第二話:願いのポーションと壊れたオルゴール
「願いが、叶うポーションがあるって……本当ですか?」
そう尋ねた私に、受付にいた異形の店主は、ぬるりと揺れる影のような身体でこちらを向いた。
「本当、だ。……だが、それは“たった一度きり”の、奇跡。戻すことも、やり直すことも……できない」
その声は人のそれとは少し違っていて、どこか金属のような響きと、異様に伸びる語尾が混じっていた。だけど、不思議と心に刺さらない。怖いとも思わなかった。ただ、重たい響きだった。
「それでも、飲む?」
横から顔を出したのは、売り子の少女だった。あどけない笑顔を浮かべているけれど、どこか寂しげな目をしていた。けれど声は明るくて、少し安心する。
「ねえ、あなたの願いが叶っても、その先に進めなくなった人を、私は見たことがあります。だけど……願いが叶ったからこそ、一歩踏み出せた人も、いたんです」
その言葉に、私は黙って頷いた。
私の願いは、たった一つ。
――もう一度だけ、弟と話したい。
*
半年前、弟は事故で亡くなった。ほんの些細なことがきっかけだった。私が勉強を終えて夜遅くに帰ってくると、彼の部屋のオルゴールが鳴り響いていた。
あの曲が大嫌いだった。母が遺してくれた曲。家族みんなで聴いていた曲。
でも、母が亡くなったあの日から、私はあの音を拒絶するようになっていた。
「うるさいって言ってるでしょ!」
私は叫んで、オルゴールを弟の手からひったくり、床に叩きつけた。中のゼンマイが弾けて、二度と音を鳴らさなくなった。弟はそれを拾い上げて、黙って出て行った。
――そのまま、帰ってこなかった。
それが、私たちの最後の会話だった。
*
少女が奥の棚から取り出した小瓶は、透き通るような水色をしていた。瓶の口に小さな銀色の鈴がついていて、動かすたびにオルゴールのような音が、かすかに鳴る。
「これは“願いのポーション”です。飲んだ人の心にある、最も強い“ひとつの願い”を、叶えてくれます」
「代償は?」
「叶ったあとに、あなたが知ることになります。でも……きっと、あなたなら、大丈夫」
私は少しだけ笑って、小瓶を手に取った。
店内に漂う甘い香りと、ほんの少しだけ焦げたような匂い。それがなぜか、懐かしかった。母の焼いた和菓子の匂いを思い出した。
一息に、飲み干した。
*
目を開けると、私は白い草原に立っていた。春の匂いがする。遠くで風に揺れる桜の花びらのようなものが舞っていて、現実とは思えないほど静かだった。
「……姉ちゃん?」
振り返ると、そこに弟がいた。
あの時と同じ、くしゃっとした寝ぐせのついた髪。少し背が伸びたような気がしたけど、目の奥にある不安げな光は、あの頃のままだった。
「ごめん。あのとき、ちゃんと謝れなかった」
「私こそ……ごめん。私があんな言い方しなきゃ、あんなことには……」
互いの言葉が重なって、私は気づいたら泣いていた。声も出せないほど涙が溢れて、弟の肩に顔をうずめていた。
伝えたいことは、たくさんあった。言えなかった言葉も、聞きたかった言葉も、すべて、伝わっていた気がした。
やがて弟は笑って、「また、どこかで」と言い、風に溶けるように消えていった。
*
気づくと、百彩堂の店内に戻っていた。
手元には、壊れたはずのオルゴールがあった。蓋を開けても音は鳴らない。だけど、確かにあの場所で――私は、弟と話したのだ。
「これは、ありがとうの気持ちです」
少女が差し出したのは、桜の形をした小さな練り切りだった。見た目も香りも、母のつくってくれた和菓子にそっくりだった。
「……あなた、」
私は思わず言いかけたが、少女は微笑んだまま首を横に振った。
「大丈夫。お名前は、聞きませんから。私も、今の名前しか覚えてませんし」
どこか寂しげに笑う少女の後ろで、店主がうねる影のように身体を揺らしながら、受付の帳簿に何かを書いていた。
私は店を出る前に、もう一度だけ振り返った。
その時、店主が少女の髪にそっと触れ、指の先で撫でていたのが見えた。
化け物のような姿なのに、その仕草はとても静かで、優しかった。
あれは――親が子に触れるときの、あの優しさだった。
*
帰り道、私はオルゴールの蓋を開いた。音は鳴らなかった。だけど、風の音に紛れて、どこかで微かに、あのメロディが聴こえた気がした。
きっとこれは、幻だ。ポーションの後遺症かもしれない。
でも、私は前を向けた。もう、弟を憎んでいない。あの最期の言葉を、ちゃんと聞けたから。
それで、よかった。
そう、思えるようになったから。
*
この店には、秘密がある。ポーションの力だけじゃない。
きっと、もっと深くて、大きな――悲しみと、優しさの秘密が。
それがいつか明かされたとき、この場所にも終わりが来るのだろう。
でも私は、きっと忘れない。
あの草原と、彼の笑顔と、オルゴールの音色を。