第四話:『羽ばたきのポーションと空を夢見る少年』
あの店を見つけたのは、たしか冷たい雨の日だった。
びしょ濡れで歩いていたぼくに、あの看板は夢のように見えたんだ。
《ポーション屋・百彩堂》
叶えたい想い、忘れたい記憶、ここにすべて揃っています。
店の中は、薄暗くて静かだった。
棚には色とりどりの瓶がずらりと並んでいて、どれも宝石みたいにきれいだった。
赤、青、金、銀、透明なもの、虹色に光るもの。
まるで、いろんな人の想いが詰まってるみたいだった。
「いらっしゃいませー! あっ、傘、お持ちですか? タオル、使ってください!」
元気な声がして、奥から少女が駆けてきた。
明るくて、ちょっと笑い方がくすぐったい、そんな声だった。
「キュアっていいます。ポーションのこと、なんでも聞いてくださいね!」
彼女は笑顔でそう言った。
でも、ぼくは言葉が出なかった。
何かを聞くのが怖かった。
しばらく黙っていたぼくに、奥の影が動いた。
まるで人の形のような、そうじゃないような……ゆっくりと近づいてくるそれは、店主だった。
「……ねがい、の、ポーション……?」
低く、濁った声が響く。
でも不思議と、怖くなかった。
ぼくは小さく頷いて、やっと言葉を出した。
「……ぼく……鳥になりたいんです」
キュアちゃんの笑顔が、一瞬止まった。
けれどすぐに、いつもの明るい声で訊いてきた。
「鳥、ですか? どうして、鳥がいいんです?」
「……飛びたいからです」
そう答えると、店主がうねるように奥へ引っ込み、しばらくして小さな瓶を持って戻ってきた。
中の液体は、淡い空色だった。
それを見ていると、風の音や羽ばたく音が、耳の奥で聞こえてきそうだった。
「……これ、のめば……ひととき……トリ、の、すがた……でも、もどれない、かも……それでも……のむ、か……?」
ぼくは、頷いた。
ためらいなんてなかった。
⸻
ぼくは、顔がひどく醜いと言われていた。
生まれつき、左の目は潰れていて、皮膚も焼けた跡のようにただれていた。
学校ではいつも、視線を避けられた。
「見ないでよ」「気持ち悪い」「あんたなんか、来なきゃいいのに」
それが日常だった。
教室の隅っこで、ノートに鳥の絵ばかり描いていた。
大きな羽を広げて、空を翔ける鳥たち。
何も言わず、誰もいない場所へ行ける鳥が、ただただ羨ましかった。
ある日、机の中にあったスケッチブックが破かれていた。
クラスの誰かが、落書きしていた。
「鳥になるより、まず顔を直せよ」
先生に見せても、無駄だった。
母は泣くだけで、何も変わらなかった。
だから、ぼくは願った。
「この世界じゃないところへ行きたい。誰にも見られず、鳥になって、空を飛びたい」
それだけが、ぼくの本当の願いだった。
⸻
ポーションは、冷たくて、すぐに体の奥まで沁みた。
ふわっと、視界が揺れる。
体が軽くなる。
手が、翼になっていく。
足が細くなり、爪になっていく。
「すごい……飛べる……!」
キュアちゃんが、涙を浮かべていた。
でも、何も言わなかった。
ただ、小さく呟いただけ。
「……いってらっしゃい、鳥さん」
⸻
空は広かった。
人間だったときとは、まるで違った。
下を見ると、町が小さくて、誰の顔も見えない。
ぼくは羽ばたいた。
風が体を支えてくれる。
ただ、飛んでいるだけで、涙が出た。
このまま、ずっと空の上でいられたら——。
だけど、ポーションの効果には限りがある。
ふと、羽が重くなり、視界が霞み始めた。
ぼくは地上へと戻っていく。
気づけば、百彩堂の屋根の上にいた。
そこで、見たんだ。
キュアちゃんが、店主と話していた。
「店主様……彼、戻ってきたら、どうすれば……」
「……そのとき、は……まよい、なく……もう一度、とばせ」
そして、ぼくの中で、何かが決まった。
ぼくは、もう人間には戻らない。
羽を広げ、もう一度、空へ跳んだ。
風の中で、だれの言葉も聞こえなかった。
⸻
翌朝、店の前に、青い羽が一枚だけ落ちていた。
キュアはそれを拾って、しばらく空を見上げていた。
そして店主に、こう言った。
「……わたしも、いつか、あんなふうに飛べたらいいな」
店主は、答えなかった。
けれどその手には、小さな空色の瓶が、ひとつ握られていた。
——そして今日も、百彩堂にはまたひとつ、新しいポーションが並ぶ。
その名は、『羽ばたきのポーション』。
誰かの悲しみが詰まった、空の色をしたポーション。