015●第三章➀裸拳《らけん》乱舞と巨鳥叫《きょちょうきょう》。
015●第三章➀裸拳乱舞と巨鳥叫
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一時間後……。
我輩は湯船の中で天井を見上げて、まったりと憩っていた。
枢鬼卿の専用浴場である。
さすがに広い。
前世記憶のどこかにあるニッポンとやらの風呂屋と比較するならば、男湯と女湯の間の壁を取り払って、まるまる貸し切りにしたようなものだ。
浴室は直径30メルトほどもある円形で、中央に直径10メルトほどの湯船がある。
まったく、公王府が陣取っている“本丸ビル”というこの建物、恐ろしいほどに広大で、ただっ広い部屋がいくらでも余っているのだろう。
で、つややかな床は大理石、壁面は金ぴか。
ちなみにトイレも同じようなものだ。枢鬼卿専用の厠はさしわたし15メルトほどもあって、その真ん中に腰かけることとなる。内装はやはり金ぴか。ということで落ち着かないことおびただしいが、贅沢を言ってはならない。風呂もトイレも棺桶並みの狭小サイズで、仕切り壁すらない貧民窟の世界に転生した時のことを思えば、今はただ幸せ一杯で神様に感謝するばかりである。
で、誠にいい湯である。
湯船の内側の側面には、こぶし大ほどの青玉魔法石と赤玉魔法石が交互に数十個埋め込まれていて、魔法力で水を満たし、湯を沸かしている。必要に応じてそれぞれの玉に蓋をすることで水量と湯加減を調整するわけだ。
ここは、俺様一人。
というか、例によってマイクロなビキニ姿でふかふかのタオルを捧げ持った湯女冥奴の皆さまがずらりと待機なさっていたのだが、丁重にご辞退申し上げた。バスチェアーに黙って座れば身体の隅々まで泡ブクで包んで、やさしく垢を落とすついでに下半身の妖しい部分ももれなくスッキリさせてくれるというのだが……
いちおう暗殺対象にされているので、何事も用心が先に立つ。
湯女冥奴の誰かが指先ほどの大きさの剃刀でも持ち込んで、俺の首の後ろをスパッとやろうとしたら、もうお陀仏である。
こちとら素ッ裸なんだからさ……。
ということで、無防備な今は、やはり、おひとりさまに限る。
いざとなれば避難できるよう、浴室の正面入口と非常口にチラチラと目をやりながら、前世記憶を参考にしてタオルをひねって鉢巻きにすると、最高級の石鹸で体を磨き、いい香りのする木製の風呂桶をつかんで湯を浴び、湯船にとっぷりと浸かった次第。
しばらく平泳ぎを楽しみ、湯船の縁に肩を預けて、ぼんやりとリラックス。
天国だ、重ね重ね、いい湯だなァ~。
見上げると、頭上高くに人が通れそうなほどの円形の換気窓が開いており、その周りにはステンドグラスの照明がぼんやりと輝いて、漂う湯気に霞んでいる。
そこで、僕は目を見開いた。
じっと注目。
というのは、換気窓から影のような何かがするりと現れて、ステンドグラスの枠にしがみついたからだ。
そいつは濃い茶色の扁平なシルエットで、脚は六本か八本か?
いつぞやの前世記憶で強烈な印象を残しているそれは虫の一種であり、たしかGの頭文字でブリブリとかいう不潔の象徴だったはず。
え? 等身大の巨大Gブリ?
続く一瞬で、そいつは蜘蛛の糸ならぬ細いロープを数本、つつーっと垂らしながら無音で降下した。
黒茶色のタイトなスーツに身を包んだそいつの手には、銀色に光る短剣!?
刺客だ!
ざばっ、とそいつが頭上から襲い掛かり、湯船に着水したとき、俺は間一髪で湯を蹴ってジャンプ、大理石調の石畳の床に着地して身構えていた。
湯船の中で、電光のように、脳裏に閃いたのだ。
かつて、前世のどこかで俺に格闘技を伝授してくれた老師の言葉が。
「考えるな、感じろ! しかし……」と。
「しかし」の先を思い出す間もなく、身体が動いていた。
前世記憶が、習っていた技を発動させたのだ。
前世の三分の一ほどの低重力、そしてマッチョとまではいかないが、二十代のほどよく壮健な筋肉が俺を戦闘可能状態に持ち込んでくれた。
防御の型、“傾斜装甲の構え”。
右足のつま先は一時方向、左脚のつま先は十時方向を指して肩幅よりも広く開脚し、そして敵に対して身体の正面を向けず、常に右側面を斜めに向ける。これは右利きの場合の基本形であり、左利きの場合は左右が逆になる。
敵に身体の正面をさらすと、攻撃を受ける面積が大きくなる。だから敵に対して身体を常に斜めに構えて、避弾経始の要領で、敵が繰り出すパンチやキックをするりと受け流すのだ。
その刺客の顔は判別できなかった。黒茶色のスキンスーツは喉元から頭部までも覆い、両目だけが平たいスリットの中に見えているだけだ。しかも湯煙に包まれてシルエットが曖昧だ。一見、八本脚に見えたが、それは腰の後ろに四本の腕状のシリンダーを装着していたからだ。
シリンダーの先端から細いロープが延びていて、天上の換気口へ届いている。シリンダーはロープの繰出しと巻上げを行う装置であり、それを使って空中を昇降する三次元機動を可能にしているわけだ。
刺客は声を出さず、はっ、と烈迫の気合とともに銀色の凶器らしきものを突き出してきた。
撤歩!
俺は右足を直線的に床面に滑らせて後方へ身を引きざま、姿勢を低めて右腕の肘を上げ……
反撃!
俺の両手は手近な場所にあった、かけ湯をするハンディサイズの風呂桶をひとつずつ、つかんでいた。その一個で刺客の、銀色の凶器を持つ腕を叩く! すかさず左足で足払いをかける、命中!
そいつは前方に出した脚を蹴り飛ばされてよろける。ここで倒れてくれれば組み伏せたのだが、奴はかろうじて横っ飛びで離れ、態勢を立て直す。
両者、身構えたまま間合いを維持する。奴は知ったのだ、こちらが防御も攻撃もできる戦闘技術を多少は心得ていることを。
そうだ、俺の肉体の細胞の隅々にまで、前世記憶のそれがよみがえってきた。
はるか昔の前世で、老師に手ほどきを受けた格闘術が。
敵も俺も、警戒しつつ相手に踏み込む隙を与えない。
しばしの、手づまり状態。そのため非常口へ逃げることもできない。敵に背中を見せたら致命的な一撃を免れない。
奴はぺたぺたとゴム底の足袋のようなステップだ。ゆらゆらとリズミカルにたたらを踏む動作で、俺の周囲を回る。
こちらは滑歩。左右の裸足を交互に、直線的にしゅっ、しゅっ、と滑らせて、敵に対する傾斜装甲の構えを崩さない。
しかし、客観視すれば……
俺は圧倒的に不利だ。
敵との戦闘に使えるのは片手のみ。
一方の手は、つかんだ風呂桶で股間を隠さねばならないからだ。
そう、必然的に俺はスッポンポン、だったのだ。
敵は第二撃を放つ。
銀色の凶器を持つ腕を右手の風呂桶でポカッと跳ね上げ、左手の風呂桶でそいつの右脇腹をブン殴りながら、瞬時にして右手の風呂桶で股間を防御する。
見せそうで見せない股間隠蔽裸芸を100%完璧に演じながら、俺はそいつの攻撃を跳ね返す。しかし両手の風呂桶を保持し続けなくてはならず、直拳すなわち生の拳のパンチが使えない。
かといって風呂桶を一つでも放棄したら、急所の股間をカバーする手段がなくなってしまう。ここに一発食らったらおしまいだ。
俺にとって風呂桶は股間防御の中空装甲なのだ。
しかしそれでは、敵の攻撃を防ぐだけで精いっぱい。有効な反撃ができない。
防御はできても、撃退には至らない。
腹立ちとともにイライラが高じて、俺は叫んだ。
「ガチョーッ、ダチョーッ!」
強烈な金切声だったので、刹那、敵は驚いてビクッとひるんだように見えた。
今だ! 音撃!
「ダチョ、ダチョ、ダッチョ、キューカンチョーッ!!」
実はこれも老師の教えである。巨鳥叫……伝説の巨鳥ロックにちなんでロッククライとも呼ぶ格闘技術のひとつで、高周波の衝撃で敵の聴覚を錯乱させ、脳神経にダメージを与えるのだ。
静寂な環境における戦いは、対戦相手すなわち敵に対して精神を全集中し、格闘に専心することができるが、それは敵にとっても同じことだ。
そこで、こちらから巨鳥叫を挿入することで、敵の集中力をそぎ落とし、精神のバランスを崩そうというわけだ。敵の攻撃は寸秒のタイミングで繰り出される。しかし攻撃寸前に怪鳥叫に気を取られて、わずかでも攻撃の照準が狂えばこっちのもの。
「カチョー、ブチョー! カカリチョー、シャッチョー!」
文字にすればお馬鹿な悲鳴に過ぎないが、実際は鼓膜に極めて不快な刺激をもたらす超音波成分を含ませている。全身を楽器、いや潜水艦のソナーと化して、喉の奥から音撃を絞り出す。
老師はこうも教えてくれた。
「水になるな、風になれ、音を味方にせよ。人体の六割は水だ。敵の水を音で破壊するのだ」
音波は水を揺さぶる。
敵の脳の中も水が満ちている。
巨鳥叫……ロッククライは、超音波の音撃で敵の脳を撃つ。
渾身の雄叫びを奴の頭部にロックオンし、俺は突進。
刺客の奴は四本のロープに吊るされた操り人形みたいに、ゆらゆらと体を弾ませながら、銀の凶器を握った拳をシュッと打ち出してくる。
こちらは左右の風呂桶を交互に盾とし、あるいは鉾としながら、ポカポカポカッと敵の攻撃を撃ち返す。
「チョーチョー、シチョー、ケンチョー、カカッカッカ、カンチョー!!」
奴が顔をしかめた。聴覚を乱され、脳漿の水を攪拌され、脳神経を不快な刺激で叩かれたのだ。
奴は体重心のバランスを崩した。
瞬間的に生まれた、隙。
敵の脇腹を狙い、左のキックと見せかけて右のキックを見舞う、命中、有効打。
ボヨン!
そんな撃ち応えが返った。ボキッとかバキッでなく、ボヨンだ。
えっ?
キック直前に敵がわずかにかがんだため、打撃は敵の脇腹でなく、その胸に着弾していたのだ。
しかも複合装甲でなく、弾力性抜群の爆発反応装甲みたいな感触。
こいつ……
俺は悟った。
くノ一だ!




