第三話:紫煙のポーションといつもの席
その店に通うようになって、もう三年が経つ。
理由は、うまく言えない。ただ、居心地が良かった。
静かで、変わってて、不思議で。なにより……寂しくて、落ち着く。
百彩堂。
そこは表通りから一本外れた、古い石畳の小道の奥にひっそりとある。
看板の文字は筆で書いたような、どこか懐かしい字体。
扉を開けると、ふわりと香るのは、和菓子の甘い匂いと、ポーションの薬草の香り。
棚に並ぶガラス瓶は、宝石のように光を反射して美しい。
赤、青、紫、琥珀……眺めているだけで時間が溶けていく。
だが、何より目を引くのは、受付に座る異形の存在だ。
人ではない。形容し難い。
ぐにゃりと曲がった体。何本もあるような手の影。
濁った声は、どこか金属がこすれるような音に似ている。
「……おまえ、また、きた、な……むね、が、くるしい、のか……?」
「まあな。ちょっとな、重くてよ」
俺は軽く応じて、いつもの席に腰を下ろす。
カウンターの端。窓際。いつもこの席だ。
初めて来た日から、ずっと。
「いらっしゃいませ!」
元気な声が響いた。
カウンターの奥から、あの子が顔を出す。キュア。
明るくて、礼儀正しくて、どこか子どもっぽい。けれど、ときどき妙に大人びて見える。
「今日も紫煙のポーションですね?」
「分かってるな、嬢ちゃん」
「だって、毎回同じですもん。……でも、ほんとに身体、大丈夫ですか?」
少しだけ心配そうにのぞきこまれて、思わず目をそらす。
この子の目は、まっすぐで、優しくて。
何年も前に忘れたはずの何かを、胸の奥から掘り起こされる気がして、苦しくなる。
キュアは店主に振り返り、「例のやつ、ありますか?」と尋ねる。
店主はうねるような動きで、奥の棚から一本の瓶を取り出した。
淡い紫色の液体が、瓶の中でゆっくりと揺れる。
煙のように形を変えながら、けれど一滴も零れない。
「……これは……こころ、を、やわらげる……でも、のめば……にげるだけ……わかって、のむ、こと……」
「分かってるさ」
俺は笑って受け取る。瓶の蓋を開け、ゆっくりと口に含む。
紫煙のポーションは、吸い込むだけで肺が軽くなる。
タバコのようでいて、タバコではない。香りは甘く、後味にほんのりと苦い薬草の渋みが残る。
この味に、ずっと慰められてきた。
「……なあ、嬢ちゃん」
「ん?」
「お前、ほんとは、いくつなんだ?」
「え? なんでいきなり?」
「いや……学校とか、行ってないんだろ。親はどうしてる?」
彼女はちょっとだけ困ったように笑って、それから目を細めた。
「ここが、わたしの家なんです。親とかは……もう、よくわかんないや。でもね、店主様といると安心するし、毎日楽しいから。だから、わたし、ここにいるの」
「……そうか」
俺はそれ以上、何も言えなかった。
この店の空気は、優しい。けれど、どこか閉じられている。
キュアの笑顔もそうだ。明るくて、柔らかくて、それでいて、どこか届かない。
まるで、いつか消えてしまう光のように、儚くて。
俺がこの店に通っている理由なんて、本当はとっくに分かっていた。
ポーションがどうこうじゃない。
ただ、ここに来れば、誰かが笑って迎えてくれるから。
名前も聞かれず、過去も詮索されず、ただ「今の自分」でいられる場所だから。
世間からは少し外れてしまった俺にとって、それが何よりありがたかった。
——でも、もしも。
この場所から、あの子の姿が消えたら。
果たして俺は、また来るだろうか。
窓の外には、夕暮れが滲んでいた。
ガラスの瓶に射す橙色の光が、まるで煙のように揺れている。
ふと、キュアがぽつりと言った。
「ねえ……ずっと昔、空を飛ぶ夢を見たんです」
「空?」
「はい。すごく高いところ。全部が白くて、光ってて。風が冷たくて……でも、とっても気持ちよくて。なんでそんな夢を見たのか、全然思い出せないけど」
「……それ、昔の記憶じゃないのか?」
彼女はしばらく黙って、それから、そっと笑った。
「……だったら、いいな」
その声が、いつもの彼女よりも少しだけ震えて聞こえた。
俺は言葉に詰まって、紫煙の瓶を握りしめたまま、何も言えなかった。
ポーションは、残り半分。
まだ温もりが手の中に残っている。
けれど、それが消えてしまったとき、俺の中に何が残るのか。
それは、まだ分からなかった。