059●第八章⑧崩れゆく国、力による現状変更、そして“見知らぬ人への八分の一の愛”、鬼破番《ヘルウィッチ》の涙 。
059●第八章⑧崩れゆく国、力による現状変更、そして“見知らぬ人への八分の一の愛”、鬼破番の涙 。
「そうですな、小生もまた、シェイラ様は“国崩し”をなさるおつもりかと考えた時期がございます。しかし実情はもう少し複雑なようです」サクマ博士は首を上下に何度も振って、神妙に語り始めた。「シェイラ様がこのエリシウム公国の“世直し”をなさりたいのは確かでしょう。小生のような浮世離れした妄想家でも、この国の貧富の格差があまりにもいびつな形に悪化しつつあることは実感できます」
「それは同感です。首都エリスの裏町を馬車で数分通っただけでわかりました。底辺の庶民は明らかに、飢えに瀕しています。餓死者も少なからず出ている」
「そうですか、ご覧になられましたか。シェイラ様は各地のエリシン教会で“慈善食堂”を開催し、同時に、まだ生活にゆとりのある人々から寄付を募って食料の施しなどをなさっていますが、しょせん焼け石に水、事態を好転する効果はないとおっしゃっていました」
「政府はどうしているのですか。極貧の生活に転落してしまった人たちを救うために、生活費を補助する“生活扶助”の制度とか、緊急の場合に無料のベッドと病気の薬などを給付する“救貧院”があるはずですが」
サクマ博士は悲しそうに首を振る。
「猊下、“生活扶助”の制度は形骸化しております。かくいう小生も難民としてこの国に上陸したときに幾度となく申請しましたが、すべて窓口で門前払いでした。その窓口では、小生のような国外難民どころか、明らかにエリシウム公国の国民である人々もことごとく追い払われておりましたな。お役所は“生活扶助”の給付対象を少なく抑えることで、この国の貧困の惨状を小さく見せています。でもなぜか、反社会的ギャング団の一味は、その反社会的身分を証明すれば給付申請が通ります、ま、理由はわかりませんが」
「それでは“救貧院”は?」
「そちらは民間の篤志家による寄付で成り立っています。エリシン協会も寄付を行っていますな。つまり、そういうことで……」
「ウーゾ政権は何もしていない」
「そう言わざるを得ません。政府は国家予算の支出の三分の一は社会保障に充てていると言いますが、問題はその“使い方”です。例えば医療保険について言えば、そもそも下民の貧困層は月々の保険金が支払えないので給付ゼロです、最初から医者にかかれません。苦労して保険料を支払っても、医療費の自己負担は五割なので、それが払えないので医者にかかれません。しかし上民は医療費の自己負担が事実上ゼロになります。自己負担の五割を支払わずに、表向きは払ったことにして医者が領収書を発行するのです。医者は年末の納税調整でその領収書のコピーを添付して徴税局に申告します。すると同額の税金が免除されるという段取りです。つまり国家予算の医療費は、下民にはほとんど使われず、もっぱら上民の医療費を賄うために使われているわけです」
「下民と上民でそれだけの待遇差があるのは、明らかな身分差別ではないですか」
「税と社会保障の仕組みをことさらに複雑化して、上民の優遇を見えにくくすることで、差別ではないように見せるのが、為政者の腕の見せ所、なのでしような」サクマは諧謔たっぷりに肩をすくめると、「代表的な例は“取引税”です。“いかなる商取引でも、購入に際して10%の税を収める”というものですな。これは“一取引一納税”方式で、何かを買うたびに代金の10%を納税します。たとえば100ネイの物を買ったら、購入者が取引税10ネイを上載せして代金を支払い、その10ネイは売った者が政府に納税する。買った人物が儲けを90ネイ載せて200ネイで転売すれば、次の購入者から20ネイを上乗せして支払ってもらい、売った者がその20ネイを政府に納税するというものです。……当然、この手の税制度は物価をいたずらに押し上げます。しかも一取引で10%と定率なので、物価が上がれば上がるほど政府の税収は増大します。となると政府は“物価を上げろ”と経済界をあおります。“物価を上げれば企業の利益は上がり、企業従業員の賃金は上がり、景気はもっと良くなる”という論法ですが、“物価の上昇に賃金の上昇がたぶん絶対に追いつかない”ことには触れないわけでしてな。もっと困ったことに、“取引税”はその制度自体が儲かるビジネスになるのです」
「税金で儲ける?」
「はい、“取引税”を納税しなくてはならないのは国内取引のみで、輸出した場合、その仕入れにかかった取引税10%は免除されるのです」
「ああ、どこかの週刊誌で読みましたよ。だからここ数年、エリシウム公国からサヴァカン帝国への輸出が爆上がりに伸びていると。それも、貿易業者に“取引税”が戻ってくるからですね」
「輸出促進策としては有効ですし、政府も国全体の貿易収支が黒字化するので、ウィンウィンだと喧伝していますが、ここに良からぬカラクリがあります。かりにあるブツを100ネイで仕入れたとしたら、そのとき10ネイの取引税を上乗せして支払っています。これを輸出したとしましょう。そうすれば“仕入れた時の取引税は免除される”ので、支払った10ネイが還付される、つまり手元に戻ってくるのですな。すると誰だって考えます……」
「仕入れた物品を輸出した書類さえ整えれば、それだけで税金が戻ってくる、というか、騙し取れる」
「仰せの通りです。架空取引で輸出を装えば、理論上いくらでもジャブジャブと取引税の還付を受けられます。もちろん違法行為ですから、バレれば摘発されますが」
「首都徴税局のサルマとフェンステルがすっ飛んで来るということですね、手錠を持って」
「左様です」とサクマはシェイラの“天敵”を思い出して苦笑いすると、「まあしかし、捕まらなければいくらでも儲けられる、税制錬金術の典型ですな。で、なぜかウーゾ一族とその取り巻き連中は捕まりません」
「仲良しの察警庁長官、ベジャール氏が宜しく取り計らうから」
「そうです。ブツを全く動かさず、書類をデッチ上げるだけで税金からガッポリ懐に入ってくるという美味しさは、一度味わうとやめられません。で、ウーゾ一族は巨万の還付金を、自分たちの政治団体に献金します。政治献金は無税ですので、そのまま政治団体の金庫に現金が収まります。そこからウーゾたちは札束をつかみ出して“政治活動”とやらに使います。政治活動なら領収書不要で納税義務もありません。これすなわち世間に所謂“裏金”ですな」
「そうやって毎年、莫大な税金が、滝つぼに落ちる激流のように、どこかへ消えていくわけか……その一方、同じ首都エリスの裏町では餓死者が続出している、いやだね」僕も俺も我輩も、何とも気持ちの悪い、うんざりした気分になった。その原因は、これだ。「どんなに貧しい人も、食べ物を買い、衣服を買い、最低の調理道具や炊飯や掃除や洗濯の家電品を買うことになるし、電気の魔法石、火の魔法石、水の魔法石は必需品だ。それらを買うたびに取引税を支払っている。みんな納税しているというのに。たとえ収入ゼロで所得税がゼロになっても、取引税だけは支払い続ける、そうしないと生きていけない」
「死んでも葬式代で取引税を取られますよ。棺桶ひとつとってもね」とサクマは悲しく笑うと、「払っても払っても物価が上がるだけで生活は苦しくなるばかりですな。一方でその税制を利用して濡れ手に粟で違法に大儲けする輩がいる。そういうことで取引税はすこぶる評判が悪く、庶民からは“悪魔税”と呼ばれています」
「それなら一度、やめればいいんだ。たしか昔は取引税そのものが無くて、物品ごとに物品税をかけていたという記録を読んだ。低額の衣食住には無税で、贅沢な高級品や宝飾品や豪邸に高額の物品税をかけていたと」
「わずか30年ほど前のことですよ。そのころまでこの国は、取引税ゼロで経済を回していたのですな。しかも今よりもずっと好景気で」
「ということは、シェイラは取引税を廃止して、この国の統治体制を30年前よりも昔に戻したいと思っている?」
「御意」とサクマはうなずく、「エリシン教の根本教義に、“見知らぬ人への八分の一”という概念がありますな」
それは、エリシン教の基本教書である『方舟の導』の冒頭近くに記されている。
「ああ、知っています。“あなたの人生の価値の半分はあなた自身のために、そして残り半分をあなたが愛する人のために。でも、できうれば、愛する人に捧げるうち四分の一を、不幸に苦しむ見知らぬ人々を救うための愛として、役立てられんことを”……と」
「すなわち“人生の八分の一を、見知らぬひとを救うために捧げよう”ということですな。シェイラ様はその教義を実践するために、こんにちまで準備を進めてこられたと考えております。ただし、その手段は限られます。過去三十年余り、ウーゾたちの一族が天文学的な額の税金で私腹を肥やしてきた結果、この国の経済は破綻寸前の綱渡りに陥っています。野党が頑張れば政権交代が可能かもしれませんが、どの党もウーゾのヨミン党に取って代わろうとはしません。理由は単純です」
「そっか……ブービートラップだ、あるいは焦土戦術、あとは野となれ山となれ……か」
「図星でございます。政権が崩れたとたん、この国の経済が壊滅的に破綻し、通貨をゴミ同然に変える過酷なハイパーインフレが惹起され、なにもかも滅茶苦茶になるように、ウーゾたちは仕組んでいると思われます。その日が来る直前に、彼ら一族は金塊を携えて海外に高跳びするでしょう。その前にあらゆる手段で政敵を捕らえ、処刑しまくってからですよ。後顧の憂いを残さぬように、のちに追いかけて復讐してくるような不満分子は徹底的に始末するはずです。首都エリスは死体置場になってしまう。そんな状況で政権を取っても、燃え盛る火事の鎮火と後始末を押しつけられるようなものですから、野党はすでに腰が引けています、だから、何もできません。政権交代は夢のまた夢です」
「とすると、政治的な解決は不可能……」
「それが、シェイラ様の判断です、おそらくは」
「平和的な解決手段は無いということか」
「わかりません。もしもあれば、それを優先すべきでしょうが」
「うーん……」シェイラの思いを推し量りながら、僕は苦し紛れに問いただした。
「“力による現状変更”は正しくないと考える人も多いけど……」
サクマは右眼を輝かせ、こちらをじっと見つめて問い返した。
「“力によらない現状変更”というものは、この世にあるのでしょうか?」
僕は、俺は、我輩はしばらく黙った。サクマ博士は、自分の人生の暗く長く苦しい体験から、この疑問をほとばしらせている。
そう、強大な権力者ほど“力による平和”を高らかに謳い上げる、ただしその人物の演台は、無数の髑髏を積み上げて造られるのだが……
しかし、そうではない方法はあるのだろうか?
違う手段で成功した例は、世界史のどこかにあるのだろうか?
惨事は避けたい、それに臆病な話だが、そんな事件に首を突っ込んで死にたくはない。他人の死を見るのも、正直、いやだ。
そう思ったとたん、何とも言えない虚しさが押し寄せてきた。
俺は無力だ。
愚痴るように、つぶやく。
「組織が大事を為すための要素は“人・物・金”と言うけれど、エリシン教団は自力で食糧を海外から輸入し、武器の独自生産も可能になっているように、物は調達できる。捕鯨業から各種物販まで、合法非合法を問わず覆面会社で資金を蓄積している。人の面では、近衛隊に加えて魔法を使える戦闘員も訓練している。もう、ひと勝負できる材料は揃っているんじゃないか? 俺一人がじたばたしようが逃げ出そうが、起こるべきことは起こってしまう段階に来ているのでは……」
「いいえ猊下」サクマはきっぱりと首を振って断言した。
「猊下お一人が、いまや教団の最終決定権を握っておられるのです。教団が動くも動かぬも、猊下のご意志ひとつです。今すぐにでも猊下が腕を前に差し伸べてただ一言、“征け!”と号令なされば、エリシン教団は武器を取って進み始めます!」
「そ、そんな……」
突然にそんな恐ろしいことを請け合われても、とりあえず、びっくりするしかない。
「で、でもね、サクマ博士、僕はただの臆病な転生者の一人ですよ。そりゃまあ、たまたま枢鬼卿という役職にはありますが、個人商店の旦那をシャチョーって呼ぶようなもので、まさに役不足……あ違った、力不足と申すようなものでして」
「ハッハッハ!」とサクマ博士は呵々大笑して、「そんな猊下だから、皆に好かれるのです。これだけ威張らずに目下の者を馬鹿にしない枢鬼卿猊下は何百年ぶりかもしれませんな。いやもう確かに、猊下は教団の全員からこよなく好かれているのですよ。それだけは信じて下され」
「いや、でも、どうしてですか、僕にはわかりません。免罪符にサインするくらいしか能の無い無芸大食の凡々人でして」
「何をおっしゃいます。教団の全員が存じておりますよ。ある晴れた日、名もない毒見冥奴の墓に、猊下が熱い涙を手向けられたことを。あのとき木陰に隠れていた鬼破番が何人もそのご様子を見て、もらい泣きしたのです」
走馬灯のように脳裏によみがえった。
あの刹那、涙あふれるニヤンの目、僕の代わりに毒をあおった少女の悲痛すぎる覚悟、そしてあのうららかな昼の、寂しい土饅頭の、切ないばかりのあたたかみ。
あのとき、葉擦れの音がすすり泣きに聞こえた気がしたけれど、それは葉擦れの音ではなかったのだ……
「そのことは、その日のうちに、教団の皆が知ることになったと聞いております。……古き神話の御代、我らの祖先の方舟が天のご加護のもと、ムー・スルバの大地に舷を接するその時、スライムーンの神が諭された我らの教義を、猊下は善なる心を込めて、そのとき示されました」
サクマは一歩引いて、恭しく僕に一礼して告げた。
「猊下は、“見知らぬ人への八分の一の愛”を知っておられるのだと」




