016●第三章②挟拳白歯取《きょうけんしらはどり》と出血肉離《シュチニクリ》。
016●第三章②挟拳白歯取と出血肉離。
いけないところをキックして申し訳ないと思ったが、それはそれとして、刹那、僕は見惚れてしまった。
わが渾身の廻蹴はそやつのスキンスーツを破り、胸を保護していた木製らしきインナーパッドを破壊していたのだ。必然的に露出したのは、戦いの場にあるまじき華麗なる双丘。とある異世界の俗語ではボインなどと称する、たわわなる肉体の魅惑的造形であった。
しかも高反発の弾力感あふれる神々《こうごう》しさ!
はっ、と胸の前で左右の腕をクロスして恥じらう、くノ一嬢。
僕は不覚にもドキンとして超短時間フリーズしてしまった。瞬時にして鼻の下が伸びたのである。
しかしこれが公式戦なら明らかに反則負けとなる、我輩の偶然とはいえ淫らなプレイを、羞恥に燃えたぎる彼女が快く許すはずが無かった。
「いやん!」、それとも「すけべ!」かな?
そんな声が聞こえたような気もする、気がする、というのは、続く刹那で、我輩の伸びた鼻の下は、くノ一嬢が蹴り飛ばした石鹸の直撃を受け、その衝撃で一時的に聴覚が飛んでいたからだ。
双方の格闘で摺り足と踏み足が無数に連続した結果、床に落ちていた泡立ち抜群の超高級石鹸は両者のかかとにつつかれてピンボールの如く右に左にと滑りまくり、最後の瞬間、くノ一嬢の足元の好位置に停止したのだった。
そう、胸の露出で突然に両手を視覚的防御に取られたくノ一嬢は、それを蹴ったのである。
ボゲッ! と、文字通りのペナルティキックを顔面に受けた俺は、「ぶどべ!」などと意味不明の悲鳴を発するや、だらしなく両脚をV字形に開いてひっくり返った。床面はいまや石鹸でつるつるに磨かれていたのだ。
くノ一嬢は麗しい金切声で悲鳴を上げた。つまり不覚にも、あちらも同時に足裏を滑らせ、前のめりにダイブしてしまったのだ。認めたくないが、見えたものが悪かったのであろう。
あくまで自ら望んだのではないが、くノ一嬢が頭から我輩の股間めざして一直線に吶喊する状況を、そのままウェルカムと迎え入れる矜持は、その時の僕にはなかった。
哀しいかな、スッポンポン、だったからである。
放置すれば、彼女の頭突きで、局所が致命的な陥没を被る。
このとき俺の身体は何も考えず、咄嗟に捨て身の防衛武術を繰り出していた。
挟拳白歯取。
敵に肉薄し……といっても、今回は敵の方から足を滑らせて肉薄してくれたのだが、その敵の頭部を左右から同時に、金槌よりもきつく締めた直拳で打撃するというものだ。
といっても、人間の頭蓋骨は存外に丈夫で、そうもやすやすと破砕できるものではない。
狙うのは、こめかみの下、顎の関節である。そこに左右から大槌の如き衝撃を同時に加える。顎は外れ、骨折し、奥歯もことごとく抜けて飛び散る。
称して“挟拳白歯取”。
残酷無情な特攻的反撃手段だが、そうしなければ俺の股間は玉砕、掛け値なしに玉と砕ける運命だったからだ。
背筋のバネで上半身を起こしながら放った俺の両腕は、股間に激突する寸前の、くノ一嬢の頭部を左右から同時挟撃した。
しかし、直拳ではない。
両手に木桶を握ったままで、その底部を内側にして叩いたのだ。まさに一瞬の反射的反撃だったので、桶を手放して拳を握り直す余裕などなかった。
バッコン! と、盛大な鏡開きに似た快音が二重に響くと、桶の底板が弾けて外れ、左右に吹ッ飛んでいった。
それほど強烈な挟撃拳だったが、しょせん木の板、直拳ほどの鋭さを望むことはできない。
しかし、くノ一嬢は跳ね上がった、ギャッとかフギャーッとか叫んだようにも思う。が、次の瞬間、そいつは腰の後ろに装着していた四本のシリンダーを起動して瞬時に細いロープを巻き上げ、シュワッと一陣の湯煙を巻いて空中に浮かぶと、とある異世界で言う、“カンフー映画の見事なワイヤーアクション”さながらに頭上十数メートルの天井に開いた換気口へと姿を消していた。
ついに撃退したか……
全身にドッと脂汗が湧き、過酷な疲労感が回る。
どてっ、と浴場の床にだらしなく大の字で伸びると、俺は安堵した。
湯煙と静寂。
ししししし死ぬところだだだだったぜ……
つぶやくつもりが、ろれつが回らない。顔面は鼻血ぬるぬるで鉄の臭気だ。
「猊下、猊下、どうなさったのです!」
気が付くと、待機していた“お召し替え処”すなわち脱衣所から駆けつけたシェイラに抱き起されていた。
「猊下、お気を確かに! 傷は浅うございます!」
このような場合、傷が深くて致命傷でも、「浅い」と言うものである。妙に深読みして、かえって不安に震える僕に、死ぬほど猛烈な苦痛が襲い掛かった。
「うぎゃっ、うぎゃぎゃぎゃっ!」
「猊下!」
全身を襲うあまりの痛みに、俺はのたうち回る。優しく抱きしめてくれるシェイラに、喉の奥から声を絞り出して伝えた。
「筋肉だ、あちこち肉離れ……」
入浴でふやけた肉体に突然、苛烈な格闘戦を無理強いした結果であった。使っていない筋肉をギタギタに酷使して、筋繊維が断裂しまくっていたのだ。
シェイラは例の印籠を取り出して上部の仕切りをスライドする。キラリと現れた注射針のキャップを取って印籠を握ると、俺の二の腕に突き立てた。
「鎮痛魔法剤です、すぐに効きます、どうぞご安静に」
前世記憶が脳裏をかすめる。いつのことか、マルノンディとかいう岸辺で独逸野郎の軽機関銃を食らったときに衛生兵が一発打ってくれたモヒルネ、あれは天使のおクスリだった。痛みが消えてフワーッと昇天する気分になれる。結局、俺も衛生兵もすぐに死んで転生しちまったが……
あの世へのお迎えに来た天使モヒルネの面影に、シェイラの心配顔が重なる。
「猊下、どうしてこんなことに? お風呂につかりながら、新曲の練習をなさっていると思っておりましたが」
そういうことか、風呂の中からイチョー! とかショーチョー! とかモーチョー! とかいった奇声が連発して床を足踏みする気配がしたので、てっきり、新たなるサンバ歌曲を考案中だと思ったようだ。
気にはなったが、作曲の邪魔をしてはいけないと、浴室に入るのをためらっていたわけだ。
そうか、そんなことなら、俺は格闘技で身を守らなくても、最初から「シェイラ、曲者だ!」と呼べばよかったのだ。なのに、何も考えていなかった、何も考えて……。
その瞬間、いつぞやの前世で格闘技を伝授くださった老師の面影が、俺にかがみ込むシェイラの美貌を押しのけて瞼に浮かんだ。
思い出した。老師はこう述べられたのだ。師、宣はく……
「考えるな、感じよ! しかし何も考えないのは、ただの阿呆じゃ」
ああ、老師ドー・クージン……
俺は心の中で、師の面前にひれ伏して自戒した。
拙者は哀れな阿呆であります。この異世界に求めたのは酒池肉林でしたが、早速得たのは“出血肉離”にございました……
思い切り馬鹿を見た気分で、僕はシェイラに答えた。
「サンバの一人カラオケじゃ、ない……やられた、刺客だ、換気口へ、逃げた……」
印籠の止血消毒薬をハンカチに含ませて鼻血をそっと拭い、俺の身体を優しくさすっていたシェイラは即刻、血相を変えて、浴室の扉へ向けて叫んだ。
「曲者だ、出会え、出会え!」
「あ、いや、出会わなくてもいいから、侵入者を追ってくれ!」
こちとらスッポンポンなのだ。そのことを思い出し、律儀に股間に桶を載せてカバーしていることを手の感触で確かめる。今は浴室に人を集めるよりも、逃亡する刺客を捕えることだ。
「皆の者、来るに及ばぬ! 賊は天井の換気口へ逃げた、逃走路を塞いで捕えよ!」
シェイラはネックレスの透明魔法石を使って、警備の女性たちに命じてくれたようだ。
しばし、銀髪の絶世美女の膝枕に甘えることとする。立つ気力も無かったのだ。シェイラのたおやかな細指になぞられると、ちぎれた筋繊維が元通りにつながって、不自然な捩れがほぐされていくのを感じる。これが治癒魔法だろう。
あとは、濡れた漆黒のワンピースのつややかな生地にはちきれそうな、ツインの妙なるオーバーハングを見上げて愛でるのみ。これが山ならフリークライミングに挑戦したいものだ……
「猊下」
「ん?」
至福の果樹園にてイヴと戯れるアダムの心境を想像する僕に、シェイラは問うた。
「この桶でございますが」
俺の股間に載せた桶を、シェイラはつんつんと叩く。
「ああ、桶がどうした?」
「底が、抜けております」
我輩はまじまじとシェイラを見た。忘れていた。桶の底は、くノ一嬢の頭部を殴ったときに外れて飛び去ってしまったことを。
「見えている?」と確認する。
「はい、丸見えです」とシェイラ。さすが鉄仮面、変な顔一つしない。
額に今度は冷や汗を浮かせて、必死で平静を装う僕。
「……見なかったことに、してくれるかな?」
「うーん」とシェイラは珍しく考え込んだ。そして答えた。「見て見ぬふりは、いささか気が咎めるのでございますが」
見てしまった以上、自分を偽ることは主義に反するということか。
そんなにじっと見るなよ、じっと! と、底の抜けた桶をじとーっと見据えるシェイラに心の中で毒づきながら、俺は提案した。
「見たか? と誰かに聞かれたら、“記憶にございません”と答えてくれないかな」
「猊下の前世記憶には、そんな便利な詭弁があるのですか? 知りませんでした」と本気で驚いたシェイラは涼し気な表情で請け合った。「それならお安い御用です。誰に追及されても、“記憶にございません”でトボケることにいたしましょう」
この女、政治家だなあ……
妙に感心する僕の頭の上で捩り鉢巻きのままだったタオルを、シェイラはまるで悲劇の聖者の茨の冠のように恭しく外してほぐすと、桶を取ってかわりに被せてくれた。とある異世界の聖典に記述された、無花果の葉って、これなんだなと思う。
そこで、シェイラの手に握られたものに注目した。




