけば、びくっ、と体を震わせる。
事実、そういって俺から今よりももっと小さなあの手を引き離したのは、今組み敷いているこの女だ。
「……ああ、そうだ。たいていのことは、金と権力でどうとでもできる。そういう世界にいたからこそ、私はお前にはできなかった、あの子の病を完治させることができる。次は、そういう世界にいる私にはできない、あの子の幸せを見守る役をお前がやるんだ」
俺に話すというよりは、自分に言い聞かせるように。どこか痛みを含んだ声に顔を上げて、俺の困惑は深くなる。
「……なにがあった?」
全てをあきらめた、魂の抜け殻のような顔。
これほどこの女に似合わない表情はない。
「私は、あの子を癒せると知っていたから、お前からあの子を引き離して連れて行った。あの子が本当に治っているのか、病の進行状況がどの程度のものなのか、お前が確認したいと思うのも当然だ」
ただな、とぼんやりとした覇気のない目で見上げてくる。
「あの子の治療が終わったら、お前に返すと約束したのは、嘘じゃない。もうすぐ、あの子は完治する。信じる信じないはお前の勝手だが、法的手続きも全て完了したという先ほどの言葉にも嘘はない。この島を出たら、シティに戻って自分の目で確かめてみるといい」
左腕を自分の目の上に乗せて、表情を隠すと小さなため息をつく。
「もう、行け。どうせ、この島のどこかに船でも隠しているんだろう?」
話は終わりだ、と一方的に打ち切って、ぐったりと力を抜いて浅く呼吸を繰り返す。
「……あんたは?」
「私を誰だと思ってる? すぐに迎えが来るさ」
本当にあの小さな手が俺の元に戻るのかどうかも分からないが、女の言うとおり、今すぐシティに戻って確認するべきだろう。
このままここにいて、また金持ちの力を見せ付けられるのはごめんだ。
だから、動かない女に言葉を続けたのは気まぐれだった。
「あんたの宝を俺に預けて、あんたはなにをするつもりだ?」
「……お前達の幸せを遠くから見守っていてやる」
のどの奥を震わせていいながら、その声は深く、暗い響きを持っていた。
「あんたが望んでできないことってなんだ?」
「そんなの決まってる」
目の上に乗せた腕のこぶしが白く震える。
ゆっくりと腕を外して、真っ赤になった目で、暗く嗤う。
「お前達と一緒に幸せになることさ」
そのまますばやい動きで胸倉をつかまれ、引き寄せられる。ひんやりとして柔らかい感触が一瞬そっと唇に触れて離れた。
遠くにヘリの音が聞こえ始める。
「時間切れだ」
軽く肩を押されて、俺の体の下から抜け出し、さっきまでの悲壮感を全て消し去って、立ち上がる。
「もう二度と、会うことはないだろう」
どこか不敵な笑みを口元に浮かべ、何か信念を持った鋭い視線を向ける。
「あの子を、頼む」
そういって、迎えに来たヘリに乗って去っていくあいつの後姿を、ただ何もせず見ていた。最後の最後でまっすぐに背筋を伸ばし、いつもの姿に戻ったあいつの後姿。その背に手を伸ばさなかったことを、一月後、俺は激しく後悔する。
この世界を統制する生命維持システム『森羅』。
そのシステムには生きた人間が20年ごとに組み込まれ、『管理人』となる。
今年捧げられた新しい『管理人』の名は「結那」。
大財閥の孫娘であり、あの小さな手の母親であり、俺の妻である女だった。