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二十一年後の実験室

掲載日:2026/06/28

ホラーテイストな妄想作品です。

1   温泉旅館


 夜中に目が覚めたのは、寝苦しさよりも、悩みや不安をずっと抱えていたからだろう。時間は午前一時。オレは隣で眠っているヨウイチを起こさないよう、静かに布団から出て、窓のそばにある備品のイスに腰をおろした。

 後で知ったが、オレがいま座った空間は広縁と呼ばれているそうだ。向かい合うイスが二脚と、それらの間に机が置かれている。部屋と広縁との間の引き戸はすこし開いていて、その隙間から広縁に出たので、戸を開ける音を響かせることはなかった。後で飲もうと思い、机の上に置いたままで忘れていた缶のブラックコーヒーのプルタブを静かに開けようとする。

 窓の外には闇が広がっていた。昼間見たときは、大きな岩がいくつも転がっている間を清流が流れ、その向こうには、緑豊かな山々が連なっているのが見えた。その雄大な景色を目のあたりにして、この旅館を選んで正解だったと思った。しかしいま、風光明媚な風景は暗闇に一変している。

 外の空気に触れたいと思ったが、目の前に広がる暗闇は、ともすればこちらを飲み込んでしまいそうな圧迫感がある。オレは窓を閉めたままでしばらく暗闇を見つめていた。

 今回の旅行に誘ったのはヨウイチだった。最近オレが塞ぎこんでいたからだ。ヨウイチは、オレが塞ぎこんでいる理由を就職のことだと思い、気分転換が必要といってくれた。たしかにオレは就職のことで悩んでいたが、悩みはそれだけではなかった。今回の旅行で、そのことをヨウイチに話すことができたら、オレの不安や悩みもすこし和らぐかもしれない。

 そんなことを思っていると、外の暗闇でなにかが動く気配がした。山の中腹あたりだ。こんな夜中になにが動いたのだろう。動物だろうか。オレは、それまでぼんやりと眺めていた暗闇に目を凝らす。

 その瞬間、光るものが見えた。周囲に何の灯りもないし月は雲に隠れている。不思議に思ったオレは、さらに目を凝らした。鍬のように見える。鍬のように見えるものが、何度か上下に動いている。その先端には、タオルのようなものが引っかかっており、ぼんやりと黄色い光を放っていた。

 同じものを畑で見たのなら、鍬を持った人間が畑の土を耕している牧歌的な光景だっただろう。しかし、いまは深夜で場所は山のなかだ。不気味さしか感じない。また、鍬に見えたものは、人間の手によって動かされているように見えたが、人間の姿は見えない。オレはなにがおこなわれているのか気になり、ますます神経を集中させ目を見開いた。

「ワタル? 起きてるのか?」

 ヨウイチの声が背後から聞こえた。最初は隣にいないオレを探しているような感じだったが、オレが広縁にいるとわかると、布団から出てこちらに近づいてくる。

「なにやってんだ?」

 ヨウイチの声がさらに近くから聞こえてきたが、オレは窓の外から目をそらすことができず、背後は振りかえらなかった。

「あれ見ろよ」

 背後にいるヨウイチにオレはいって、問題の場所を指さした。

「誰かが、土を掘ってるみたいなんだ」

「こんな夜中に? 外は真っ暗だろ」

 そんなやり取りを続けながらも、オレはその場所を見続けていた。ただ、ヨウイチに声をかけられたあとは、鍬のようなものは消えて、暗闇が広がっているだけだった。

「なにも見えないぞ。真っ暗だ」

「さっきは見えたんだ」

 ヨウイチは、オレの背後から窓に近づいてしばらく外を見ていた。そして窓を開けて顔を乗り出す。ひんやりとした空気が部屋のなかに流れ込んできたが、外には相変わらず暗闇が広がっているだけだ。

「チェックアウトの前にまた温泉に入ってから帰ろうな」

 ヨウイチは何事もなかったかのようにいって、向かいのイスに腰をおろした。

「黄色いタオルみたいなものも見えたんだ」

 オレは言いながら、ヨウイチのほうに顔を向ける。

「うわっ!」

 直後、オレは叫んだ。実際は口を大きく開けただけで、叫び声は出ていなかったのかもしれない。

 それはともかく、ヨウイチが座っているイスの横に少女が立っていた。少女は夏用のセーラー服を着ている。肩まで伸びたストレートな黒髪。典型的な女子学生という雰囲気。そしてオレのほうを無表情で眺めていた。

 オレは驚いたあと、身体を動かすことができなくなり声も出せない。オレの視線を追い、ヨウイチが横に顔を向けたとき、少女の姿はぼんやりと消えていった。

「そこに、そこに女の子が立ってた!」

 数秒後、オレは金縛りから解放されたかのようにヨウイチの隣を指さして叫ぶ。

「女の子なんているはずないじゃないか。いったいどうしたんだよ?」

 ヨウイチは隣に視線を一瞬向けたが、すぐにオレの顔を見ながら心配そうにしている。

 開け放たれた窓の外からは、川の流れる音が聞こえている。肌寒い空気が部屋のなかに入ってきているが、オレは全身に汗をかいていた。

「気分転換にと思ったんだけど、温泉に入ったからって悩みは消えないもんな。やっぱり就職のことか?」

 ヨウイチはオレを労わりながら聞いてきた。缶コーヒーを飲み、すこし落ち着いてきたオレは深い息をしながらイスの背もたれに寄りかかる。

「面接に行った話しただろ? 教授から言われてるんだ。来週には返事をしろって」

「面接? お前がいきたいっていえば入れるんだろ? 教授の紹介っていってたもんな」

「そうなんだけど、今回は断ろうと思ってる。大学院に進みたいと思ってるんだ」

「断ってもいいのか?」

「教授には、大学院に行く選択肢も話してある」

「で? それも教授はOKだったのか?」

「ああ」

「じゃあ、なにに悩んでるんだよ。お前が優柔不断なだけじゃないか。学費か?」

「それもあるんだけど……」

 進学か就職か悩んでいたのは確かだが、オレの悩みのほとんどはフユミに関することだった。しかし、ヨウイチにその悩みを打ち明けることは自分の弱さを見せてしまうようで躊躇していた。

「だけど、来週になればとりあえず悩みはなくなるわけだ。気分転換に温泉に来てまで、寝ぼけて幻を見ることもなくなるってことだな」

 ヨウイチは冗談半分でいう。オレはとくに否定しなかった。山のなかの鍬らしきものといい、突然あらわれて消えた女の子といい、たしかに幻かもしれないと思い始めていたからだ。

 それからオレたちはふたたび布団に入り朝まで眠った。早朝、温泉にまた入り、チェックアウト後はレンタカーで帰路についた。ヨウイチもオレも多少寝不足だったものの、車内ではふたりとも饒舌だった。オレは悩みを抱えたままだったが、気分転換になったことはたしかだ。

 ヨウイチもオレも大学四年生。ゴールデンウィークを利用して温泉宿への一泊二日の旅行だった。

 ヨウイチはすでに県内の中堅企業に就職が決まっている。

 オレは先週、教授の紹介で遠方にある企業の研究施設を訪問。しかし、ここにきて大学院に進学したいと思い始めていた。

 就職するにしても進学するにしても、卒論を仕上げなくてはいけない。そのためにはまた来週から実験に没頭する毎日が始まる。悩みはもとより、フユミのことを忘れていられるのがありがたいと思った。


2   研究室


 その日、大学の研究室は朝からなにやら騒がしかった。教授と准教授、そして事務助手のふたりが、朝の九時から研究室にそろって出てきているのはかなりめずらしい。オレをふくめた学生たちも全員が実験室や学生用の控え室にいた。

 オレはこの日、実験装置の掃除と次の実験準備をしたあと、学生用控え室か図書館で、これまでの実験結果をデータ化しようと思っていた。ちなみにオレの研究テーマはざっくりいうと酸性雨だ。

 近年、世界中で問題になっている酸性雨が淡水魚に及ぼす影響を調べている。水質問題、ひいては飲料水の問題にも関わってくるため、教授から紹介された研究施設は、飲料水をふくめた水処理を専門に扱う半官半民の企業の研究部門だった。

「ちょっとみんな注目してくれ!」

 教授が学生用控え室の入口に立っていた。准教授とほかの学生たちは、全員が控え室にいて、いっせいに教授のほうを向く。

「今日から約二週間、うちの研究室に籍を置くことになった佐藤君だ」

 教授の後ろに、ひとりの美少女が立っていた。

「佐藤君は、うちの大学の付属高校に通う一年生で聴講生ということになってる。環境問題に関心があるということで、うちの研究室に所属することになった。というわけでみんなよろしくな」

「佐藤マヒロです。よろしくお願いします」

 彼女は、そのあとどんなことに特に関心があるかとか、簡単な自己紹介をしたが、オレの頭にはほとんど入ってこなかった。なぜなら、旅館に泊まった日の深夜、一瞬見た女の子ととても似ているような気がしたからだ。

 あの女の子は幻じゃなかったのか。なぜオレの研究室に現れたのか。

 佐藤マヒロが美少女ということで、ほかの男子学生たちは浮足立っているように見えたが、オレは別の意味で心がザワついていた。

 オレは彼女の顔から目が離せなくなってしまう。本当に旅館で見た女の子だったのかどうか、数日前の記憶をたどりながら、その美少女の顔をまじまじと見ていたからだ。

 数秒後、ずっと凝視していたオレに気づき、彼女が微笑みかけてきたとき、やっと我に返ったほどだった。

 オレは冷静になって考える。

 旅館で女の子を見たのはほんの一瞬だった。顔ははっきりと見ていない。たまたま同じタイプの夏用のセーラー服を着ていたから、似ているように思ったのかもしれない。自分のなかではそういう結論に落ち着いた。

 しかし、もうひとつ気になることがある。佐藤マヒロがフユミと同じ苗字だったことだ。とはいえ、〝佐藤〟はありふれた苗字だ。おそらく偶然だろう。

 ところで、〝アカデミックインターンシップ〟というようだが、高校生がうちの大学に聴講生として登録することはそんなにめずらしくない。ただし時期は、高校の夏休みに実施されるのが一般的だ。いまは5月。佐藤マヒロは特例ということだろうか。そもそも高校の授業はどうするのか。いろいろな疑問がわいてきた。

 だがオレは、そこで考えるのをやめた。いまいちばん優先すべきことは自分の研究だ。大学院に進学するのを決めたのも、そのあとの就職に有利だと思ったからだ。教授の紹介なので、学卒で入社しても問題はないだろう。ただ、入社後を考えると不安が残る。

 大学院である程度の成果を出しておいたほうが入社後は優遇されると、オレは確信していた。教授の紹介先の企業では、いちおう学卒でも研究施設勤務を約束してくれている。とはいっても、入社後どうなるかはわからない。現にオレが顔合わせに企業訪問したときには、研究施設勤務の職員は全員が大学院卒とのことだった。

 学部卒ということで研究職以外の部署にいかされる可能性もゼロではない。研究を続けたいと思っているオレには、それは受け入れ難かった。

 この日の午前中にでも、オレは教授に、大学院進学を決意した話をあらためてしようと思っていたが、佐藤マヒロの突然の登場でタイミングを失った。午後、タイミングがあえば話をしようと思い直し、オレは控え室から出て隣の実験室に向かう。実験室は、オレと大学院生のシロイさんが使っていて、研究室のなかではいちばん広く100平米近くあった。

 オレが実験器具を洗浄していると、佐藤マヒロが実験室に入ってくるのが見えた。入口付近にいたシロイさんに話しかけている。全員のまえで自己紹介したあと、個別に挨拶しているようだ。

「失礼します。夏目ワタルさん?」

 佐藤マヒロが近くにやってきて、オレの名前を呼んだ。さっき彼女と話をしていたシロイさんが、オレのほうを指さしていたので、そのとき名前を確認したのだろう。彼女の手にはメモらしき紙が握られていて、個々の学生がどんな研究をしているのかが書かれているようだった。

「夏目ワタルです。佐藤さん、短い間だけどよろしくね」

 オレはすこしだけ佐藤マヒロに視線を向けたが、そのあとは実験器具の洗浄を続けた。

「夏目さんの研究テーマは酸性雨とうかがってますけど、具体的にどんな実験をなさってるんですか?」

 適当にあしらおうとしたオレの顔をのぞき込むようにして、彼女がたずねてくる。オレは器具を洗浄していた手をとめた。

「環境問題に興味あるんだってね?」

「そうです。先輩たちひとりひとりが、どんな研究をしているのかうががってたんですが、夏目さんのテーマはとくに興味あります」

「具体的には、酸性の環境を水槽のなかに再現するんだ。で、そこに淡水魚を入れて、どんな変化が起きるかを測定するってとこかな」

 佐藤マヒロはオレの話をメモしている。

「淡水魚の変化って、どうやって知るんですか?」

「尿とか血液だね。あと、組織がどう変化したかも詳しくみていくんだけど、組織分析はオレの分野じゃなくて、大学院生のイケマさんがやってるよ」

「酸性って、どのくらいのレベルなんですか?」

「いまはPH5くらいで設定してるけど、淡水魚を酸性の水に慣らすのが最初は大変かな。PHを急激に変化させると、きちんとした結果が採れないからね」

「なるほど、そうですか。すごく興味深いです。どんな結果が出てるんですか?」

 オレの実験に、佐藤マヒロがここまで食いついてくるとは思わなかった。というのも、アカデミックインターンシップでやってくる高校生たちは、たいてい内申書の成績に箔をつけるのが目的で、大学生や大学院生が取り組んでいる研究そのものには、そこまで興味がないからだ。

「う~ん、結果はまだ出てないんだ。いまのところ、PHが中性の水と酸性の水で、淡水魚の状態にとくに変化はみられないんだ」

 そのあとも、佐藤マヒロは、オレが水槽を組み合わせてつくった実験装置についての説明を求めてきた。彼女はまたメモを取り、次回の実験では手伝いをさせて欲しいともいってきた。

 気がつくと午前十時をまわっていた。彼女は三十分近くオレの話をきいていたことになる。

 オレ自身は問題意識があって研究に取り組んでいるが、高校生の女子にとってそこまで興味のあるものなのか。オレは疑問を抱きながらも、佐藤マヒロが、内申書のために演技をしているとはとても思えなかった。そのくらい真剣にみえた。

 不思議だったのは、オレ以外の学生に対してはそこまで時間をかけて研究テーマについての話をきいていないということだった。オレの研究にとくに興味があったといってしまえばそれまでだが、気になったことも事実だ。

 学生用控え室での佐藤マヒロの席はオレの隣になった。たまたま空いていたからだ。あとで教授からきいた話によると、彼女が大学に来るのは週に三日。朝九時に出てきて夕方の五時に帰るという。

 そういうことなら、オレの研究の助手は無理だろう。というのも、魚の尿は二十四時間排泄され続けるため、いちど実験がはじまると、丸一日不眠で取り組まなければならないからだ。

 かりに、研究を手伝うのが時間的に可能だとしても、オレはそんなことは望んでいなかった。さっきの食いつき気味な態度からして、佐藤マヒロにあれこれ教えながら実験を進めるハメになるだろう。結果、実験がスムースに進まない可能性が高くなるかもしれない。

 ところで、誰もいない深夜の実験室が、オレは意外と好きだった。ひとりきりで実験室にいると、この世の中に自分と実験用の淡水魚しかいないのではないかと思えてくることもあったし、その感覚も好きだった。

 また、深夜の学校は学生や教職員たちがおらずとても静かで、昼間と同じ場所とは思えない魅力があった。実験の空き時間には、深夜にもかかわらず学内を散歩することもあるし、コンビニまで夜食を買いにいくこともある。

 大学は一年前、街の中心部から山のなかに移転していて、周辺は畑や田んぼや山ばかりだ。だからいちばん近くのコンビニまでは歩いて三十分以上かかる。深夜は車を見かけることも稀で、まして歩いている人間はオレぐらい。

 大学の移転にともない道は整備されていて新しいうえに広い。街灯がまばらで暗い夜の歩道を歩いていると、とてもいい気分になる。便利な場所ではなかったが、研究に没頭するにはいい環境だ。

 オレはそんな深夜の時間を、佐藤マヒロに邪魔されたくなかった。


3   一週間後


 佐藤マヒロがオレたちの研究室に来てから一週間が過ぎた。これといったこともなく、オレは実験に没頭していた。ちなみに、オレがずっと気になっていた大学院進学のことは、先日教授に話して了解を得ていた。おそらくオレの代わりに、大学院生のシロイさんが例の研究施設にいくことになるだろう。シロイさんは大学院の修士課程二年で来年卒業なので適任だ。

 佐藤マヒロは、そのシロイさんの研究をおもに手伝っていた。シロイさんは教授と共同で研究をおこなっている。おそらく教授に、彼女のめんどうをみてくれといわれたに違いない。オレとシロイさんは同じ実験室で実験をしているため、自然と佐藤マヒロの姿も目につく。

 ところで、オレたちは実験のときには、着ている服が汚れないよう普通は白衣を羽織っている。佐藤マヒロも生協で購入したのだろう、セーラー服のうえに白衣を羽織っていて、その姿は意外と様になっていた。

 十年ほど前だったか、理工系分野で研究をする女子、〝リケジョ〟が話題になったが、佐藤マヒロは、マスコミが取り上げてもいいくらい華があるようにも見えた。

 オレは佐藤マヒロが現れた初日以後、とくに話をすることもなく、自分の研究に淡々と取り組んでいた。控え室での席は隣だったが、佐藤マヒロは、週に3回しか大学には来ないし、来た日も授業の聴講と実験の助手でたいていは控え室におらず、オレの隣の席にいることはほぼなかった。席にいないのは、オレとて同じことだったが。

 そんなある日、オレは実験データの採取が長引いたため、遅い昼食を学食でとることにした。午後の三時頃だった。この時間はほかの学生がいないため落ち着いて食べることができるが、メニューのほとんどが売り切れの場合が多く、残っているのはカレーぐらいだ。

 オレがカレーを食べていると、学食に佐藤マヒロが現れてオレを見つけるやいなや、近づいてきた。

「夏目さん、ここにいたんですか? ずいぶん遅い昼ごはんですね」

「なに? 誰かオレをさがしてるの?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど、研究室にいないなと思って……」

 佐藤マヒロはそういうと、オレの席の前に座った。

「それで学食まで来たの?」

「三時半まで休憩だったので、学内を散策してたら、夏目さんが学食に入るのが見えたんです」

「そう。オレに何か用があるの?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど」

 用もないのになぜ? と疑問に思いつつオレは佐藤マヒロのほうを見ず、カレーに視線をおとしていた。とはいえ見られていると食べにくい。とくにオレだけが食べている状況だとなおさらだ。

「私、なにか飲もうかな」

 佐藤マヒロはそういうと立ち上がり、自販機のほうに歩いていく。オレが食べにくそうにしているのを気にしたのかもしれなかった。オレは、佐藤マヒロが席を離れてすぐにカレーを口にかき込んだ。はやく食べ終えて研究室に戻りたい。

 佐藤マヒロを目の前にすると、気持ちがざわつく。温泉旅館での不可解なことを連想させられるのは間違いない。

「夏目先輩! なんでそんなに急いで食べてるんですか? よほどお腹がすいてたんですね。たしかに、もう三時過ぎてますからね」

 佐藤マヒロはほどなくして戻ってきた。温かい飲み物が入った紙コップを手にしている。オレはスプーンを持つ手をとめた。カレーの半分も食べることはできていなかった。

「それ、コーヒー?」

 佐藤マヒロが紙コップをテーブルに置いたとき、中身が見えてオレはたずねる。どうみてもホットコーヒーにしか見えなかったが、彼女は砂糖やミルクをいっしょに持ってきてはいない。十代の女の子とブラックコーヒーの組み合わせが意外だったので、ついたずねてしまった。

「若い娘がブラックコーヒーなんてめずらしいと思いました?」

「え? あ、いや……まあそうだけど……」

「香りが好きなんですよね。味も最近は慣れてきました」

 佐藤マヒロはそういって微笑む。オレはスプーンを持つ手をとめたままだった。

「夏目さんも、実験室でブラックコーヒーたくさん飲んでますよね。夏目さんは缶とペットボトル専門みたいですけど」

「え?」

 オレは学食に来てはじめて佐藤マヒロの顔をまじまじと見た。たしかにオレは実験中にたくさんのブラックコーヒーを飲む。しかしなぜ、うちの研究室に先週来たばかりの佐藤マヒロが知っているのか。

「やだなあ、そんなに驚かないでくださいよ」

 オレはよほど驚いた顔をしていたに違いない。

「初日に、教授から実験室の掃除を頼まれたんです。だから、大学に来る日は、朝八時半に来て、ゴミとか置きっ放しのペットボトルとか片づけてるんですよ」

 オレはてっきり清掃会社の人が片づけていると思っていた。

「いちど実験に入ると徹夜になるから、眠気覚ましにと思って何本も飲んじゃうんだ」

「ほかの先輩方からも、夏目さんが不規則な生活になるの聞いてます。私でよければ、実験のお手伝いとかしたいんですけど。そのためにいまの研究室に配属されているわけですから」

 佐藤マヒロは、紙コップを顔に近づけてコーヒーの香りを吸い込みながら話している。

「オレの実験を手伝ってくれるのはありがたいんだけど……」

「ですよね!」

 そういったあとで、佐藤マヒロはやっとコーヒーに口をつけた。

「だけど、実験は深夜になることが多いから頼めないよ。そんなことは大学が許してくれないさ。それにご両親も心配するだろうし」

「いまはI宿舎に住んでるんです。だから両親といっしょじゃないんです」

 I宿舎というのは、大学の近くにある学生寮のことだ。

「もしかして佐藤さん、今回のインターンシップのためだけに寮に入ったの?」

「そうです。大学には特別に許可してもらいました」

「なんでまたそこまで?」

 やる気があるといってしまえばそれまでだが、大学寮への入居を申請してまでインターンシップに来る高校生なんて聞いたことがない。スプーンを持った手はさっきからずっととまったままだった。

「おかしいですか?」

「そういうわけじゃなくて……佐藤さんのやる気に驚いただけさ。聴講生希望の高校生は、だいたいどの研究室でも構わないっていう程度の認識で来る子が多いしね」

「そうみたいですけど、私は事前にいろいろ調べました。だって、自分の興味がある分野以外のところにいっても集中できないじゃないですか」

「そうなんだ……てことは、うちの研究室も事前に希望していたってこと?」

「もちろんです」

「じゃあ佐藤さんは、卒業したら、うちの研究室に入るんだ?」

「そうです。だからここは第一志望の大学です」

 佐藤マヒロが飲むコーヒーのいい香りが漂ってくる。実験をおこなう日にはブラックコーヒーばかり飲んでいるオレだが、時間をかけて嗜みながら飲んだことはほぼない。

 ゆっくりと味わう彼女の飲み方を見て、自分もこんどは嗜みながら飲もうと、話題とはぜんぜん別のことが頭に浮かんだ。

「事前に調べたのはそれだけじゃないんです」

 佐藤マヒロが紙コップをテーブルに置いて、オレのほうをじっと見る。これから話すことを覚悟して聞いて欲しい。そんなふうに見えた。

「どんな研究がおこなわれているか、大学のホームページを見たり、資料を取り寄せたりして知りました。それに、大学生の先輩方が具体的に取り組んでいる研究内容とか、先輩方の個人名も……」

 学生の個人名なんて、ホームページや大学の資料で公開されていただろうか。オレは訝しい表情で佐藤マヒロの顔を見かえす。

「公開はされていません。大学の学生課に教えてもらったんです」

 佐藤マヒロはオレの思考を先取りしたように答えた。

「学生の個人名を?」

「まあ、そうですね」

 熱心な高校生という印象の佐藤マヒロが、それ以外の目的を持っているような気がしてくる。とはいえオレは、最初から彼女に不気味なものを感じていたが。

「じゃあ、オレの名前は最初から知ってたってこと?」

「そうなりますね」

「そこまでして、なんのために学生の個人名を知る必要があるの?」

「気になります?」

 このとき初めて気がついたが、オレはかなり前からスプーンから手を離していた。それだけ佐藤マヒロの話に集中していた。

「だって、熱心すぎると思ってさ。インターンシップは短期間なのに、そこまでする必要あるのかなって」

「うふふふ」

 佐藤マヒロが優しそうな表情で微笑んだ。しかしオレは背中がゾクゾクする感覚になる。5月のゴールデンウィーク明けの穏やかな日中。肌寒い気候ではなかったのに、冷や汗をかいていた。

「ウソですよ、夏目先輩。もし学生課に頼んでも、個人情報なんて教えてもらえません。私が研究室の先輩方のことを知ったのは、教授から紹介を受けたあとですよ」

 佐藤マヒロはまた微笑み、今度は学食の掛け時計に目をやった。

「あ、いけない! もう時間。じゃあ夏目さん。私はこれで失礼します」

「ああ、じゃあ……」

 オレはまともに挨拶を返せない。オレを翻弄させる意図がわからず、困惑していたからだ。

「夏目先輩、時間があれば、こんど寮の私の部屋にあそびに来てください。学校から帰るとやることなくてヒマなんです」

 佐藤マヒロが座っていた席をもとの位置に戻しながらいう。オレは彼女のことがますますわからなくなり、呆然とした表情をしていたと思う。


4   後日、ヨウイチの部屋


 オレはヨウイチの下宿をたずねた。会うのはあの温泉旅行以来で一週間ぶりだが、下宿にいくのは半年ぶりだ。オレとヨウイチは学部が違うから学校で顔を合わせることはまずない。入学したとき同じ下宿に住んでいたことがきっかけで知り合った。一年前に大学が移転したとき、お互い違う下宿に住むことになったが、距離はそれほど離れていなかった。

「いまオレの研究室にアカデミックインターンシップの高校生がひとり来てるんだ」

 オレはヨウイチの部屋に入るやいなや、その話題を振る。

「知ってるよ。えらい美少女って話じゃないか。オレのとこにもインターン入ってきたけど、工学系だから男子高校生ふたり。いいよな、お前んとこは華があって」

 ヨウイチは、オレのために冷蔵庫から缶のブラックコーヒーを出してテーブルに置いた。

「たしかに美少女だけど、オレはちょっと怖いものを感じるんだ。この前、温泉に泊まったときに見たセーラー服の女の子に似てるんだよ」

「おい、まだこだわってんのか。お前、疲れてたんだって。そんなこというようじゃ、きっといまでもまだ疲れてるんだな。それとも……」

「それとも? なんだ?」

「お前の深層心理がセーラー服の美少女を欲していて、それが表面化したんじゃないか?」

 ヨウイチの見解を多少期待した自分がバカだったという素振りで、オレは缶コーヒーを開けた。

「名前は佐藤マヒロっていうんだけど、オレがいまの研究室にいることを入念に調べてから入ってきたんじゃないかって思うんだ」

「どういうことだ? インターンシップはお前が目的だったってこと?」

「そんな気がする」

「お前さあ、自分でそんなにモテると思ってるの?」

「そういうんじゃないんだよ。なにか目的があって、オレに近づいているような気がするんだ」

「目的って?」

「それがわからないから不気味なんだ」

 ヨウイチは、冷蔵庫からまた缶コーヒーを取り出した。こんどは自分が飲むためのやつで、微糖のコーヒーだった。

「実害があったわけじゃないんだろ?」

 しばらくの沈黙のあとヨウイチが口を開いた。

「ああ、そうだな」

「疲れてるから、いろいろ過敏になってるんじゃないのか? それより就職の話は?」

「大学院に進学することにしたよ。教授も納得してくれてる」

「問題ないじゃないか。もっと気持ちに余裕を持てよ」

 オレはヨウイチに会ったことですこし気持ちが落ち着いていた。第三者からみれば、なんの問題もなく順風満帆だろう。オレもそのことを冷静に受け止めなければと思い始めていた。

「そういえばさあ、お前あの娘とはどうなったんだ?」

 ヨウイチが唐突にたずねてきた。あの娘とは、オレがしばらく交際していたフユミのことだ。

「半年くらい前に別れたよ。すれ違いっていうのかな、会う回数も減ってきてたしな」

「そうなのか。なんでそのとき話してくれなかった? お前なかなか自分のこと話さないからな。まあいいけどさあ」

 フユミとオレが知り合ったのは、大学がいまの場所に移転する前だった。フユミもオレも親元を離れてひとり暮らしだったから、互いの部屋を行き来して交際を続けていた。だが、途中からギクシャクし始めた。あのことがきっかけなのは明白だが。

「彼女、教育学部だったっけ?」

「ああ、そうだ」

 オレはしばらくフユミのことを思い出していたが、我に返ったように答える。

「それならこの4月からこっちに来てるはずだよな? どこに住んでるか知らないのか?」

 オレたち理工系の学部は、比較的はやい時期にいまの場所に移転したが、フユミのいる教育学部は今年の4月に移転してきている。

「ああ。もちろん知らないよ。ぜんぜん会ってないし、連絡もしてない」

「半年前まで続いてたってことは、半年間は遠距離だったってことか?」

 遠距離といっても片道三十キロ。そこまで遠いわけではない。

「そうだな。オレがこっちに移ってすぐのころは、それでも頻繁に会ってたんだけどな」

「隣の市だけど、すぐ会えるって距離じゃないからな」

 ヨウイチは、すれ違いは距離が原因だと思っているようだった。だから、オレも本当の理由について、それ以上の話をする機会を失ってしまう。

 そのあと、オレは入学したころの話をヨウイチとしながら長居した。ヨウイチはいつになく「お前が羨ましい」と繰り返す。ヨウイチがはやばやと就職先を決めたのは、これ以上奨学金を借りるわけにはいかないからとのことだった。学費を親が出してくれるなら、大学院に進学して勉強を続けたいが、そうもいかないようだ。

 ヨウイチから、「羨ましい」といわれるたびに、オレは佐藤マヒロに対する不安などどうでもいいことに思えてくる。ヨウイチはオレにそう思わせるために、「羨ましい」と繰り返していたのかもしれなかった。


5   翌日、研究室


 オレがその日、実験の準備をしていると教授から声がかかり教授の部屋に呼ばれた。大学院の話だろうと思ったが案の定そうだった。

「夏目君、もう聞いたかもしれないが、シロイ君が例の研究所にいくことになったよ。そこでだ、キミも大学院を卒業したら、そこにいく意思はあるかね? もちろん私が推薦する」

「本当ですか? いちど断った時点で白紙になると思ってました」

「学卒で入るとたいへんだったかもしれないが、こんどは院卒だから、そんな心配もなくなるよ」

 教授の話をきいて、オレは正直とても嬉しかった。いちど顔合わせにいった感触はよかったし、ここなら好きな研究ができると思ったからだ。ただひとつの懸念はオレが学卒だったこと。でも、大学院を卒業してからの就職となると話は別だ。

 教授がいうには、慢性的に人手不足らしい。かといって誰でもいいわけではない。基礎的な知識や研究への情熱は不可欠だ。大学院を卒業するまでに、オレは成果をあげて、入所後の待遇をもっと良くしたいと思っていた。

 ヨウイチがいうように、オレは恵まれているのかもしれない。

 教授の部屋を出て実験室に戻ると、佐藤マヒロがオレを待っていたかのように立っていた。

「夏目先輩! 今日の夕方から淡水魚の尿を採取するんですよね?」

「ああ、そうだよ。実験を始めるんだ」

「手伝いたいなあ、どうやって採取するかも興味あるし」

「カテーテルから流れてくるやつを、時間を決めて採るだけだよ」

 佐藤マヒロは、水槽のなかで泳ぐ一匹の淡水魚を見ていた。

「それより、オレのこと、〝夏目さん〟って呼ぶときと〝夏目先輩〟って呼ぶときあるけどどうして?」

「そうですか? あんまり意識してなかったなあ。そのときの気分だと思います」

 佐藤マヒロは相変わらず水槽のなかを覗き込んでいる。

「夏目……さんは、どっちの呼び名がいいですか?」

「どっちって……別にオレはどっちでも」

「そうですよね。私もどっちでもいいと思ってましたから。なんだか、どっちもしっくりこないんですよ」

「え? それどういう意味?」

 しかし彼女はオレの問いには答えずに、しばらく沈黙したあとで別の話をし始める。

「夏目先輩、さっき教授の部屋で大学院卒業後のことについて話をされてたんじゃありませんか?」

 なぜ佐藤マヒロはそんなことまで知っているのだろう? オレの卒業後の進路に、彼女が興味を持っているのはどうしてなのか?

「そうだけど……それが佐藤さんになにか関係があるの? それよりもなんでそんなこと知ってるの」

 オレは、彼女がなぜ必要以上にオレのことを詮索するのかわからず、また、なぜ教授との会話の内容を知っているのか不気味で、イライラした口調で返す。

「今回もまた事前に教授から聞いて知ってたのか?」

「そんなんじゃないわ」

 佐藤マヒロは相変わらず水槽を眺めていた。

「夏目さんは二年後、その研究施設に行くことはないの」

「それ、どういうことだよ!」

 オレは大きな声を出していた。佐藤マヒロが水槽から目を離してオレのほうを見る。驚いたことにすこし涙を浮かべていた。

「私も、夏目さんに研究施設で働いて欲しいと思ってるけど、そうはいかないの」

 研究施設で働けない? それに、佐藤マヒロはなぜ涙を浮かべている? オレは訳がわからなくなる。

「それはできないの……」

 佐藤マヒロはそういい残すと、慌てた様子で実験室を出ていく。彼女が出ていくときにちょうど、シロイさんが実験室に入ってきた。

「おい、夏目! なにがあったんだ?」

 シロイさんは、佐藤マヒロの姿を目で追ったあとオレのほうに近づきながらいう。

「どうしたんだ、夏目。インターンシップの高校生となにかあったらコトだぞ!」

 シロイさんは、オレと佐藤マヒロが色恋沙汰になっていると邪推しているようだった。

「そんなんじゃありませんよ」

 オレはそう答えると、佐藤マヒロがしばらく眺めていた水槽の淡水魚に目を移した。


6   深夜、実験室


 それから数日間は、佐藤マヒロを大学で見かけることはなかった。さりげなく教授に聞いてみると、講義には出席していて、それを終えたら研究室には顔を出さずに学生寮に帰宅しているとのことだった。

 オレは佐藤マヒロにまた会いたい、会わなくてはいけないと思い始めていた。あのとき見せた涙の意味も知りたかった。

 オレは複雑な思いを抱えていたが、平常運転でいかねばいけないと思いなおし、五月になって二度目の実験をはじめた。夏季休暇に入るまえに十個のサンプルを採取することが可能かもしれない。やみくもに採ればいいというわけではないが、かなりいいペースだと思う。

 この日の午後に水槽内を確認すると、大きなトラブルもなさそうだ。このぶんなら、夕方から淡水魚の尿を採取できるだろう。徹夜になると思ったオレは、いちど下宿に戻り仮眠をとったあと、また大学に向かう。

 カバンにはブラックの缶コーヒーが三本と、夜食のカップラーメンがひとつ。夕食はいつもの学食で食べることにしよう。

 夕方六時を過ぎると、教授をはじめ准教授や学生たちも帰宅し始める。なかには夜遅くまで残って実験をする学生もいないではないが、この日、研究室に残る予定なのはオレだけのようだった。

 夜の七時を過ぎたあたりから、オレは淡水魚の尿採取をスタートさせた。二時間にいちど、専用の容器に蓄積された尿を別の容器に移しかえて番号をマークし冷凍庫に保管する。やることはそれだけだが、長くて二十四時間、繰り返し採取するため徹夜が基本になる。そして採取した尿は後日分析にまわす。

 採取と採取のあいだの二時間は、酸性雨に関する論文を読むこともあるが、深夜だと集中力が減退してしまい、内容が頭に入ってこないことも少なくない。

 だから、夜十二時を過ぎるとスマホで音楽を聴いたり、実験室にあるラジオを聴いたりする。この日もオレはラジオを聴きながら窓の外を眺めていた。

 オレは水槽のいちばん近くの窓を開けて外を見た。心地よい五月の夜風が実験室に入ってくる。さっきまで月が出ていたが、いまは雲に隠れてしまっている。

 深夜、ハマサキという別の研究室の同級生がオレがいる実験室にやって来ることがよくある。ハマサキはいつも帰るときに、オレがいるかどうか見に来る。実験がはじまるとオレが朝までいることを知っているからだ。

 ハマサキが来たときは、そいつの車で近くのコンビニに買い出しに連れて行ってもらうこともある。夜食のカップラーメンを買ってはいるが、いい気分転換だ。

 オレはイスに座り目を閉じてラジオを聴いていたが、いつの間にか眠ってしまっていた。イスから滑り落ちそうになり、ハッとして目を開くとニ十分ほど時間が進んでいる。

 午前一時にさしかかろうとしていた。そのとき、実験室のトビラの近くで音がしたような気がした。

 ハマサキはわざとオレを驚かせるように入ってくることが多いため、またハマサキだろうと思い、イスから立ち上がりトビラのほうを振りかえったが人がいる気配はなかった。

「プルルル、プルルル、プルルル」

 タイマーが鳴った。この日、四回目の尿採取だ。オレは、手際よく採取した尿を冷凍庫に入れて、また同じイスに戻る。次はあと二時間後。さっき眠ったところだが、また仮眠しようか。でないといちばん眠い朝方がキツくなる。

 オレはそんなことを考えながら、窓の近くに立った。月が完全に雲に隠れている。といっても、真っ暗闇ではなくて、校舎のそばにある大学の駐車場の水銀灯の灯りがぼんやりと光っていた。

 窓の近くから、イスのほうに戻ろうとしたとき、窓ガラスに映ったカゲにオレは仰天して大声をあげそうになる。振りかえると、そこには佐藤マヒロが立っていた。

「驚かすなよ! びっくりするだろ!」

「ごめんなさい。深夜の実験室ってこんななんだと思って、声かけるの忘れてて……」

 佐藤マヒロはいちおう謝ってはいたが、悪びれた様子はなく見えた。

「それより、こんな深夜に出てきちゃダメじゃないかよ」

「夏目先輩に話しておきたいことがあったの。聞きたいこともあったし」

 佐藤マヒロは上下ジャージ姿だ。散歩のついでに大学に立ち寄ったみたいにも見えた。

「話なら明日聞くから、もう寮に帰ったほうがいい。深夜だし送っていくよ」

「明日になったら、ほかのみんなが来ちゃうでしょ。夏目さんとふたりきりで話したいことがあるの」

「ふたりきりで話したいことだって?」

 オレは佐藤マヒロの意図がまったくわからない。

「佐藤さん、とにかく帰ってくれよ。キミが深夜に研究室に来てたことがわかったら、教授にも迷惑かけるだろ? わかるよな?」

「魚っていつ寝てるんだろう?」

 オレの話を聞いてるのか聞いてないのか、佐藤マヒロは水槽に近づき淡水魚を眺めはじめた。

「とにかく帰ってくれよ、ほら!」

 オレはとうとうイスから立ち上がり、彼女のほうに歩み寄る。

 すると突然、彼女がその場に座り込んだ。

「ここからムリに連れ出そうとしたら、大きな声を出します。乱暴されたっていうわ! 近くに誰もいないかもしれないから、そのときは明日の朝、研究室のみんなに報告します」

「勝手にしろ!」

 オレは呆れながらまたイスに座りなおす。

 そこまでして、ここに留まりたい理由はいったいなんなんだ?

 数分が過ぎた。佐藤マヒロはすでに立ち上がっていたが、水槽の淡水魚を眺めたり、窓の外を眺めたりしている。

「夏目さん、ごめんなさい。だけど聞いておきたいことがあったから」

 オレはイスに座りながら目を閉じていたが、おもむろに立ち上がり、カバンのなかから缶コーヒーを出した。

「ほら、キミの好きなブラックだ。オレもちょうど飲もうと思っていたところだ」

 缶コーヒーをわたすと、彼女は微笑みながらプルタブを開けた。そして香りを嗅いだあとで近くのイスに腰をおろした。

「ところで話ってなんだい? それとオレに聞きたいことって?」

 とりあえず話を聞いてやれば、佐藤マヒロが納得して寮に帰ると思ったオレは、できるだけ穏やかな感じで話しかける。

「夏目さんって、たしか去年までお付き合いしてた人がいるんですよね?」

 ブラックコーヒーよりもはるかに目を覚ます効果のある質問だった。そもそもなぜ、佐藤マヒロがそんなことを聞きたいのか。

「答えてください、夏目先輩」

「え~と、その……そうか! キノシタだな。あいつほんとにおしゃべりだからな。だけど、オレはあいつに直接そんな話はしてない。あいつの話はウワサをつなぎ合わせただけだ」

 キノシタというのは同じ研究室の同級生。佐藤マヒロはそのキノシタから、フユミのことを聞いたに違いないと思った。

「キノシタさん? 私が聞いた相手はキノシタさんじゃありません」

「じゃあなんで? まさか佐藤さん、工学部にまで調査しにいったのか?」

 ヨウイチならある程度は知っている。逆にいうと、ほかに考えられなかった。

「私が聞いたのは本人からです」

「本人?」

「そうです」

「フユミ本人から聞いたってことか?」

 オレはかなり動揺していた。佐藤マヒロはフユミを知っていたのか。それとも事前に調べたのか。

「そうか! キミ、フユミの妹だろ? だからいろいろ知ってるんだ。苗字が同じだもんな。ありふれた苗字だから疑わなかったけど、ありえる話だ」

「私は妹じゃないわ」

「オレはたしかに距離を置こうっていったよ。でもそれは、オレの進路が定まるまでのあいだともいった。フユミに納得してもらおうとしたんだ。オレにどうしろっていうんだ? オレとフユミとの痴話げんかを研究室のみんなにいってまわるつもりか?」

「気難しくて自己中で繊細。だけど、自分のこと以外は鈍感って聞かされてたけど、その通りね」

「目的はなんだよ? オレを問い詰めるために来たのか?」

 勢いのある夜風が窓から吹き込んできた。佐藤マヒロの髪がなびく。オレは当然、彼女が怒っているものと思ったが、その表情から感じたのは憐憫だった。

「まだわからない? 佐藤フユミは私の母よ」

 さっきまで興奮していたオレだったが、そこで思考が停止した。この娘はなにをいってるんだ。

「キミがフユミの娘だって! じゃあ……」

「そうよ、夏目先輩。あなたは私の父親よ」

「ちょっと待ってくれよ。フユミはオレよりひとつ下だから、二十一歳だぞ。キミは高校生で十六歳。娘のはずないだろ!」

「あの日、お父さんが、お母さんの部屋に行ったときのこと思い出して」

 フユミの部屋に行ったときのこと? あの日ってまさか? オレは後頭部がズキズキと痛くなる感覚があった。

「お母さんが大切な話があるって、お父さんを部屋に呼び出したときのことよ。今日みたいに心地いい気候だった」

 佐藤マヒロは、オレがなにを考えているのかすべて知っているみたいだった。もしもフユミの娘だとしても、やはり年齢的におかしいし、旅館でのこともある。この世のものではないかもしれない。

「お父さんがお母さんの部屋に行くとき、いつもお母さんはとても嬉しそうな笑顔で迎えるのに、あの日はそうじゃなかった。不安そうな表情をしていた。そんなときはいちどしかなかったはずよ」

 佐藤マヒロにいわれて、オレはそのときのことを思い出そうとする。しかし、思い出そうとすればするほど、後頭部の痛みが増してくる。それでもなぜか、思い出さなくてはいけないという気持ちが強い。すると、しだいにそのときの記憶が頭のなかに広がってきた。

 たしかあの日は、急に電話で呼び出されたんだった。アルバイトの家庭教師を休んでフユミの部屋に行ったんだ。電話でのフユミはすこし様子が違っていた。なにか深刻な話があるようだった。


7   二年前、フユミの部屋


「とりあえず明日さ、きちんと検査してもらおう。それから考えてみようよ」

 オレはフユミから切り出された話に、どう対処していいかわからなかった。だから、とりあえずその場をやり過ごそうとしたのかもしれない。

「間違いないわ。さっき自分で調べたんだもの。だから、これからどうするかワタルくんと話がしたかったの」

「これからどうするかって、オレたちまだ学生じゃないか。だから、フユミの両親とかオレの親にも話してさ、いっしょに考えていこうよ。それにまだ確定したわけじゃないだろ?」

「さっき調べたっていってるじゃない」

「だから、市販の検査薬なんだろ。病院でちゃんと検査してもらってさ。それから考えても遅くないんじゃないか?」

「これからいろいろ変わるのよ。これまでどおりの学生生活は送れないわ」

「選択肢はひとつだけじゃないだろ?」

「それどういうこと? 生むなっていいたいの? それ、私の親の前でもいえるの?」

「そんなに突っかかるなよ。オレは現実的な話をしてるだけだよ」

「私にほかの選択肢はないわ。小学校の先生になりたくて教育学部に入ったの。それなのに、子供が好きなのに、生まない選択肢なんてあると思う!」

「わかってるよ。フユミが生むのを否定してるわけじゃないだろ。オレは、病院できちんと検査してから考えようって、さっきからいってるだけだよ」

「だから……妊娠は間違いないから、これからのことをいっしょに考えるためにワタルくんを呼んだの! これからどうしようと思ってるか聞かせて!」

 フユミはかなり興奮していた。オレは冷静な話し合いができないと思ったが、いまヘタな対応をするとフユミがさらに興奮するだろう。

「オレたちは学生だから、生活能力がないだろ。だから、オレが卒業して就職するまで、オレかフユミかどちらかの両親に頼ることになると思う」

「私は、妊娠と出産と並行しながら学校に行くことなんてできないと思うわ。どこかのタイミングで休学とか退学することになる」

「退学って……だから、フユミの親にサポートしてもらえばいいだろ! おじいさんおばあさんに子供預けて働いてるお母さん、いっぱいいるじゃないか」

「ほかの人のことは知らないわ。私の話をしてるの! それに、私だけじゃない、ワタルくんの子供なのよ。なによ、さっきから他人事みたいに!」

「その子のためにも、オレが就職先を決めるのが大切だろ? ほかにどうしろっていうんだよ?」

「私が妊娠してもしてなくても、ワタルくんはいい就職先を決めるだけでしょ! 私は休学しないといけないかもしれないのに」

「だから、オレにどうしろっていうんだよ。学生のまま家庭に入ってイクメンでもするのか! それこそ将来が思いやられるよ」

「そんなこといってるんじゃなくて、これからのことをいっしょに考えて欲しいって思ってるだけよ!」

「なんどもいってるじゃないか、明日あらためて検査してもらって、それから落ち着いて考えようって」

「病院で検査して妊娠してたってわかったら?」

「さっきと同じ答えだよ。就職先を決めるようがんばるよ。それまではちょっと距離を置いたほうがいいかもしれない」

「私、とても不安なのよ! そんなときに距離を置こうとかよくいえるわね」

「フユミのご両親の手助けがあるじゃないか」

「なにいってるの! ワタルくんの子供なのよ!」

「だからまだほんとに妊娠ってわかったわけじゃないだろ。それよりも、そんなに興奮するなよ。……今日はもう遅いから帰るよ。明日の朝、迎えにくるから。いっしょに病院に行こうな」

「帰らないで……いっしょにいてよ。不安なの」

「……不安なのはわかるけど、研究室で実験の準備しなくちゃ」

「なによ! 実験、実験って! そんなに研究が大切?」

「成果出さなきゃ。いい就職先にいくには。オレがいい就職先で働くことが、結局はフユミとオレと……まだわからないけど、子供のためになるんだ……」

「もういい!」

 声を荒げたフユミをなだめようとして、オレは肩にふれた。

「落ち着けよ。明日また来るっていってるじゃないか」

「さわらないで!」


8   午前二時 実験室


 フユミから妊娠の話をきかされたとき、たしかにオレはやっかいなことになったと思ったが、フユミと関係を続けていきたかったのは事実だ。だから翌日、いっしょに病院へいくためにまたフユミの部屋をおとずれたはずなんだが、そこからさきの記憶がない。思い出そうとすると後頭部がさらに激しく痛む。

 フユミの部屋から出た記憶もないが、そこを思い出そうとすると、後頭部が痛むのはもちろんだが、呼吸も苦しくなってくる。

「お母さんは、お父さんのことが大好きだった!」

 佐藤マヒロの声が深夜の実験室に響いた。

「だから、お母さんはふたりが出会ったエピソードも嬉しそうに聞かせてくれたわ。お父さん、覚えてる?」

 マヒロははじめてオレに向かって、オレのことを〝お父さん〟と呼んだ。

 しかし、突然現れた女子高校生が、フユミとオレの娘という事実はおよそ受け入れがたい。オレは現実感覚を失いそうになる。

 その一方で、マヒロに問われた、フユミとの出会いについてはもちろん覚えていた。

 あれはオレが、学内のハーフマラソン大会に出場したときのことだ。普段ほとんど運動していないオレがなんでそんなものに出場したのか、はっきり覚えていないが、軽いノリだったのは間違いない。

 オレは普段の運動不足解消という程度の意識で走るのだが、解消どころか身体への負担がすさまじく、途中でまともに走れなくなってしまう。結果、歩きながらゴールしたまではよかったが、ゴールライン付近の芝生に倒れ込んでしまった。

 あとで教えてもらったが、オレが倒れ込んだのは、優勝者がゴールしてから約三時間後だった。それでも、競技の運営はもちろん、大学の学生をふくめたギャラリー数十人ほどがゴール近辺に集まっていた。

 オレは起き上がろうとしたがきちんと立てず、そのまましばらく芝生に転がった状態。そこに、水を持ってきてくれたのがフユミだった。オレはふらふらしながらもそれを受け取り飲み始める。

 ペットボトルの水が喉と身体に心地よかった。すこし落ち着いたオレは、立ち上がろうとする。

「普段、運動してないとムリしちゃうんですよね。もうちょっと休んだほうがいいですよ」

 フユミはそういってカバンからタオルを取り出し、自分が持っていたペットボトルの水でそれを濡らして、オレの顔を拭いてくれた。

 汗はもうひいていたと思うが、冷たくて心地よかった。黄色い色のタオルだったことを覚えている。

「お母さんは……」

 マヒロの声で、オレは現実に引き戻される。

「お母さんは、その黄色いタオルのことも話してくれた。出会いのきっかけだったって。だけど、私はそのタオルを見たことがないの」

「そうだ。フユミはあのタオルを大切にしてた。オレが部屋にいったときはかならず目立つとこに置かれていた」

「お父さんが、洗濯して返すってお母さんにいって、ハーフマラソン大会のあと持ち帰ったのよ」

 たしかにマヒロがいうように、オレはタイルを洗濯して、たしか教育学部まで持っていったんだった。それからフユミとすこし話をして……。

 タオルのことを考えると、後頭部がさらに痛む。なにかとても硬いものにぶつけた直後のような感覚だった。

「大切にしていたタオルなのに、あの日以降、お母さんはあのタオルを手元に置くことができなかった」

「あの日って?」

「お母さんの部屋で、お母さんとお父さんが口論になったあの日よ」

「なんでフユミはタオルを手元に置けないんだ?」

 後頭部の痛みはますます酷くなる。しかし、マヒロの話をきかざるを得ない気持ちになっていた。

「これから話すわ。最後の夜のこと」

「最後?」

「お父さんは、なんとかお母さんを落ち着かせてから帰りたいと思ったの。だから、なるべく穏やかに話しかけて、お母さんの身体にも優しく触れた。でもお母さんはものすごく興奮していた」

「そうだ。オレは明日また迎えに来るからとなんどもいった。とにかくフユミを落ち着かせたかった」

「だけど、お母さんは、お父さんがその日帰るということ自体にイライラしてたから、聞く耳を持たなかった」

「今日のところは落ち着いてくれといって、またフユミの肩に手を触れて……それから、最後は抱きしめようとしたんだ」

「でも、お母さんは反発した。お父さんの身体を思い切り突き飛ばしたのよ」

 オレは、これまで思い出せなかった部分を鮮明に思い出していた。後頭部の痛みがさらに激しくなる。

「お母さんに突き飛ばされたお父さんは、フローリングの床で足を滑らせて頭を打ったの。運悪くそこには、お母さんのお父さんが、防犯対策ってことで自宅から持ってきた鉄アレイがあった」

「鉄アレイ?」

「お父さんは頭を抱えていたけど、そのあと起き上がった。でも意識が朦朧とした状態が続いて、そのあとは……」

「どういうことだ?」

 後頭部の痛みはさらに激しさを増していた。

「お母さんはパニック状態だった。例の黄色いタオルを水に濡らしてお父さんの患部に押しあてた。救急車を呼ばないといけなかったんだけど、お母さんは気が動転していた」

「オレはどうなったんだ?」

 後頭部の痛みが激しいのに加えて、こんどは意識が朦朧としてきた。

「お母さんはとりあえず実家に電話したの。事の顚末を話すと、お母さんのお父さんとお兄さんがすぐに駆けつけてくれた。すぐっていっても、やって来たのはお父さんが倒れてから五時間後だった」

 鍬、黄色いタオル、土のなか……もしかしてオレは……。

「そのあとはお父さんの想像通りよ。私があの旅館で見せた通り」

 オレは、もう目を開けている力さえなくなっていた。

「実際に埋めたのはお母さんのお兄さん。お母さんのお父さんとお兄さんが着いたときには、お父さんはもう亡くなってた」

「教えてくれ。オレが土のなかにいるんなら、この二週間のことはいったいなんだったんだ?」

「私は、お父さんにすごく会いたかったの。だって、私が生まれたときにはお父さんはすでにいなかったから」

 マヒロの目には涙があふれていた。

「お母さんや、お母さんのお父さんとお兄さんは、あのときのことをとても後悔してる。私が高校を卒業して、それから大学を卒業したら警察で話すっていってる。だから、お母さんもお父さんのことはあまり話してくれないの。だけど、私はお父さんのこと知りたかった」

 マヒロは近づいてオレの手を握った。しかしオレは意識が朦朧としていたので、イスから立ち上がることができないほど身体に力が入らない。

「自分が死んだことがわからない人、この世に大きな未練のある人は、死後も頭のなかの妄想がこの世に漂ってる。いま、私はそこにアクセスしてるの」

「オレの頭のなかに、マヒロが入ってきてるのか?」

「生きていれば、こうあっただろうってお父さんが思っている世界にね。お父さんの想像のなかの世界でも、こうしてお父さんに会えて嬉しかった」

「そうか……。よくわからないが良かった。オレも嬉しいよ」

「お父さんの遺体が見つかったら、供養してもらえるわ。そしたらお父さんの未練がこの世を漂うことはなくなる。そうなったらもう会えない。だから……会えてほんとに良かった」

 そういうとマヒロは、オレの手をさらに激しく握った。しかしオレの手の感触はほとんどなくなっていた。

「お母さんが大好きだったお父さんってどんな人なんだろうってずっと思ってたけど、私の思ってた通りの人だった。気難しくて自己中で繊細なんだけど、自分と自分が興味のあること以外は無頓着……」

「そうか……オレもフユミ、マヒロのお母さんのことが大好きだった。だけど自分を優先し過ぎたかもしれない……。後悔があるとしたらそれかな」

「もう時間がないの。お父さんが自分が死んだことを知ったとき、私はお父さんの想像のなかから消えてしまう。そしてお父さんの意識も……」

「オレはフユミにはなんの恨みもないよ。そう伝えてくれ。それから、マヒロを生んでくれてありがとうって」

「わかった」

 さっきよりもマヒロの声が遠くなる。

「あとひとつ教えてくれ。マヒロってどんな字を書くんだ?」

「お父さん、研究室で配られたプリントとか見てないの? ほんと自分のこと以外はどうでもいいんだから」

「頼むよ。もう時間がないんだろ?」

「真実の〝真〟に、黄色の〝黄〟と書いて〝マヒロ〟よ」

「そうか、黄色か。真黄……とてもいい名前だ」

 オレは真っ暗闇のトンネルのなかに入っていくような感覚に陥った。後頭部の痛みはもうない。海のうえに浮いているかのような心地いい感覚になったところで意識が途絶えた。


9   二十一年後 研究室


「佐藤真黄君か。うちの研究室を希望したのは、環境問題に興味があるってことだけど?」

「酸性雨の研究がしたいんです」

 私の目の前には、お父さんの指導にあたっていた教授がいた。

 私がお父さんの想像のなかでお父さんに会ってから、五年が過ぎていた。ニ十一歳になった私は、希望通りお父さんとお母さんが通っていた大学に入り、二年が経とうとしている。

「そういうことなら、うちで受け入れよう。二年生までの成績も申し分ないしね。だけど、ボクは今年で定年なんだよ。だから、後継の先生に頼むか、それとも特例でキミが卒業するまで面倒をみるか、どちらにしてもきちんと指導するから安心しなさい」

「ありがとうございます」

「先生、さっき研究室の四年生にうかがったんですが、以前に酸性雨の研究をしていた学生がいたとか?」

 そう聞かれた教授は、思い出す仕草をしたあとで切り出した。

「この二十年で何人かいたけど、最初に取り組んだ学生はいちばん優秀だったなあ。名前はたしか……」

 教授はそういって、背後のロッカーをさぐりはじめた。

「卒業しないまま、あるとき行方がわからなくなったんだけど、研究データが書かれたノートはこうして残してるんだ。ええと……そうだ夏目ワタル君だ。あとほかの学生の卒論や、研究データにもひと通り目を通しておいたほうがいいな」

 教授はそういうと、ロッカーのなかから取り出したメモの束やノート、データをプリントアウトした書類を机のうえに置いた。

 そしてロッカーのうえにあった空の段ボールを下ろして、そこに入れる。

「四月になってキミが正式に配属されたらわたすよ。それまではこうして保管しておくから」

 教授は段ボールの口をたたむと、ふたたびイスに座った。

「二十年間だから、もっと膨大かと思ってました」

「テーマ自体はもっと前からあるんだが、うちの研究室で最初に取り組んだのが、その夏目君だった。でもそのあとは、引き継ぐ学生が数人しかいなくてね」

「そうなんですね」

 私はさっきの段ボールに目を向けながら、相槌を打つ。

「体力的にハードでもあるしね。研究テーマに限らずなんだが、目的意識を持ってないと、途中で迷走することもあるからねえ」

「先生、実験室をちょっと下見させてもらっていいですか?」

「ああ、もちろんだよ」

 私は教授の部屋を出て実験室に向かう。お父さんがよく外を眺めていた窓を開けると、二月の冷たい空気が入ってきた。

 私は窓をそのままにして、実験室のなかをみわたす。棚には使われていない水槽がいくつも置かれていた。当然だが、二十年以上前の水槽や実験器具はもとより、備品のイスなどもすべて、お父さんがいた当時のものではなかった。しかし目を閉じると、お父さんが実験に勤しんでいる光景が浮かんでくる。

 私はゆっくりと目を開けて、比較的新しめの水槽を手に取った。かつてお父さんが使っていたのとサイズは同じくらい。これにしよう。そう決めたが、よく考えたら、私が正式に研究室に所属するのは四月以降。まだひと月以上先だ。

 私は水槽をもとの棚に戻し、ふたたび教授の部屋にいき、挨拶してから研究室を離れた。校舎から外に出ると、冷たい空気が身体を突き刺してくる。外は雪が降りそうな曇り空で気温も低い。

「そうだ!」

 私は学食でコーヒーを飲んでから帰ろうと思った。温かいコーヒーが私の身体を温めてくれるだろう。選ぶのはもちろんブラックだ。

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