050●第七章⑦ワカミヤ丸、最大の秘密。そしてサクマ・ホランド博士。【20250207一部修正】
050●第七章⑦ワカミヤ丸、最大の秘密。そしてサクマ・ホランド博士。
「そろそろ人込みから離脱するのはいかがでしょう」と、背後の馭者席から、周囲の雰囲気に危険を感じた鬼破番が具申した。
「よろしく頼む、カオリン」とシェイラ。
「かしこまりました……ハイッ!」
カオリンという名の鬼破番は、釣り竿並みに長い鞭をひゅっと振り、僕たちの前方に楕円形の風圧を生み出した。
「うえっ?」
思わず声を上げたのは、ぶん、と耳が鳴ったとたんに、辻馬車の天蓋がぐるぐると回りはじめたからだ。
突然の眩暈。身体がふらっと傾いて、隣のシェイラに寄りかかってしまう。
て、低血糖? ……と自己診断してしまったのは、前世記憶で糖尿病を患ったことがあるからだろう。幸いにして今回は、そうではなかったが。
眼前の光景が斜めに見える。と、眩暈を起こして世界が斜行しているのは僕だけではないことが分かった。
バカサンバを歌い踊る前方の集団、数十人が波打つようにぐらりと左右方向に身体を傾けて、ふらーっと倒れかかるように、空間を開けたのだ。
走行中の乗合バスが不意にカーブを切ったときに、吊革につかまっていた乗客が一斉に同じ方向へ傾く様子に似ていた。
魔法だ。
そう直感したときには、馬車は群衆が自ら開いてくれた道を駆け抜けて、人のいない横丁へ脱出していた。鬼破番の護衛を乗せた二台の辻馬車も、すぐさま追いついて前後に並ぶ。
「ふう……」僕は額に拳を当てて、ぶるっと首を振った。眩暈は緩やかに消えていく。「変な気分だよ、どんな魔法をかけたの?」
「カオリン!」とシェイラは叱った。「魔法が効きすぎです。猊下まで、かかっておしまいになりましたよ」
「あ、ああっ! 申し訳ございません枢鬼卿猊下! 私の粗相でございます」
「いやいや大丈夫、気にしない気にしない」と、僕はうろたえるカオリンをねぎらった。「今の魔法、感心したよ。ぎっしりと詰まっていた人が、あっさりと道を譲ってくれた」
「低周波振動で前方の人々の三半規管をくすぐりまして、身体の平衡感覚をスライドさせ、ごく短時間ですが、人工的な千鳥足で左右に分かれさせたのです」とシェイラ。「魔法といっても、すべて物理力の行使です。これを魔法学校の未熟な優等生がやりますと、自らの魔法物理力に自信がありすぎて、力ずくで無理矢理に人波を押し広げてしまいます。馬車は人込みを出られても、結果、群衆の将棋倒しを引き起こして惨事を招きかねません。その点、カオリンの魔法術式の選択は適切でした。不断の訓練の賜物です」
「恐縮です、シェイラ様」と、カオリンが恐る恐る畏まる声が返ってきた。
そうか、魔法は物理力の行使。だからこそ、その使い方には、デリケートなテクニックが求められるわけだ。
自分の都合だけでなく、周囲で魔法の影響を受ける人々のことを配慮しなくてはいけないことを、シェイラは日頃から説いているのだ。
「ね、カオリン、次回から、魔法物理力の散布界にご注意なさい。猊下は魔法使いでなく普通人ですから、パーソナルな防護結界をお持ちでないことを忘れないように」
「はい! 必ず心得ます!」
「そうだ、カオリンくん」僕は一言添えた。少し感激したのだ。「きみ、踊っている人たちが怪我をしないように気遣ってくれたんだね。よかった、いい魔法だったよ」
「あ、ありがとうございます猊下!」そして彼女はうっかり、喜びのあまり最上級の上司に馴れ馴れしい返事をしたかと反省して言い直した。「きょ、恐悦至極にござりまする」
シェイラはくすっと笑った。
*
三台の辻馬車がバシケタ埠頭に着くと、僕とシェイラ、そして護衛の鬼破番七名の一行を、目立たない一艘の汽艇が待っていた。
サンタ風の変装髭は外し、黒のスーツにシルクハット姿で乗り込む。シェイラたちは喪服のままだ。
ワカミヤ丸はエリス湾の中央付近のブイに係留され、“沖掛り”で停泊している。明け方には遠洋航海に出るとのことで、食糧や真水などの補給品、燃料となる赤色魔法石を積んだはしけが船腹に取りついて、積み込みを急いでいる。
一個の赤色魔法石を燃焼シリンダーの頭部に収めた“赤玉エンジン”でポンポンと牧歌的な響きを奏でながら、僕たちの汽艇はワカミヤ丸に到着した。船尾のスロープは閉じていたので、そそり立つ巨船の左側面、海面に近い乗客用ハッチからラダーが降ろされ、船内に上がる。
いくつかの水密扉を抜けて、シェイラが最初に案内してくれたのは、船底の機関室のすぐ上にあたる下部船倉だった。
一昨日に徴税吏のサルマとフェンステルに調査されたときは、メコ米、もしくは粒状氷砂糖の麻袋を大量に積み上げてあったはずの船倉は、なぜか、まったく異なる施設に変貌していた。
工場だ。
奇妙だが、そう表現するしかない。
分厚い防火扉の向こうを小さな耐熱ガラスの窓から覗くと、数基の縦型溶銑炉が高熱を発していて、炉から流れ出る溶融金属を鋳型に流し込む作業を、防熱服の工員たちが制御している。全員が無免許ながら錬金術系の魔法使いであり、危険な作業を魔法力で安全にサポートしている様子を見学できた。
そして手前の広いスペースには、旋盤、穴あけ盤、中ぐり盤、切削盤、歯車などの歯切り盤、機械研削盤といった工作機械が整然と配置され、鋳型から取り出された部品のはみ出しを取り、穿孔し、溝を穿ち、形状を整え、磨き上げるといった加工が加えられている。
また、すでに出来上がった状態で購入したとみられる既成部品を点検し、不良品があれば修正するといった作業も行われている。
こちらで働く数十人の工員も、男女を問わずほぼ全員が無免許の魔法使いだという。工員としての経験年数は少ないが、普通人の熟練工に指導されて、魔法力で身体動作の俊敏さや、指先の感触や器用さ、視力や聴力などを補っているわけだ。そうすることで……
「一人一人の魔法能力は高くありませんが、熟練した普通人の監督者が部員の能力を見抜き、適材適所に徹することで、誰もが短期間で熟練者に近づけるように努めております」と、赤黒く焼けた顔の現場責任者が説明する。
現場には機械類の振動や騒音がつきものだが、機械の設置台に独自の緩衝装置が組み込んであり、これも魔法力を添えることで静粛化を図っている。
「つまりここは部品加工のフロアってことか、驚いたよ、一昨日と同じ船とは思えないね、ワカミヤ丸の実態は、海に浮かぶ町工場ってことか」
「まさにそうなのです猊下」と現場責任者は鼻高々だ。「これが、おそらくワカミヤ丸最大の秘密といえるでしょう。じつは偽装工作もバッチリでして、十秒もあれば機関室の一部に見せかけるカラクリ装備も充実万端なのであります」と、指さす天井を見上げると……
重たい部品類や資材のコンテナを運搬するホイストクレーンが走るその上に、大小さまざまな軽金属のカバーが吊り下げられている。プラスチックでできた子供の玩具の“皮”のようにも見える。
「あれらが、“偽装用マシンコロモ”でして、いざとなれば甲板の機械類の上に降ろして被せると、見た目だけは機関室のピストンシリンダー設備の上半部に大化けするという具合です」
彼の自慢顔につられて笑ってしまった。まるで演劇の舞台の早変わりだ。
「しかし」と気になったことを質問してみた。「とはいっても、この船を調査するお役人とかが、この床下の機関室を検分して、そこに同じピストンシリンダーの上半分を見つけたら、一発で偽装がばれてしまうでしょう? となると、機関室の内部には、“ピストンシリンダーの下半分に見せかけた、本物の機関”が設置されてることになりますね。しかし、公王府図書館で同じ型の捕鯨船の設計図を参照してきたのですが、この船の質量に見合った規模のレシプロエンジンのピストンシリンダーを収めるには、どう見てもワカミヤ丸の機関室では天井高が足りないんですよ。とすると、ひょっとしてワカミヤ丸は、より小さくて高出力の新型エンジンを極秘で搭載されているのではないか、と思うのですが?」
現場責任者の彼は、ふと黙って困った顔をした。そこに……
「ご明察です。よくお気づきになられましたな、猊下」
しわがれた声に振り向くと、そこには腰を曲げて背が低く見える老人が、黒いフロックコートの正装で佇んでいた。左腕は松葉づえを保持している。
コツコツと歩む動作と身体のひねり具合が物語っていた。左足は義足、左腕も義手なのだ。
そして左目には眼帯。ただし白髪の隙間に光る右眼は爛爛と輝き、闘志と好奇心、そして執念に燃えている。
「この船で科学主任を努めております、サクマ・ホランドと申します」
隻眼の老科学者は深々と一礼した。
「シェイラ補佐官からお聞きしていました、初めまして、博士」
僕は右手を差し出した、握手を返すサクマ翁の手は小さく冷たく骨ばっていた。




