014●第二章⑦サンバの真意、そして少女の真意は。
014●第二章⑦サンバの真意、そして少女の真意は。
真剣そのもののシェイラの視線。
こりゃ平手打ちパンパンのお叱りモードだ、と直感する。
とはいえ、こんなことで反論も言い訳もしたくない、いや、しようがない。
「ごめん」と僕は謝った。「皆さんの仕事を邪魔するつもりはなかったんだけど、あまりにも美味しい拉麺だったもので嬉しくて、ついつい、ハッチャケてしまった。見ての通り、ただの馬鹿踊りだ、お詫びするよ」
「何をおっしゃいます猊下!!」
がば、とシェイラは床に片膝をつくと、その両手で俺の両手から胡椒筒をもぎ取るや否や、手の甲にしめやかに口づけた。
我輩、ドキッとしたぞ。
しっとり濡れたやわらかいくちびるの蠱惑的なこと。
どこかの転生先でまだ子供だった頃、うっかりつまんでしまったナメクジの感触と比べて、天国と地獄の差とは、このことであった。
「わたくし、感激いたしました!」
破顔することなく、むすっとしたしかめ面のまま、シェイラは俺の“俄か興行”を絶賛した。
「たかが歌と踊りで人があれほど楽しく歓喜できることを、猊下は御示しくださいました。このシェイラ、まことに心ゆさぶられる思い、感服つかまつるばかりにございます」
背後でシド女史が、ほーっと安堵のため息をつくのが感じられた、一安心である。
シェイラは鉄仮面的に感情を表に出さない。このような人物を上司に仰ぐと、褒めているのか怒っているのかわからないので、気苦労も絶えないだろうな……と、シドに同情したところで、シェイラは続けて言った。
「ここしばらくの深夜残業で、事務管理部のスタッフはくたびれきっておりました。今夜には全員に滋養強壮魔法剤を支給するつもりでしたが、猊下の“さんばおどり”は、それにもまして皆を元気づけてくださったようです」
「あ、そうか、そりゃよかった。ストレス解消に少しは役立ったみたいだね」
「はい、猊下、素晴らしき効能です。これからは三時のラジオ体操をやめて、猊下の“さんばおどり”に変更いたしましょう」
「そういたします!」と嬉しさで破顔するシド。そりゃ官製の体操よりは楽しいだろう。しかし……。
「いやいや、そこまでしなくていいよ、こんなのを毎日踊るとお馬鹿になるからさ、きっと」
まともに考えれば、本物のサンバを冒涜するような馬鹿踊りだ。それを毎日繰り返したら、彼女たちの脳内回路もプッツンして本物のお馬鹿さんになってしまうに違いない……と、僕は本気で心配したのだ。
だが、その前に我輩は驚いた。
「ら、ラジオ体操って、そんなものがこの世界にあるのかね?」
「ございます、猊下」とシド。
正式には“水晶ラジオ”というもので、官営のラジオ放送局が開業して間もないとのことだ。国会議事堂に放送会館を併設し、屋上に大小多数の透明魔法石を組み合わせた送信システムを構築して、魔法通信波を発振している。
専用のラジオ機器は必要なく、透明魔法石を電話として利用しているユーザーが、電話のかわりにラジオ放送を選択すればいいだけだ。それで一日に数時間、音声放送を楽しめる。ただしあくまで、それは高価な透明魔法石を日常的に購入できる富裕層に限られるのだが。
魔法通信波はアンテナがなくても受信できるが、放送の到達範囲は限られており、我輩の前世記憶に照らすと、地方都市のFM局か、気象や建物などの条件が悪いと、商店街のミニFMに毛の生えた程度だ。
とはいえ、ラジオのプロパガンダ効果は注目されていて、国民の健康増進のためと称して、福利厚生省の提供で毎日午後三時に“ラジオ体操”を放送しているという。
「いやいや、たぶん身体の健康にはラジオ体操の方がいいと思うよ」と忠告したのだが、シドが言うに、「心の健康にはお馬鹿踊りが一番です!」とのこと。
知らんぞ、もう……
あきれる我輩を置いて、シドは嬉々として「わがはいさんば、わがさんば……」と鼻歌交じりで、意気揚々と事務管理部長の仕事に戻っていった。
そこで我輩は、シェイラを手招きした。オフィスの外の回廊に果てしなく並ぶ列柱に隠れる隙間に。
「ちょっとヒソヒソ話をさせてくれ」
「猊下」シェイラはようやく唇の端でほほ笑んだ。「秘め事でございましたら、二人きりの密室をご用意いたします。そこで、ごゆっくりと」
「いやいや、それには及ばないよ、ここで十分」
「まあ、あられもない」シェイラは人が変わったみたいに、あからさまに、いや、わざとらしくもじもじと顔を赤らめた。「あたくし、恥ずかしすぎますわ、身悶えしても声も上げられません、誰かに見られたら、ふしだらな噂が一杯流れます」
一瞬想像して、僕も真っ赤になって絶句する。
我輩は単なる密談のつもりだったが、明らかに趣旨の異なる下半身の用事と勘違いされたようだ。まったく先代の枢鬼卿は、シェイラにも手を出してご乱交におよんでいたのか?
シェイラは残念そうな顔をしてささやいた。「オアズケですか?」
僕はうんうんとうなずく。ここで断固として断ると、それはそれで気を悪くされかねない。とりあえず延期ということにしよう、期限を定めない延期だ。
「据え膳食わぬは男の恥と申しますが」
と、未練たらしく僕の臆病風を斬り捨てたシェイラは、ふふ、冗談ですよとほくそ笑む様子で、唇の真ん中からチラ、と舌の先を出した。
出すな、舌を出すな!
俺は念じた、メガトン級に妖艶な色香に呑み込まれてしまうではないか!
接吻だけならいいか、今ここですかさずブチューッ! と。
いかん、いかん、と我輩は必死で快楽の妄想を追い払った。
銀髪の超美貌の大蛇に丸呑みされかかったイベリコ豚の心境で、本題に入る。
「あの娘のことだ、どうなった、大丈夫か?」
ずっと気にかかっていたのだ。しかし耐えがたい空腹を満たす必要があったのと同時に、我輩が直面した毒殺未遂事件の噂が予期せぬ形で広がることを防がなくてはならなかった。
オフィスのドアを開けて、ずらりと居並ぶ事務員の女性たちを見たとき、一瞬で悟ったのだ。
満願全席の晩餐で枢鬼卿猊下が毒殺されかかった事実は、数分で彼女たちに伝わる。噂には要らぬ尾ひれもついて、数日で公王府から首都エリスの津々浦々に広まってゆくだろう。それも伝言ゲームの果てに、ろくでもない姿に形を変えて。
いわく、「今度の猊下は女体盛りをいやらしくぺろぺろしゃぶり尽くした挙句、なさけない腹痛と下痢を盛大に催された。なんと毒見の娘に毒を盛られて……」とか。
そんな噂を事前に否定しておくため、我輩はあの“さんばおどり”を決行したのだ。
あれだけ“元気な猊下”をアピールしておけば、毒殺未遂の話はしぼんでしまう。
そうしたい最大の理由は、犯人であるあの少女を放置すれば、たとえいつか無事に社会に復帰できたとしても、世間の残酷な視線が彼女を事実上の死刑に追いやるからだ。
我輩が少しでもまともな人間でありたければ、あの娘を守ってやらねばならない。
「あ、あの娘と申しますと?」
シェイラは刹那、面食らったようだ。まあ、あの“馬鹿踊り”にびっくり仰天させられて、すぐさまこの話題では、あまりに深刻で落差が大きすぎる。一瞬、何のことかと迷ったのだろう。
俺は畳みかけて言った。
「さっきの、あの娘だ。俺の代わりに毒を引き受けてくれた娘だよ」
「え、ええ!」シェイラは脳内回路を小一時間前に引き戻せたようだ。「あの毒見冥奴は一命を取り留めております。当面の解毒は完了しました。近衛病院の隔離病棟で厳重に治療を進めておりまして、数日も静養すれば、食事も会話もできる状態に恢復すると存じます」
「そうか、それはよかった!」
「奇跡的に、毒の摂取が微量で済んだことが幸いしました。透明な毒液が塗布されていたのは、蓮華の匙の外側だけであり、内側の凹んだ部分には塗られていなかったからです」
そうか、透明とはいえ、できるだけ気づかれにくくするために、匙置きに載せたときに隠れるように、匙の外側に毒が塗ってあったのだ。しかしあの娘は蓮華を上下逆にして口にくわえた。その舌がぺろりと舐めたのは匙の内側であり、そこは無害だったのだ。しかし匙の外側から口蓋の中へ、そして喉へと、唾液とともに毒液が侵入した。ただしそれは微量で済んだというわけだ。それで解毒治療が間に合った。
ほっとした。あのまま亡くなりでもしたら、俺は誰になんと詫びればいいのか。彼女には父母もきょうだいもいるだろうに。で、ふと尋ねてみた。
「あの娘、名前はなんと言ったっけ?」
「恐れながら、娘の名前は失念いたしました。すぐ調べてご報告いたします」
「ああ、それはあとでいいよ」
俺は記憶をさかのぼった。毒見の少女たちは白い作務衣の襟元に、布の小さな名札を縫いつけていた。百人余りもいたので、個人識別に名札は必須だろう。あの少女の名札にはたしか、簡易な大衆文字で「ニヤン」と書いてあった。猫の声に似た語感で、少女の瞳もどこか猫を思わせたので覚えている。その顔にはもちろんヒゲは無いのだが、かわりにそばかすが少し残っていた。
ぐっ、と目頭が熱くなる。あのとき、俺は感じたのだ。死を覚悟で、毒の蓮華を口にくわえたときの、いたいけな少女ニヤンの悲しみの深さを。
問題は、我輩の手から毒蓮華をもぎ取って、「毒を塗っています!」と叫んだとしても、周囲に信じてもらえるかどうか。
ニヤンは公王府で名の知れた評判の私立探偵などではないのだ。命の使い捨てに等しい、一介の毒見冥奴が錯乱めいた騒ぎを起こしたに過ぎず、即刻、シェイラに組み伏せられて終わりだろう。
だから、俺が手に取ったそれが毒蓮華であることを証明する最も速く確実な手段は、自ら毒をあおることでしかなかった。
同時に、自分が無害な蓮華を毒蓮華と取り替えた事実を認めることになる。死に損ねたらすぐさま近衛憲兵に逮捕され、城内で拷問の上、自白させられて処刑だ。
いずれにしても、死。
だからニヤンは毒を自分の口に入れたのだ。
枢鬼卿の代わりに今ここで死ぬ、と決意して。
でも、なぜ、どうして、彼女はそう決意したのだ?
ニヤンの心の中の事情こそ知りたかった。だからシェイラに念押しした。
「あの娘を死なせてはならない、いいね、絶対に救ってくれ!」
「もちろんです猊下、背後の真犯人を突き止め、悪事を裁くために」
「いや、それは大切だが、何よりもあの娘は俺の命の恩人だ。近衛憲兵の尋問などで苦しめないでくれ。あの娘が自分から語ってくれるまで、そっとしておき、そして丁重に処遇するように。元気になったら、見舞いに行く」
「なぜですか?」シェイラは意外な顔をした。「あの娘は猊下を殺そうとした実行犯です、憎むべき殺人鬼で、そのことを自白したも同然、さすれば極刑は必至、というのが常識的な流れですが」
「たしかにあの娘は僕を殺すつもりでした。黙っていれば、確実に僕を殺せた。けれど直前になって、ギリギリで翻意してくれたんです。殺すのをやめて、僕の命を救ってくれた。自分の命を生贄に差し出してまで……。不思議じゃないですか。なぜ、あの娘はそうしたのか、僕は彼女の真意が知りたいのです」
僕はそう言った。シェイラはまじまじと俺を見た。サンバ踊りに遭遇したときの百倍は驚いたかのように、目を見開いて数瞬すると、シェイラは静かに目を伏せた。そして黙ってゆっくりと、我輩にお辞儀した。すべて同意、ということだ。我輩はつとめておだやかに言った。
「いいね、シェイラ。あの娘はこの先、生き延びても危険にさらされる。我輩の前世記憶の教訓では、あの娘が何かを喋る前に、背後の真犯人があの娘を殺しにかかるはずだ。だから絶対に、あの娘を守ってやってくれ」
シェイラは納得した。口元が少しゆるみ、ほほ笑んだように思えた。
「何もかもおっしゃる通りです、猊下、全力であの娘を守ります」
そのとき、近衛隊長のアロット中佐から声が届いた。
「アロットであります、緊急にご報告!」
シェイラのネックレスの中心に飾られた透明魔法石が、チカチカと瞬いていた。受信中のしるしだ。シェイラは魔法石に指を触れて操作する。
「シェイラだ、話してよし」
「満願全席の厨房を捜査中、配膳係の男一名が逃亡、追跡しましたが、男はさきほど城壁から身を投げて即死しました。申し訳ありません!」
「そうか」シェイラの語調だけで、無念さが伝わる。「やむをえない、急ぎその男の身辺を洗い、報告せよ」
「はっ、調査しております」アロットは即答した。「今、わかりました範囲では、男は一週間前に欠員補充で採用されたばかりでして、それまでは国会議事堂の上民専用食堂で働いておりました。履歴は精査され、身元は信用できるものとして、公王府の厨房勤務に支障なしと判断されたものであります。……そして追加事項です。身投げで死亡した男の衣服から毒性魔法剤らしき小瓶が発見されました。詳細は明け方までに書類化してお持ちいたします」
「やられたな」と我輩はつぶやいた。「やはり、あの娘の単独犯ではなかったのだ。奥の深い事件になるぞ。死んだ配膳の男が本物かどうかも併せて、よく調べた方がいい」
「御意」とシェイラはうなずいた。