002●一人称のプロローグ:“我輩”と“俺”と“僕”
002●一人称のプロローグ:“我輩”と“俺”と“僕”
これから死んで転生するつもりの皆様に、一言。
転生も幾度となく繰り返して年季が入ってくると、新鮮味がなくなるものだ。
人は死んだら、その魂は“煉獄”のどこかにある待合空間で転生の順番待ちをする。どんな空間かというと、細かくは覚えていないが、空港の乗り継ぎで時間待ちや宿泊に利用するトランジット・ホテルみたいな感じだ。
無数の魂がそこで、たいていがぼんやりと日々を過ごす。
そのうち、上級天使が現れてお導きをなさり、退屈しきった魂たちは現世の垢を落としてスッキリ気分で天国へ昇天する。
それとも現世の怨恨から解脱できぬまま現世へ逆戻りする、いわゆる“出戻り幽霊”となって化けて出るか、あるいは、再び現世のいずこかへ生まれ変わって“転生”するか、そういったコースに諸々《もろもろ》分かれていくことになる。あ、“地獄落ち一方通行”という悲惨な道もあるけどね。
我輩の体験からすると、多くの魂がそれなりに現世に未練があって、どこかの世界に生まれ変わる“転生”を選ぶケースが最も多いようだ。
そんな転生コースも経験が浅いうちは魂がドキドキして、今度はどんな異世界だろう? と、期待に胸膨らむ。転生初心者のころは未知への不安も相まってハラハラ感を愉しんだものだ。
転生とは、スリリングでエキサイティングなアトラクションなのだよ。
ただし、最初のうちは。
例えれば、入社試験に臨むフレッシュなルーキーの心境だ。
試験に受かってめでたく採用され、赴任先の新たなる異性との出会いをムフフと想像して、お馬鹿で幸せな夢を見る……なんてことも、今は昔の前前前……前世あたりで、あったかもしれない。
しかし何事も、回数を重ねるとマンネリが進む。そのあたり、一つの職場に落ちつけず、フラフラと転職を繰り返す人生に似てもいる。
やることがいちいち形式化してくるのだ。
そう、我輩はいつの間にか回数を重ねた、ベテラン転生者なのだ。
転生も何十回目か、ひょっとすると三桁か……となると、慣れたもの。
死んで現世をおさらばするたび、煉獄の受付で天使から渡される白紙の履歴書にお定まりの自己スペックを薄墨の筆ペンでサラサラと記入し、上級神様との最終面接では元気よく明るくはきはきと、前向きな自分を売り込むとともに、転生希望先をそれとなくアピールして、出来る限り自分に有利な異世界に、チート力を携えて“当確”できるよう誠心誠意努力するのだ。
そりゃあそうだろう。
転生は、基本、ガチャなのである。
より正確には、神聖なるアミダクジなのだ。
吉か凶か、ホワイト職場かブラック職場なのか、逝って生まれてみないとわからない。それが輪廻の大原則だ。
そして、いったん転生先が決定してしまったら、もう後戻りはできない、覆水盆に返らず、取り消しや待ったは効かないのだ。これ、天使たちによると“エントロピー不可逆の原則”と言うらしい。
運よく王侯貴族や大金持ちの御曹司かご令嬢に生まれて、一生、左ウチワで贅沢三昧できるか。
あるいは貧民や奴隷に生まれて、死ぬまで腹ペコで物乞いするか、鎖につながれてコキ使われるのか。
天国と地獄の差ほどに、当たりハズレがあるものだ。
そこンところ、何回かハズレを引くと、さすがに懲りて、体験的に悪知恵がつく。
やはり、“煉獄ホテル”で順番待ちをする間に何度か遭遇する神様面接、これが肝心なのである。
神様に平身低頭ゴマスリして、褒めておだてて御機嫌をとり、調子よく打ち解けていただいて、こちらの偏差値を上げ、個性に魅力を感じていただき、前世の実績点数よりもAO評価を重視して、ニコニコ顔でめでたく下界へ降臨させていただくに越したことはない。
しかしまあ、度重なる転生には、悩ましい面もある。
前世の記憶が残るかどうか、だ。
これもガチャのうちであり、自分で選ぶことはできない。
すべて神様の気分次第で、まず九割九分の魂には記憶が残らないという。
そりゃそうだろう。前世の怨嗟怨念をしっかり覚えたまま転生先で生まれ育つのは、生まれたときからトラウマを背負っているようなもので、たいてい不幸な結果となる。
逆に前世の記憶が幸せいっぱいなまま、転生先でハズレを引いてアンハッピーな人生を送るはめになったら、その落ち込みの不幸度は大きく、それならさっさと自殺して再度転生し直そうという結果になりかねない。
だからまあ、なにもかも忘れてまっさらな心のまま生まれ変わるのが、万人にフェアであるということだろう。
しかし我輩は数少ない例外のようだ。
前世どころか前前前……前世の記憶も残っているようなのだ。
どうしてかわからない。転生はすべからくガチャなので、自分の意志では決められない。
ということは、神様のご意志とやらで、幸か不幸か、“前世記憶未消去”を引き当て続けているようだ、としか言いようがない。
しかしながら、我輩の頭脳のスペックは“並み”レベルらしく、過去何十回だか繰り返した人生の体験データを細大漏らさず正確に記憶しておくには、脳ミソの記憶容量がオーバーフローしているらしく、不可能なのだ。
ということで、前世以前の記憶は、すこぶる滅茶苦茶で支離滅裂なゴチャゴチャ情報となる。
体験したことの要点しか思い出せず、それすら夢か幻のような曖昧さ。
それゆえに、前世以前のあンときの自分やこンときの自分がごっちゃになってしまい、自分が何者なのか、至極いい加減になってしまうのだ。
人格の混濁……とでも言えばいいのか。
だから、一人称で自分を指すときに、概ねこの三種類の呼称がチャンポンになってしまう。
人生経験の豊富さを鼻にかける、傲慢な“我輩”。
ずけずけと強気で攻める、ナマイキで積極的な“俺”。
おとなしく純心で、お花畑な夢想家の“僕”。
なにしろ、まんまと長生きして天寿を全うする人生があれば、一方で、出世半ばにして事故死や戦死、奴隷のまま殺されたり、親の虐待を受けて幼児のうちに野垂れ死にさせられることもあるのだ。人生、まことに理不尽である。
それら前世以前の体験を踏まえて現在の自分があるので、その場その場で、“我輩”と“俺”と“僕”が、明確な基準なく、適当に口から飛び出してしまうことになるわけだ。
その点、読者の皆様には、事前にご了承願いたい。
ということで、物語ることにしよう。
ある転生先の国家を救うため、我輩が懸命なる知恵を絞って大奮闘……
いや、マッスルバキバキの俺が体力と気力を奮って大無双……
いや、純粋な真心で正義を信じる僕が大迷走、じゃなくて……
国民の幸せのため誠心誠意、尽くして捧げて献身したお話だよ。
いや、ホントだって、決して私利私欲の我利我利亡者で無芸大食で酒池肉林の精力絶倫で暴虐無尽したんじゃないんだって……
と言っても、信じてくれないよなァ。
なにしろ、れっきとした一国の独裁者に転生しちゃったもんで。
その冠位、枢鬼卿と称する……