無知の末路。あるいは身勝手な王太子と常識知らずの男爵令嬢。
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「ベアトリス様! あたしに対する嫌がらせをやめてください!」
放課後の貴族学園のカフェに、ロージーの叫び声が響いた。
カフェは、金箔や真鍮で細かい飾りをつけた椅子の席と、簡素なデザインの木製椅子の席に分かれている。
高位貴族が使用する場所と、下位貴族の令息や令嬢の使う場所を、椅子で明確に区分けしているのだ。
だから、ベアトリスがゆったりとお茶を楽しんでいる周りには高位貴族の令息や令嬢しかいない。
下位貴族の者は、近寄るのも不敬なのだ。
椅子のような「暗黙の了解」が貴族の社会には山のようにある。
だが、息せき切ってベアトリスの傍までやって来たロージーは、元平民。
そんな「貴族の常識」は知らなかった。
一年前、政略に使う予定だった娘を亡くしたドレイク男爵が、そう言えば平民女に産ませた娘がいたはず……と、ロージーのことを思い出し、男爵家に引き取った。
一応、それなりの教育を受けさせてから貴族学園に入学させるつもりだったのだが……。
ロージーは「なにそれ? お貴族様って面倒なことばかり決めるのね」と、施された教育をまともに身につけようとはしなかった。
家庭教師がいくら言っても無駄で。
とにかく、字を書いて読むことだけに重きを置いて、教育を施された。
文字が書けなければ、読めなければ。
貴族学園に金を積んで、なんとか入学させたところで、定期試験の解答用紙に名を書くことすらできなくなってしまう。
貴族の常識にロージーは疎い。
知らないだけではなく、学ぶ気はない。
それでも、おっとりとした貴族の令嬢たちは、同じ学園に通う者だからと、ロージーにさりげなく、「貴族としての当たり前の常識」を告げた。
「あちらの男爵令息には、婚約者が居らっしゃいますわ。ロージーさん。令息と手を繋ぐのは、はしたないですわよ」
「廊下は走らないでくださいませね」
「あちらは王太子殿下でいらっしゃいます。廊下で出会った時は、壁際にそっとよけ、頭を下げて殿下が通り過ぎるのを待ちましょう」
ごく当たり前の常識。
けれど、ロージーは反発した。
「手を繋ぐぐらいなんだって言うの?」
「遅刻しないように急いでいるんだから走って当然でしょう?」
「誰かに会ったら『こんにちは!』って元気に挨拶するべきよ! 下町じゃあ、それが当り前よ!」
貴族の令息令嬢にとっては当たり前の常識を説いているだけ。だが、ロージーは口うるさい嫌がらせだと思ってしまった。
と、いうのも。王太子であるサミュエルとロージーは懇意になったのだ。
壁際に避けて、頭を下げるのではなく。
「こんにちは! 王太子殿下! 今日はいい天気ですね!」
満面の笑顔で、元気いっぱいに挨拶をした。
ロージーにしてみれば、当たり前の挨拶。
だが、周りの貴族の令嬢たちはぎょっとした。
下々の者から、許しもなく王太子殿下に声を掛けるなど。
ありえない。
非常識だ。
だが、王太子であるサミュエルは。
少々驚きはしたが、ロージーに興味を持った。
面白い女だな……と。
親しくなるまでに、それほどの時間はかからなかった。
あっという間に、手を繋いで一緒に薔薇園を散策し。
あっという間に、二人きりでお茶を飲み。
そして、キスをした。
王子様に見初められた元平民娘。
ロージーは有頂天になった。
だが、王太子であるサミュエルには当然、婚約者が居る。
それが、ブラックウッド侯爵令嬢ベアトリスだ。
豪奢な赤い巻き毛。常に浮かべている淑女の微笑み。
学園での成績はトップ。
王太子妃教育も、学園に在学中にすでに終えている実に優秀な令嬢だった。
「ごきげんよう。わたくしに何か御用かしら?」
ベアトリスと同席していた幾人かの令嬢は、突然飛び込んできたロージーに眉根を寄せたが、ベアトリスは淑女の笑みを崩すことなく、軽やかな声で尋ねた。
それを、嘲りと受け取ったのか、ロージーは激昂した。
「嫌がらせをやめてって、今! 言ったでしょう! 話を聞いていないの⁉」
「あら、あなた、嫌がらせを受けていらっしゃるの?」
「とぼけないでよ! アンタがさせているんでしょう!」
王太子の婚約者であり、侯爵令嬢。
そのベアトリスに対して、平民上がりの男爵令嬢が「アンタ」と呼んだ。
同席の令嬢。それから、この会話を耳にしたカフェにいる者たちはぎょっとしてロージーを凝視したが、ベアトリスは動じない。
「わたくしは何もしていませんけれど。もしもわたくしを慮って、あなたに嫌がらせをしている者がいれば、この場で、あなたに対する嫌がらせをやめよと命じますわね」
言って、ベアトリスは同席の令嬢たちに視線を流す。
それだけで、令嬢たちは「かしこまりました」と頭を軽く下げた。
「安心なさってね。今後は嫌がらせなどなくなると思いますわ」
ベアトリスがこれ以上何も行わなくても。周囲がベアトリスの意を汲み動く。
それが、ベアトリスにとっての常識なのだ。
にっこりと笑って、ベアトリスは会話を切り上げた。
もう用はないだろうから、去れ。
笑みが、そう伝えた。
そして、ベアトリスは元のように令嬢たちとの会話に戻ろうとしたのだが……。
「は……?」
余りにさらりと言われたロージーは、わけが分からなかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
ベアトリスは軽く首を横に傾けた。
「あら? 他にもご用事が?」
言外にではあるが、去れと伝えたはずなのに、去りもせずにしかもまだ用事があるとばかりに「待て」と言われた。
高位であるベアトリスに対して、下位であるロージーが「待て」と言ったのだ。
突然割り込んできた不敬は許した。
重ねて不敬を行うような不届き者を、ベアトリスは初めて見た。
不敬だと感じるよりも、初めて出会う珍獣のようにしか感じられなかった。
「あたしっ! サミュエル様と仲良しなんです!」
王太子殿下の名を呼んだ。
さすがのベアトリスも、少々目を見開く。
同席の令嬢などは、思わず席を立ちかかった。
余りにも不敬だと。
しかも。
「見てください、この指輪!」
左手の小指に、ロージーの髪色と同じ、ピンク色の宝石が付いた可愛らしい指輪がはめられていた。小指の爪よりも小さな宝石が、きらりと輝く。
「婚約指輪だって、サミュエル様が言って、あたしにくれたんです! あたしたち、将来結婚するんです! もう既に愛し合ったんです! だから、ベアトリス様には身を引いていただきたくて!」
「そうなのね……」
さすがにここまで言われれば、ベアトリスも対応に動かねばならない。
すっと、音も立てず静かに。ベアトリスは椅子から立ち上がった。
「貴重な情報をありがとう。それでは、わたくしは失礼いたしますわ。今後のことを、父と相談せねばなりませんからね」
同席の令嬢たちも立ち上がり、ロージーに背を向けて去って行った。
そして、十日後。
ベアトリスとサミュエルの婚約は破棄された。
もちろん王家もブラックウッド侯爵も、ロージーの言だけで、婚約破棄を決めたわけではない。
調べた上でのサミュエルの有責だ。
ベアトリスは莫大な違約金をサミュエル個人からではなく、王家から受け取った。
サミュエルは王太子の地位をはく奪され、平民へと身分を落とされた。
最後の情けとして賜った土地は山奥の農村地帯。
一応、小さな村があり、そこで畑を耕す者はいる。
だが、若い者は村を見限り、都会へ出る。
今、村に住まうのは老人ばかりである。
そこへ、やってきたサミュエルとロージーは、村はずれの屋敷には住んだが……何もできない。
侍女や執事はもちろんのこと、家事使用人や調理人すらいないのだ。
畑を自分で耕し、山羊とニワトリの世話をして、自分たちで暮らせと言われても。
これまで王太子として大勢に傅かれてきたサミュエルにとっては。
耐えられない。
怒りをロージーにぶつけた。
「なんなんだっ! ロージー! なぜ君はボクとの関係を、ベアトリスに告げたんだ!」
激昂するサミュエル。
ロージーは分からず混乱した。
「どうしてって……。サミュエル様はあたしと結婚してくれるつもりだったんでしょう? 婚約指輪だってくれたし。それに……」
一夜を共にした。
結婚するのなら、大丈夫だと思って、ロージーはサミュエルに肌を許したのだ。
だから、ベアトリスに身を引けと告げた。
一人の男がいて、二人の女がいて。男が片方を選べば、もう片方の女は身を引くのが当然。
ロージーにとっては当たり前のこと。
だが。
ロージーと、サミュエルと、ベアトリス。
それぞれ持っている「常識」は違う。
「あのねえ! 君とは遊び! 婚約の真似事! そんなの当たり前だろう⁉ わかり切っているだろう⁉ 楽しい遊びの代金として安い指輪を渡しただけだって!」
「え……?」
平民上がりの男爵令嬢が、王太子妃になれるわけはない。
そんなものは、サミュエルにとっては自明の理だった。
ようやく字を書けるようになった程度の小娘が社交をこなせるはずはない。
外交の場などに出したら、他国の高位貴族や王族に何を言うかわかったものではない。
「当然わかっていただろ? ロージーとは学生時代の楽しい遊びなんだよ! なのになぜわざわざベアトリスに告げる! 黙っていれば、ベアトリスとの婚姻後、愛人くらいにはしてやったのに!」
「え……?」
結婚だの、指輪だの。
そんなもの、サミュエルにとっては気持ちを高めるための発言であり小道具に過ぎない。
本当にサミュエルがロージーを愛し、共に一生を終えようと願ったのならば。
体を繋げるより先に、筋を通す。
ベアトリスとの婚約はなくし、ロージーのドレイク男爵家に婚約の申し込みをする。
婚約指輪だって、小指の爪の先程度の小さなものを、王太子たるサミュエルが与えるわけはない。
実際、婚約に当たって、ベアトリスに贈られた指輪は国宝級。
サミュエルの瞳の色に合わせた大粒のサファイア。更にそのサファイアの周りを十四粒のダイアモンドがぐるりと取り巻いている。
それを、ベアトリスはサミュエルに返した。
「婚約はなかったことになると、わたくしの父から教えていただきましたわ。ですのでこちらはお返しいたします」
にっこりと笑ってベアトリスはサミュエルに告げた。
「ロージーさんという方は貴重な情報をわたくしに告げてくれました。王太子殿下であったサミュエル様が平民上がりの男爵令嬢と肌を交わしたと。もちろんロージーさんの証言だけを信用するのではなく、わたくしの父もいろいろと調べさせたようですわよ」
証拠は多かった。
ロージーの指輪の購入店。サミュエルがロージーを連れ込んだ宿。
いつ、どこで、サミュエルとロージーが何をしたか。
報告書には赤裸々に書かれていた。
「何だよその程度! 男なら愛人を持つくらい当然だろう! 男の甲斐性というものだ!」
サミュエルの激昂に、ベアトリスは冷笑した。
「婚姻後、後継を得た後、愛人と共に戯れるというのであれば、目くじらは立てませんわ」
ベアトリスは侯爵家の娘。しかも王太子の婚約者……だった。
婚姻後、万が一、後継を得られなかった場合、側室を斡旋するのも王太子妃としての「仕事」だと理解している。
「ですが、婚姻の前に、貴族の令嬢としての常識のない『珍獣』と肌を交わしたと報告されては……。申し訳ございませんが、わたくし、『特殊な性癖を持つ殿方』に嫁ぐなど気持ちが悪くて」
「な、なんだと?」
あけすけに言われた意味が、サミュエルにはわからなかった。
「ロージーさんとやらはわたくしども、高位貴族の常識外の方ですわね。そんな珍しさに興味を持つ程度ならともかく。肉体的な恋情を持つなど。わたくしには到底理解できないと申し上げました」
ベアトリスにとっては、常識の通じないロージーなど『珍獣』も同然。
世界三大珍獣と呼ばれる動物。珍獣でなくとも図鑑などで見たことのある動物たち。
そんな動物に恋情を持つだけではなく、肉体的な接触を既に結んだサミュエル。
性癖も気持ちが悪いが、何かの悪い病気をもらったかもしれない。
そんなサミュエルを将来夫として、子を生さなければならないなんて……。
冗談ではない。
嫌悪感を、そのまま父に伝えた。
父であるブラックウッド侯爵がベアトリスの嫌悪感をもっともだと捉えた。
高位貴族の矜持を以てしても、生理的な嫌悪感は抑え込めないと国王に伝え、婚約は破棄となった。
国王は頭を抱えたが、既に、ロージーが、貴族学園のカフェなどと言う場所で、肉体関係を結んだと公言したも同然なのだ。
生理的嫌悪感を抱く者は、何もベアトリスだけではない。
令嬢や夫人たちは、ベアトリスと同意見だ。
話を聞いた王妃でさえ、自分が産んだ息子であるサミュエルに嫌悪感を示した。
令息たちは苦笑をするが、それでも、程度の低い女を相手にした王太子として、既に見下げている。
馬鹿な醜聞を起こした馬鹿な男女。
それが、サミュエルとロージーに対する評価だ。
国王が何らかの手を回す前に、そんな評価が貴族社会に回ってしまったのだ。
どうしようもない。
手の打ちようもない。
そうして、なかったことにしたのだ。
婚約も。
王太子としてのサミュエルも。
平民として生きていける程度の生活基盤は用意してやった。あとはどうなっても構わない。
一応監視役はつけてはいるが……。
真っ当に暮らすこともできないだろうと予想している。
そんなことは、ロージーには何も分からない。
何一つ。
真実の愛。身分の差を乗り越えた、本当の愛情。
そんな夢を見て、夢は破れた。
目の前のサミュエルはガリガリと頭を掻いて、ロージーを睨んでくる。
これが一生続く。
ロージーは、夢が破れた後の現実に押しつぶされて。ただ、その場に座り込んだ。
一方のベアトリス。
王城の薔薇の咲き誇る庭が見下ろせるバルコニーで。
第二王子であるルーカスと共に午後のお茶を楽しんでいた。
王家は、常識知らずの元王太子よりも、優秀なベアトリスを選んだ。
既に、ベアトリスはルーカスの婚約者に内定をしている。
「ずいぶんと冷静に対処されましたね」
「あら、対処などしていませんわ。わたくしは思ったことを言葉に出しただけ」
ひやりとした空気を、ルーカスは感じた。
その通り、ベアトリスは何もしていない。
ロージーに対する嫌がらせも。
ロージーに怒りを示すことも。
嫉妬の感情も表してはいない。
ただ、「『珍獣』に恋情を抱く男など、気持ちが悪い」と端的に言っただけ。
婚約破棄を望むとも言っていない。
ベアトリスの言葉の意を汲み、周囲が自発的に行動した。
それだけだ。
言葉一つで周囲を動かす。
味方に付けられれば良いのだが、敵に回せば……と思うと、ルーカスは背中に冷ややかさを感じた。
ベアトリスは薫り高い紅茶をいただきながらルーカスに微笑んだ。
「高位貴族として、そして、王族として当たり前のことを当たり前にこなす。それが大事でございましょう? 自由を求めるのであれば、責任を果たしてから後に行えばいい。目先の情欲に囚われて、一生を棒に振るなんて、馬鹿々々しい」
自由に生きたい。
愛する者と共に生きたい。
責任など放り出したい。
そんな考えも分からなくもない。
だが……。
「ルーカス第二王子殿下。あなた様は王太子としての責務を果たすおつもりはございますか? それとも……」
ルーカスは少し考えた末に答えた。
「もちろん。ボクが王太子となって、後に国王となり、君を王妃として、国にこの命を捧げ生きる。ボクたちの子が成人し、新たな王となって、ボクが引退したその後は……」
「後は?」
ルーカスはにっこりと微笑んだ。
「ベアトリス嬢。君と一緒に人生を楽しみたいと思うよ」
「まあ……」
「君は何が好きかな? 絵画鑑賞? 芸術、音楽? 他国を見て回りたいのならそれでもいいし、のんびりと気ままに過ごしたいのなら、それでもいい。ボクらが義務を果たし終えるその時まで、時間はある。君が好むことを教えてほしい」
ベアトリスは「ふふっ」と笑ってから、答えた。
「わたくしの好むものは……」
答えたベアトリスのその手を取って、ルーカスは言った。
「ああ、それはボクも好きだよ。一緒に楽しめそうでよかった」
ふふふ……、あはは……と軽やかな笑い声が、風に流れていった。
終わり。