010●第二章③暗殺者の自己犠牲
※2024年9月、これまでの章を改稿いたしました。設定をいくつか変更しています。
010●第二章③暗殺者の自己犠牲
「きみ! どうした!」
僕は回転テーブルを越えて上半身を乗り出した。
うずくまってブルブルと痙攣する少女。ゲホッ、と、口元から噴き出した鮮血の飛沫が深紅のカーペットにどす黒い星座を描く。
クソっ! と我輩は内心で自分に舌打ちした。前世記憶のどこかで、毒見役の奸計にはまって毒殺された覚えがあった。最初から用心すべきだったのだ。
毒殺を計画する側からみて、毒見役の存在は大きな障害となる。
厳重に守られた最重要人物《MVIP》を毒で殺そうと思ったら、二重三重の“毒見”をクリアしなくてはならない。
となれば逆の発想で、“毒見役に毒を盛らせることはできないか”となる。
標的の最重要人物《MVIP》が食する料理に、最後に触れることができるのはたいていが毒見役自身だ。毒見のあとで誰かが料理を運ぶなどしたら、そこで毒を盛られてしまうからだ。
だから、“毒を盛るなら毒見役を使え”ってことだ。
しかも今回の敵は、料理でなく食器に目を付けた。あらかじめ透明もしくは食器と同じ色の毒液を塗布した匙、すなわち蓮華を用意して、この毒見冥奴にすり替えさせたのだ。
少女たちの毒見の瞬間には、誰もが料理に注目する。その機を逃さず、料理でなく食器の方に細工したわけだ。
しかし間一髪で、我輩は助かった。いや、助けられた。理由はわからないが、実行犯である毒見の少女が、毒殺成功の寸前に翻意して我輩から毒蓮華を取り上げ、自分の命を捨てて我輩を守ってくれたのだ。
にわかに信じられないが、そう考えるしかない。
なぜ?
以上の思考が一秒未満の間に脳裏でフラッシュしたが、それ以上に物事を考える余裕はなかった。
少女は、俺に代わって毒を煽ってくれた!
俺は少女を助けるためにテーブルを飛び越えようとしたが、直前に肩をつかまれて、引き戻された。それは手でなく、まるで地面の重力が横に働いたかのような感触、我輩は直感した、魔法の念動力、シェイラの力だ。
「猊下!」と耳元にシェイラの声、ハスキーな響きに切迫感があふれている。「ご覧なさいますな。こやつは猊下を殺すつもりでした。汚れた女です」
「そうじゃない!」俺は直感的にシェイラをにらみつけた。「この娘は俺の身代わりに毒を食った。俺はいいからこの娘を助けてくれ! 解毒剤とか、ないのか!」
「はい!」
刹那、素直にうなずいたシェイラの眼差しに我輩は驚いた。
そこに冷酷な光は無く、親愛の情と喜び。
かしこまりました猊下、この娘の助命を許可して下さり、感謝いたします……と。
一瞬を置かずして、シェイラはテーブルを飛び越えて床に膝をつき、血を吐く毒見の少女を抱き起こしていた。
「しっかりせよ、これを呑め!」
シェイラは手のひらに収まるサイズの印籠を開いていた。艶やかな黒いケースで、のちに精密な鼈甲細工と知ったが、いくつかの図像を組み合わせた特殊な金色の紋が芸術的な意匠で象嵌されている。その高級感から察せられた。枢鬼卿の権威をあらわす紋章、つまり我輩専用の薬入れだ。
楕円柱の形をした印籠は上下に四つのパーツが合わさっており、上から三段目を外すと小指ほどの大きさの薬瓶が現れる。その中は、きらきらと輝くエメラルド色の丸薬が十数粒、シェイラは一粒をつまんで、血が泡立つ少女の口に入れようとする。
少女は痙攣して、いやいやをするかのように弱く首を振り、丸薬を拒絶した。
「あたし……死んで……おゆるしを……」
「死はならぬ! 生きよ!」
音量を抑えた声だが、シェイラはきっぱりと力強く告げ、膝で少女の背中をどんと小突く。
ゲボッと少女の息が通った瞬間に口内に指を入れて喉元までこじ開けるや、きらきらと輝く緑の丸薬を真っ赤な舌に載せる。印籠の最下段は薬液の容器だった。ほんの十数㏄だが、これも治癒効果があるのだろう。片手の指でキャップを弾き飛ばすと、薬液を垂らして口を閉じさせる。と同時に後頭部をカクンと揺らして呑み込ませる。
すばらしいタイミングの強制嚥下だが、我輩はそれをただ見物していたのではない。ここには百名あまりの毒見の乙女たちがいて、不安と恐怖に引きつった視線が集中している。パニックを防がねば。俺は大音声で晩餐広間に声を響かせた。
「みなさん! トラブルがあった。気を落ち着けて、動かず待機しなさい! 絶対に何も食べてはいけない、自分の指を舐めたりしてはいけない! よいな、そのまま動かず、静かにして待ちなさい!」
仲間の少女の悲劇を見て、すすり泣き混じりでざわめいていた毒見冥奴の少女たちは、はっとして俺に傾注し、一礼して畏まった。猊下から直接に緊急命令を受けるなど、生まれて初めてのことらしい。その驚きと緊張感が、パニックを抑えた。
「ありがとうごいます、猊下、的確なるご指示、かたじけなく存じます」
シェイラは血まみれの少女を抱きかかえたまま、顔を上げずに報告した。
「今、処方した丸薬は解毒の魔法石です。あらゆる炎症を抑える薬水で呑ませました。これが最善の策ですが、猊下のためにご用意している富貴薬を独断で消費いたしましたのは、わたくしの罪です」
僕は即決で答えた。
「かまわないよ、僕の許可が必要なら、ここで許可する!」
「ありがたく存じます」シェイラは俺に感謝すると、意識を失った少女に頬を近づけて、かすかながら息があることを確認する。よし、とうなずくと、首に掛けていたクリスタルのネックレスにささやいた。「アロット、一部始終を把握したか?」
「了解しております、補佐官!」
腰にサーベルを提げ、儀礼用の派手な軍服姿の青年が、声と共に駆けてきた。兵士の一団を指揮する彼の手には、我輩の前世記憶でケータイとかガラパゴスとか称していた魔法道具に似た、小さな折り畳み手鏡が収まっている。
後で知ったことだが、シェイラのネックレスの大粒のクリスタルのひとつが情報魔法石で、それが現場の状況を撮影して、アロットと呼ばれたこの軍人の魔法手鏡に送信していたのだ。
軍人青年はあわただしく敬礼すると、房飾のついた円筒形のケピ帽を外して胸に当てると僕に申告した。
「近衛隊長のアロット中佐であります、緊急事態を察知し、参上つかまつりました。憲兵班を厨房や冥奴詰所に派遣し、捜査を始めますが、男子禁制の公王府における部下の活動にお許しを願い奉ります!」
シェイラが俺に顔を向けてうなずいた。そうか、この公王府のエリアは俺と招待客以外は男性の入館お断りなのだ。しかしこの毒殺未遂事件の捜査には男性の憲兵が必要、というより、見たところ彼の部下はみな男性。憲兵とは公王府に直接関係する法的な事件の捜査や検挙にあたる兵員のこと。ためらわず承諾する。
「無論だ、頼むぞアロット中佐」
そこでシェイラが具申する。
「猊下、事態を秘匿するため、この娘を城内の近衛病院に収容いたしたく、ご許可を賜りますれば」
「あ……わかった、許可する!」
なるほど、公王府の使用人としては低級とみなされ、事実上、命の消耗部品として扱われている“毒見冥奴”の少女たちだ。彼女たちは最高級の医療スタッフと設備を擁する城内の病院を利用する資格がなく、市中の一般診療にかかるしかない。
しかし毒殺の事案となれば別だ。事件を公にすると全国に報道される。だから特例を認めてくださいというわけだ。
にしても、いかに例外的な事態とはいえ、いちいち、ことあるごとに枢鬼卿に許可を伺っていては大変だろう。
「シェイラ、本件に関する決定権はきみに全面委任する、我輩の許可なしで裁可してよろしい。アロット中佐にも、現場の捜査権限を一任する。迷ったときはシェイラに確認すればいい」
「ありがとうございます、猊下!」
二人は声を揃えて一礼すると、長方形の折り畳み式テーブルを担架代わりにして、血まみれの少女を乗せると胸元にテーブルクロスをかけて、血糊を隠してやる。屈強な兵士が四名ついて、あっという間に重篤な少女を搬送していった。
公王府のどこかにある近衛病院へシェイラが同行し、アロット中佐はこの場で部下にテキパキと指示を飛ばして捜査の指揮を執る。
ということで僕は手持無沙汰となるのだが、もちろん放置されるはずがなく、ただちにシェイラの部下が僕の付き人に任命されていた。
「事務管理部長のシドと申します。猊下にはいったん別室にてご休息下さいませ」
今や惨劇の場となったディナールームから回廊へ出たところで、我輩の腹がとりわけ大きくグウと鳴った。真っ白なブラウスにの濃紺のタイトスカートという、典型的な事務職スタイルのシド嬢はにこやかな表情のままだったが、夕餉を食いそびれた猊下の胃袋の空虚感がそろそろ限界であることを悟ってくれたようだ。
「只今、第二晩餐広間でお食事の準備をいたしております。どうか、しばしのご辛抱を……」
と、恭しく案内してくれる途中で、俺は突如方向を変えるや、間隔を開けて並ぶドアの一つを開けて歩み入った。本能に導かれて。
そこから漏れていたのだ。いまやいかなるフェロモンよりも魅惑的な、鶏ガラスープに酷似した馥郁たる香りが。




