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ハルノトキ 後編



  第七章  私の記憶




      1


 夜寝る前に、ノンカフェインのフルーツティーを飲みながら、大事にしまった引き出しの中から取り出す一つの記憶。ドキドキするような情景で、寝る前に思い出すとなんだか幸せな気分になるものだ。

 それは、大学二年生のある寒い冬の日のこと。バイト先のパン屋さんでちょうどゴミ捨てに外に出ていた私。いつもあんパンをかってくれる常連客の杖ついたおじいさんが店から出た後、ツルツル路面に足を取られないかヒヤヒヤしながら、見守っていた。横断歩道の信号が赤に変わる前に渡り切れるだろうか、いや、きっと難しいと思った私は、足の裏全体に力を込め、小走りでおじいさんに近づく。

「おじいさん、渡るの手伝いますね」

「いやぁ、悪いね」

 私は、おじいさんの片腕をささえ、パン屋の袋を持ち、無事に渡ることが出来た。車側の信号はとっくの間に青になっていたのに、クラクションを鳴らされることもなく待っていた運転手さん。良い人で良かった、と思い店に戻った。

 しばらくすると、奥さんが私に手招きをしながら声を掛けてくる。

 売り場に向かうと男性が二人。一人は父親くらいの年代。

 私はもう片方の男性に目がいった。

 年は、私と同じくらいの年代でダウンジャケットを着た長身の人。

 彼を纏う雰囲気は一体なんだろう。

 まるで、サンキャッチャーが周りの光を意図せず集めてしまうような。

 今まで会ったことのない、私の目を奪う人。

 あまり見過ぎちゃ駄目と思っていたら、大きなバラの花束を手渡された。一瞬だけど見えた彼の優しい目。綺麗な花。そして、その男性たちからの「ありがとう」という言葉。私の心は温かい物で包まれた。人から、感謝されることがこんなに温かで穏やかな気持ちにさせてくれるなんて。

 その日の私は、仕事にならなかった。手に力が入らず、集中出来なかった。揚げていたドーナツは焦がすし、カスタードに入れるのは牛乳なのに高価な生クリームを入れてしまった。

 これは、一目惚れだ。たぶん初めてだと思う。

 でも、もう会えないだろうな。名前も知らなければ、どこの誰かもわからないのだから。そもそも、誰かわかっていても、私には到底縁遠くて、掴めないものだ。

 それから1か月経たないうちに、彼を見かけた。思いがけない場所、予想だにしない場面で。

 すごく緊張していた、大嫌いな人前でのプレゼンの日、彼は後ろの席に座っていたようだが、壇上に上がるまで全く気が付かなかった。自分の発表の事で頭がいっぱいいっぱいだったから。初めて、名前を知ったあの日、彼は意外にも面白くて、そして堂々としている人ということが分かった。失敗なんて恐れない、誰に何を言われようが、関係ない、そんな人なのだと知った。自分にないものを持っている彼に魅了されたのを覚えている。そして、次に発表を行った私は、彼に勇気づけられたお陰で、無事に事が終わったのだ。

 そこからは、まだ数か月ドキドキしながら、過ごす日々が始まるのだった。

 週に三回くらいは、私のバイト先に来ていたと思う。主に厨房にいる私は特段、彼と接点がなかったのだが、イートインスペースで私の作った黄な粉ドーナツを美味しそうに頬張る姿がとても可愛くて胸がいっぱいだった。

 レジ担当の麗華さんが、「もしかして、あの黄な粉の人、私目当てかな」なんて言い出して、確かにそうかもと思った。麗華さんはとても美人で男性を魅了するようなセクシーさがある。

 そっか、そうだよね、男の人って麗華さんみたいな人が好きだよね。私なんてやっぱり、相手にされる訳ないじゃない。だから、彼が来てもあまり見ないようにしていた。だけど、ある日、目が合ってしまったのだ。すかさず彼は、親指を立ててくる。黄な粉ドーナツを指さしながら。私は予想外の出来事に驚いたけれど、ものすごく、本当に、本当に嬉しかったのを覚えている。

 お付き合いする前の初々しい私たち。そんな記憶をまた大切にしまうのが日課だった。


      2


 時は流れ、あっという間に社会人三年目になっていた頃、私にも挫折とか試練とか言うものが訪れた。

 年度末のバタバタしていた朝、上司の上田課長にミーティングルームに来るよう、呼ばれた。

「双葉さんも、だいぶ仕事慣れてきたでしょ。そろそろ後輩の育成お願いしようと思って。あなたなら仕事ぶりも真面目で欠勤もない。性格も穏やかだから、後輩が入って来ても優しく教えてあげられると思うんだ。どうだろう?」

「教えるのは初めてなのですが、私でよろしいのでしょうか?」

「うん。やはり少しでも年は近い人の方が適任だと思ってね。そして最近の子は、扱いが良くわからない。自分は何でもできると勘違いしている子や敬うべき上司に対して、まるで親戚のおじさんと話す様に接したりする。双葉さんなら、その辺ちゃんとしているから、とても信頼しているよ」

 と、言われた私はとても嬉しかった。上田課長とは仕事の打ち合わせをする位で、褒められた事がなかったが、自分を見ていてくれたんだ、日頃の努力を評価してもらえたのだと思い、「頑張ります」と返事をした。

 

「よろしくお願いします。遠藤と言います」

 と挨拶してきた子は、あまりニコリとしない子だった。人見知りなのかも知れないな。本を読むのは好きと言っていたから、出来れば仲良くなれたら嬉しい。

 私も新人の時どれだけ先輩に助けられたかわからない。自分の仕事の納期を意識しながら、不意に話しかけてくる後輩につきっきりで教えるというのは、なかなか大変な事だった。私の教育係だった先輩は、もう結婚して退職してしまっているけれど、今になって大変さが身に染み、本当にすごい人だったんだと思い知らされる。

 出来るだけ一つ一つ丁寧に教えていたが、一切メモの取らない後輩は、私の不安通り自己流でやってしまう様になった。やはりミスは、教育係の私の責任だし、教え方にも問題があったかも知れないと、分かりやすいように資料を作成して渡すが、その資料も机に置きっぱなしにされた。

 そういう子と接した経験がないから、対処法がわからない。そもそも一人っ子の私は、年下の子との接点がなさ過ぎて、五歳も離れている子にどう接して良いものかわからなかった。だが、出来るだけコミュニケーションを取った方がいいなと思い、ランチに誘ったりしていたのだが、ある日こう言われた。

「双葉さんって、いい人じゃなくて、人がいいですよね」

 今日は、私の奢りだよ、と伝えて一緒に食べていたイベリコ豚とトマトソースのパスタを啜りながら、全く悪びれる事なく言う彼女。私はその言葉の真意を追求せずに、彼女がテーブルに飛ばすトマトソースをじーっと見ていた。そして、この言葉の意味がわからなかった。ネットで調べてみると『人がいい』は、立場が悪くなることを恐れるとか、なんでも引き受けてしまう、とか書かれていた。確かにそうなのかも知れない。組織の中で意見するなんて私には出来なかった。

 社内で絵本発刊コンテストというものがあり、応募していた私の作品は役員会議にかけられる程、周りから評価されていたのだが、地位のある作家さんの一言で覆された。

「なんかありふれてるかも」

 その言葉で役員の意見も半回転し、私の絵本出版の夢は、途絶えたのだった。あの時、この本の伝えたい事とかもっと押し通せていたら、と思ったが、私の口から出てきた言葉は、「もっと修行します」だった。

 あまり人に相談事をするのが苦手な私は、悠斗君にさえ、ほんの一部分しか悩みを伝えていなかったと思う。

「物事がすべて順調にいくわけじゃないよ。挫折があることでもっと良いものが出来ることもある。でも、いつも桜都の味方だから、いつでも頼って欲しい。悩みは人に聞いてもらうだけで楽になるよ」

 と、自分の事業の事で忙しいはずなのに彼は優しく寄り添ってくれていた。私は、忙しい彼にこれ以上迷惑は掛けられないと、自分の悩みはしまっていた。

 なんだか疲れてきたな。一体私は何をやりたいのだろう。

 仕事終わりにスーパーに立ち寄り、売れ残りの惣菜を眺める。美味しそうなさつまいもコロッケが半額の赤いシールを貼られ、ずらっと並んでいる。もう閉店間際なのにこんなに。黒ゴマがアクセントになったさつまいもコロッケは、おやつにもなるし、カレーの付け合わせにもちょうどいい。この美味しさに気づいてない人がいるんだな。私は、それを二パック手に取ってレジに並んだ。

 家に帰り、さっきのさつまいもコロッケを冷凍庫に閉まっていた時、岳君から久しぶりに連絡が入る。

「大事な話がある。二人で会えるかな?悠斗には絶対に言わないで欲しい」

 そんな深刻な内容のメッセージを貰ったのは初めてだったし、日系企業のカナダ支社にいるはずの彼がわざわざ日本に帰ってくるなんて、よっぽどの事だ。少し構えて待ち合わせ場所のカフェに向かった。約束の時間の十分前に着いたのに、岳君はもう店の中にいて、コーヒーが半分くらい無くなっていた。

「桜都ちゃん、久しぶり。元気だった?」

「うん、すごく久しぶりだね。カナダからは、一時帰国中?」

「うん、そう。桜都ちゃんに大事な話があってさ」

 私は、いつも晴れている表情の岳君しか見たことがなかったが、今の彼は完全に曇り顔だ。

 彼は大きく深呼吸をして、ゆっくりと話し始める。言葉の選択に迷いながら、慎重に。テンポ悪く彼から出てくる言葉に、筆舌に尽くし難い衝撃が折り重なっていく。さっきまで聞こえていた隣の女子高生達の甲高い声はどこにいったのだろう。雑音が一切しない。そして、彼の言っていることは、どこまでが本当でどこからが嘘なのだろう。いや、わざわざ嘘をつきにカナダから帰国するわけがない。蒸気時計を使って、未来とか過去とか言った?悠斗君が病気になってしまう、とかなんとか、一体何を言っているのだろう。

「桜都ちゃん、何を言ってるんだと思っているかも知れないけど、本当なんだ。未来に行ってこの目で見てきた。このあと、悠斗は心臓に病気が見つかる。だから、早めに病院に行くようアドバイスして欲しい。あと、二〇二六年一月八日は、桜都ちゃんだけは絶対に病院に行かないで。自宅に居て。お願いだから」

「どうして?なにが起こるの?」

「今は言えないんだ。でもどうしてもその日は駄目なんだ。日付メモしてくれる?」

 とりあえず、頷いた私は、小さなショルダーバッグから手帳を取り出した。震える手でペンを持ち、その日付と病院には行かない旨を歪んだ文字でメモした。

 少し安堵した表情の岳君にまだ質問をぶつける。

「悠斗君は、治るの?」

 コーヒーを啜りながら、明らかに動揺している彼を見て、察してしまった。

「何年くらい生きられるの?」

「悠斗は移植を受ければ・・・」

 と言いかけて、岳君は口元を抑えてから頭を抱えた。まるで言い過ぎたと後悔しているように。

「とにかく、桜都ちゃん、今俺が言ったことだけは、守って。あと悠斗だけには絶対に言わないで。これだけは約束して」

 私は「わかった」としか言えなかった。岳君は、私に余計な事を聞かれないように足早にカフェから出て行ってしまった。

 随分一人で考えて、悩んでいたのかもしれない。彼の目には嘘はなかった。私は、岳君も優しい人だと知っている。周りから誤解されやすいかもしれないけれど、バンクーバーに留学中、慣れない生活で困っていた私をよく外に連れ出してくれた。そんな彼が、変な嘘をついたり、私を陥れたりしないと思う。

 世の中には、説明できない事や不思議な事があるというのは、物語が大好きな私の嗜好のネタだ。だけれど、だけれど・・・そんなことが自分自身に起こり、しかも一番大切な人の未来がわかるなんて、こんな酷な事はない。

 悠斗君が・・・心臓病にかかる。なんで彼なの?移植が・・・とか言っていた。そんなに重いの?あんなに今、元気にしているじゃないの。少し風邪気味というのはこの間言っていたけれど、それくらい誰だって・・・。

 私は、すぐに彼に電話した。

「悠斗君、最近健康診断行ってる?」

「うーん、去年会社でやったかな」

「それなら、すぐ行かないと。心配なの。最近ずっと咳込んでるでしょ?私の職場の人もこの間倒れて、あまり良くないみたいなの。だからお願い。心配だから、一度病院で見てもらって」

「うん、わかった。あ、ごめん、ちょっとお客さん、切るね」

 最近の悠斗君は本当に忙しそうだ。

 私と一緒で予定通りに事が進んでいないみたいで、普段穏やかで温厚な彼からは想像し難いけれど、イライラを感じとることもあった。もう四年以上一緒に過ごして来たけれど、そんな姿を見るのは初めてだった。

 その後、何度も病院に行って欲しいと頼んだが、思うような返事が返ってこず、歯痒い日々が続いた。

 私も仕事で多忙を極めていたのもあり、疲れ切っていた。仕事から帰り、ご飯も食べずに泥のように眠り、週末は悠斗君のお店も手伝わずに、家に引きこもるようになった。

 もし彼が近い将来いなくなったら、私はどう生きていったら良いのだろう。彼に依存している自覚は全くなかったが、彼がいなくなったら、たぶん生きていけない。息を吸えるだろうか。あんなに私のこと大切に想ってくれる人は、他に現れない。たった一人の愛してる人。そんな人がいなくなるのならば、いっそのこと・・・もう私も先に・・・。

 まだ起こってもいない不幸を想像するだけで、涙がとめどなく溢れ出す。

 不安で不安で仕方がなかった。

 だんだん、胸の痞えがひどくなり、好きなご飯もスイーツも喉を通らなくなった。会社も行ったり休んだりで、新人の教育担当も外れた。しばらく、有休をとりなさいと会社から指示を受けた私は、日々汚くなっていく部屋をカーテンすら開けずに、枕から一日中眺めていた。


 そんな日々が続いていたある日、チャイムが鳴る。玄関から悠斗君の声が、かすかに聞こえる。こんな自分を見せたくなくて鍵を開けるつもりはなかったけれど、咳込んでいる様だったから、心配になり致し方なく部屋の中に入れた。

 目の前にいる彼は私を見て何を思うのだろう。

 電話しても出ない、メッセージもそっけない。仕事も行ってない。身なりも部屋も汚い。もう何もかもぐちゃぐちゃ。

 こんなにだらしない私に構っている暇があったら、自分の体を心配して欲しい。早く病院に行ってよ、大変なことになる前に。私に構わないで。前を向いているあなたに私はそぐわない。


 次の日の朝、スマホの着信が鳴る。会社からかと思ってどきっとしたが、スマホの表示は美月だった。充血した目をつぶりながら、電話に出る。

「もしもし」

「桜都、久しぶり。なんか元気なさそうね」

「うん、ちょっと・・・」

「ちょうど良かった。私も実は元気なくって。どこか旅行しない?日帰りじゃなくってちょっと遠く、普段行かない所まで行って」

「うーん、そうだなぁ・・・なんか動けないかも・・・」

 美月の声を聴いていたら、自然に涙が溢れ出てきた。

「どうしたの?私、迎えにいくよ。仕事いつ休み?」

「もう、ずっと休み。なんかしばらく休んで良いって会社から言われて」

「すぐ迎えに行く!」

 約四十分後、息を切らした美月が玄関前に立っていた。

 堰を切ったように、流れ出す私の涙。子供の様で恥ずかしいと思ったけれど、美月の「もうなんで相談しないのよ。声で落ち込んでいるのバレバレなの!」という言葉で、安心したのかもしれない。美月なら助けてくれると。

「今話す?それとも温泉に浸かりながら?」

「頭の中整理したいから、温泉に行ったら聞いてくれる?」

「うん、もちろん。それなら準備して!パンツとブラはどこ?」

「そこの引き出し・・・」

「服も勝手に選んじゃうよ。桜都は、歯磨きと顔洗っておいで。化粧も私がしてあげるから」

「はい」

 私は美月に言われるがまま、洗面所に行った。鏡に映る私のひどい顔、昨夜こんな顔を彼に見せていたのか。本当に恥ずかしい。彼は冷たくしてごめんね、と言っていたけれど、私の方が冷たくしていた。自分の問題なのに。

 洗面所で支度している間に、一泊分の服の準備を済ませ、部屋のゴミも片づけてくれた美月。そして、私のお化粧と髪のセットをしてくれながら、明るく話す。

「可愛くしたら、少しは元気でるよ」

「うん、なんか美月ってお母さんみたい」

「もう、お姉ちゃんでしょ!」

「そうだね、ごめん」

「今日行くところはね、湖の側の旅館だよ。夜は花火も見られるよ。ご飯食べる前に温泉入って、花火見た後もまた温泉入ろう!」

「美月ありがとう。今日来てくれなかったら、私・・・」

「何言ってんの。私の愚痴もちゃんと聞いてよ。もうむっかつく上司がいるんだから!一泊じゃ足りないかも」

 出来たよ、と私を姿見の前に連れて行ってくれた。あんなにひどかった顔が、人前に出られるまでに変わった。持っていないお高い化粧品と美月の技によって。

 電車とバスに乗り継いだ私たちは、チェックイン開始時刻と同時にフロントに行き、部屋へ直行した。

 和洋室の部屋には、大きな窓があり、洞爺湖が一望できる。ここから見える花火はとっても綺麗だろうな。

「お部屋取ってくれてありがとう」

「ちょうど今朝予約サイトみたら、この部屋突然キャンセル出たみたいで、『先に予約ボタンを押せるのは誰だ!当日早い者勝ち割』だって。面白い発想だよね。そんな文章書かれたら、誰よりも早く予約しなくちゃって、すぐこの旅館に決めちゃった。予約確定した時ものすごく嬉しくって。やった!勝ったぞ!って。言葉一つ変えるだけで、相手を魅了できちゃう。一種の魔法だよね」

「そうかも。言葉一つで、相手に一生残る傷を負わせたり、逆に感動させたり。本当に魔法なのかも」

「よし、温泉入ろうか。最近上司にむかつきすぎて、甘いものばっか食べてたら、三キロも太っちゃって。桜都、私のお尻あんまり見ないでね」

「え、そんなこと言われたら、逆に見ちゃうよ」

 笑いあう私たち。久しぶりに笑った気がした。懐かしいこの感じ。いつもくだらないことを話して、笑いあっていた大学生の頃。いつのまにか、社会人になってからは、大人っぽい振る舞いが求められ、こんな風に笑うのがなくなっていた。お互いどんどん忙しくなり、会う頻度も少なくなり、久しぶりに会えてもランチする程度になっていた。今日、美月に会えて心の底から嬉しい。

 早めの時間の温泉は、人が少なくてゆったりと入れた。

「で、どう?頭の中整理できそう?」

「うん、まず何から話そう・・・沢山あるんだけれどね」

「うん、ゆっくりでいいよ」

 会社で新人教育がうまく行かない事、本が出版できないこと、「自分はいい人ではなく人がいい」と言われたことを拙い言葉で話した。

「は?何その子、生意気だね。先輩に対して使う言葉?何様なんだよ。桜都も言い返していいんだよ。ちょっと練習してみな!」

「え、こうかな?『ちょっとあなた!生意気なのよ!誰に向かって口を聞いてるの!私を誰だと思ってるの!』こんな感じかな」

 と目を見開きながらやってみた。

 あはは、と水面をたたきながら笑うものだから、私の顔に水しぶきがものすごくかかってくる。

「桜都がそんなこと言ったら、みんな笑うよ」

 涙を流しながら笑う美月に私もなんだか笑えてきた。

 そっか、笑える内容だったのかもと気づいた。これで、完全に話のネタになった。

「あと、他にもあるんじゃない?」

「美月って、やっぱりエスパーなの?」

「何言ってるの?わかりやすいのよ、桜都は。悠斗君がらみでしょ。そうじゃないと、そんなに落ち込んだりしないでしょ」

「うん、ここからはどうやって説明しよう・・・」

 言葉より先に涙がこぼれ頬を伝っていく。

「悠斗君あんまり長生き出来ないみたい。心臓移植が必要になるくらい重い病気なんだって」

「え、そんな・・・」

 思いもよらない私の言葉に愕然とする美月。未来とか過去とかそんな話は伏せておくことにした。あと例の日付の件も。

「だから、私離れた方がいいのかもって。たぶん彼がいなくなったら、生きていけない。それなら知らない方がいいし、彼にも私が側にいると逆に困らせるのかもって悩んでいたんだけど、間違えてた。私」

 うん、と涙を浮かべながら、私を見てくる美月にこう続けた。

「そばにいてあげないとね。というかそばにいたい。時間はあまりないの。きっとあと数年かもしれない。なんか美月と話していたら、なんでも出来る気がしてきて。それに、このすっごい景色。きっと私たちが生まれる前からここにあるんでしょ、この湖。この大きな湖に比べたら、私たちの悩みなんてほんのちっぽけな物かもしれないなって」

「そうかも。こんなこと言うべきじゃないかも知れないけれど、もしも悠斗君に万が一のことがあっても、私がいるよ。桜都は、私が守ってあげるから大丈夫」

 と私に抱き着いてくる美月。なんだか泣いたり笑ったり今日は忙しいな。

 沢山のお菓子を買い込んで、花火を見る準備を整えた。

「もう、バイキングであんなに食べたのにね」

「デザートは別腹でしょ」

「デザートもバイキングで食べたけどね」

「別腹は、何個もあるの」

 部屋の電気を消すと、大きな窓は、キャンパスになった。ころころと表情も色彩も変化し続ける不思議なキャンパス。初めは中心部に小さくて可愛い光が散ったが、後半になるにつれて大きく迫力のある光に変わり、やがて儚く消えていく。約二十分間、終わって欲しくない、ずっと見続けたいと願った。

 花火に見惚れていた為、あれだけ買い込んだお菓子に手を付けたのは花火が終わってから。

「すごかったね、桜都。また、絶対来ようね」

「うん、二人でね」

 布団に寝転がり、美月の上司の話になった。

「あの偉そうな上司、いつもミスを私のせいにしてくるの!本当に腹立つんだから。いつも数字間違えてるし、適当な仕事してるのそっちじゃないの!」

 美月の口はとまらない。

「そして、あの男、不倫してるのよ。なんか家族の事とか一切話さないなって思ってたら、そういうことだったみたい。世の中には奥さんすら大事に出来ない人がいるのよ。桜都は、悠斗君に浮気とかされたことないの?」

「うーん、ないかな」

「そんなに長く付き合ってるのに?」

「うん、心配になったことはあるけど信じてる」

「ほー、愛し合ってるね。私なんて何度浮気未遂されたか。今付き合っている人は、そんなことないから、長続きしそうだけど。やっぱり、大事にしてくれる人がいいよね」

「うん、そうだね」

 そんなこと話していたら、思い出した。


 ガラス細工のワークショップを始めてから、若い女性が来るようになり、彼が熱い視線を受けているのを感じたことがある。実際強引に電話番号を渡されているのを見たことがあるが、彼はそれをすぐに破ってゴミ箱に捨てていた。私の目の前だからそんなことしたのかな、とも不安に思ったが違った。

 あれは、買い出し中に財布がないのに気づき、店に引き返した時の事。

「どうしよう。ドキドキしてきた。夕飯くらい別にいいよね」

 若くておしゃれなお姉さん二人組が私の前を歩いている。冬用のコートを着ているが後ろ姿だけ見ても都会的な雰囲気。その二人は彼の店へと入っていった。なんとなく店に入れなかった私は、会話を盗み聞きしてしまった。

「昨日はガラス細工楽しかったです」

「こちらこそ、ご来店ありがとうございました」

「もしよければなんですが、夜ご飯行きませんか?」

「あ、ごめんなさい。彼女と食事の約束をしているので・・・ごめんなさい」

「じゃ、来週とかどうですか?私たちまだ一週間くらい小樽にいるので」

「いえ、本当にごめんなさい。大切な彼女なんです」

「へぇ、どんな彼女さんなんですか?」

「優しくて真面目で可愛くて・・・」

「そんなに可愛いんですか?」

「めちゃくちゃ・・・」

「そんなに真面目に生きなくても良くないですか?食事だけですよ」

「それが僕のモットーなんで」

 出口側に来るブーツの音を聞いて、とっさに店から離れた。

 時間を置いて財布を取りに行った私は、彼の後ろから抱き着いた。

「どうしたの?」

「なんとなく」

「店、一時間早いけど予約も入ってないし閉めることにした」

「どうして?」

「桜都が火をつけたんだよ。買い物も明日でいいから」

 

 悠斗君が恋しくてしょうがなくなった。今度しっかり謝ろう。

「ねぇ、桜都みて。上司の顔ってね、こんな顔なんだよ」

 指さす先には、ベッドサイドのメモ帳に幼稚でへたくそな人物画が書かれていた。

「こんな『へのへのもへじ』みたいな人いるの?」

「本当にこんな顔なんだってば。今度、桜都に紹介するよ」

「いいよー」

「え、それはオッケーのいいよ?」

「違うよ。逆に決まってるでしょ」

 あんなに荒んでいた心は、美月の無邪気な性格によって、ほぐされていった。


 温泉旅行から帰った次の日、意を決して、出社することにした。みんなどんな顔しているだろう。担当していた仕事の引継ぎもせずに急に来なくなったのだから、きっと怒っているだろうし、無視されても仕方がない。

 職場のエントランス前まで来て、足がすくむ。乾いた口の中の唾液を必死で集め、唾を飲んだ。社員証をかざし扉を開け、自分の席に向かう。そこで、待っていたのは、思いがけない雰囲気だった。

「双葉さん、お帰り。待ってたよ」

「双葉ちゃん、お帰り。貴重な私のライバルなんだから、居なくなったら困るよ」

 上田課長や同期が声を掛けてくれる。

「ほら、あなたもなんか言うことないの?遠藤さん」

「あ、すみませんでした。なんかいつも迷惑かけていたせいですよね」

「いや、遠藤さんのせいじゃないの。プライベートでも色々あって」

「ちょっと、二人で話せますか?」

 ミーティングルームのブラインドを下ろし、遠藤さんの向かいに座った私は、少し構える。

「あの、本当にすみませんでした。私、愛想もないし、よく態度も悪いって、怒られるんです。でも、自分ではそんなつもりなくって。悪気もなくって。あと、人の気持ちを汲むのが苦手で、無神経な発言とかもしょっちゅうしてると思うんです。双葉さんは優しいから、怒ったりしてこないから、最近は自分大丈夫かもって勘違いしていました。先日、上田課長に怒られて気づきました。双葉さんのこと馬鹿にしてないかって。教えてもらう態度ではないぞって」

「そうだったの。でも、本当に遠藤さんのせいじゃないの。他にも色々な事が重なって・・・私なんてメンタル弱すぎて嫌になる。でも、今日みんなに温かく迎えてもらってすごくほっとした。今やる気に満ち溢れてるかも」

「よかった。また、ランチ一緒に行ってくれますか?」

「もちろん」

 彼女もまたきっと悩んでいたのだと気が付いた。私は、相手の気持ちを考え過ぎてしまう。逆に彼女は人の気持ちを理解できない。どっちも辛い。足して二で割ったらちょうどよくなりそう。ということは、意外に仲良くやっていけるかも。

 教育担当は、今まで一人専任で行うという制度だったが、全員で掛け持つことにルール変更された。

 

 肝心の悠斗君の方だけれど、ちゃんと謝った。

「悠斗君・・・本当にごめんね、私の方がおかしかった。元の私たちに戻れる?」

「桜都、僕たちなんかあったっけ?」

「ふふ、なんもないかも。ありがとう。ね、病院行った?」

「あ、うん。なんか大学病院の方行くように紹介状渡されてさ。来週にでも行こうと思う」

「もう!明日行かないなら、もう二度と会わないから」

 それからどんどん明らかになっていく悠斗君の病状。岳君の言っていた通りになっていった事で、疑心暗鬼だった事が確信に変わっていく。

 そして、考えないようにしていた例の日付の件を岳君の発言と照らし合わせて、もう一度

深く推察してみる。


『二〇二六年一月八日』

 この日絶対に病院に行くな、と岳君から言われた意味は何だろう。悠斗君の身に危険が及ぶというより、私の身に何か起こると仮定する方がしっくり来る。そして岳君はこう言っていた。

「移植すれば・・・」

 と。その直後に、発言したことを深く後悔しているように感じた。

 移植とは、すなわち誰かの心臓を貰うということ。誰かが死ぬ。もしかしたら、その誰かは私?二〇二六年一月八日、病院で私はどうなるの?病気?先日の健康診断で特に引っかかる項目はなかった。いや、岳くんは「家に居て」と言っていた。ということは、なんらかの病気で病院に運ばれるとかじゃない。自らの意思で行く場合は、なぜなんだろう。それはわからない。けれど、病院に自ら行き、なんらかの事があって死ぬ。病気じゃないとすると事故か殺されるかで。だから、その日病院には行くなと、そういうことだ。

 実のところ、もっと前から、そうではないかと察しは付いていた。必死で蓋をしていたのだ。本を読むのが好きで、考察するのも空想するのも得意な私。こんな所で役に立つなんて。

 でも、そういう未来もありなのかも。悠斗君になら、なんでもしてあげたい。変わってあげたいって思っている。私の心臓を、悠斗君にあげられたら、彼は夢を叶えられる。ここ最近、ふさぎ込んで、私と目を合わせさえしてくれない。こんなの辛すぎる。彼の辛さが想像できて、本当に辛い。私の心臓なんてあげてもいいのに。

 心臓移植を待つ患者は、ドナーが現れるまで何年も待つというのは、ニュースか何かで見たことがあった。ドナーが現れるのかわからない、現れるまで生き延びられるのかわからないなんて不安しかない。彼の病気について色々調べるうちに、親族優先提供という文字を見つけた。そこには『婚姻届を出していること』という条件があった。事実婚では駄目らしい。結婚したら、悠斗君にあげられるんだ。

 結婚。二人の間で具体的にその言葉が出たことはなかった。だけれど、日々の会話で、将来の妄想をしている時は本当に楽しかった。

「一緒にペンションで働けたら、嬉しいな。それまで経営を安定させておくから」

「ずっと一緒にいて飽きないの?寝ても覚めても一緒だよ」

「え、飽きる?こんなにどんどん好きになっているのに?ずっとくっついていたいけど、桜都は、もう飽きたの?」

 きょとんとしている彼の顔を見て、からかいたくなった。

「うーん、もっと遊びたい」と嘘ついてみた。

「え、何か不満なの?サプライズが足りないのかな?最近、服装も手抜いていたからかな?もしかして、オジサン臭する?」

 自分のティシャツの胸元を鼻に近づけ、匂いを確認する彼に「そんな訳ない、ごめんね」と言って抱き着いた。彼の膝にのって首元に鼻を寄せる。私は彼の匂いが好き。遺伝子レベルで合っていると感じていた。

 彼は、子供は女の子がいいな、と言っていた。

「ちょっと、わがままでおしゃまで、そんな子可愛くない?」

「うん、可愛いね。悠斗君に似て欲しい。きっと美人な子になるだろうな」

 そんな会話をする位だから、結婚は、悠斗君しか考えられなかった。きっと彼も同じことを思ってくれていただろう。だから、私から言った。「結婚してくれる?」と。きっと私から言わないと、彼は、結婚してくれなかった。だって、私の事を想ってあんなに冷たい態度を取り続けていたのだから。


      3


 ハルノトキをオープンさせてから、一週間後、悠斗君が倒れた。朝起きて、洗面所に支度しに行った時に鈍い音がし、駆け付けると床に寝そべっている彼がいた。

 手が震える。救急車は何番?落ち着け、落ち着け、それは警察の番号だ、もたつきながら、119をタップする。

 救急車の中では、手を握ることしか出来ない。

「大丈夫だよ」

 と言う彼のか細い声は信用できない。どうなるの?お願い一人にしないで・・・。

 結局、合併症とかではなく疲労による貧血との事だったか、大事を取っての入院中は、不安でしかなかった。だから、先生にお願いして、もう少し長く入院させて欲しいとお願いした。退院したら、きっと彼は、また無理をしてしまう。今は、私が頑張ろう。

 朝食の準備に職場へ行くタイミングで仲山くんと交代になる。仲山君は、とても頼りになる人だ。愛想も良いし、お客さんの要望に真摯に対応している。スタッフのリーダーでもある彼は、皆のまとめ役としていなくてはならない存在だ。

「奥さん、僕、見てきたんですよ。春野さんの仕事ぶり、一番近くで。一年入社が違うだけなんですけど、他の先輩とは比べ物にならない位、仕事熱心でした。営業なんで、色々な所回るんですけど、お客さんの隠れた要望とか推測できちゃうんですよね。人を喜ばせたい思いが強い人なんだなって。目標が明確で、それに向かってまっすぐで。僕もそんな人になりたいなって。だから、春野さんに誘われた時、すぐオッケーしちゃいました」

「ありがとう。仲山君がいなかったら、このペンションはオープン出来なかった。夫も私も仲山君のことすごく信頼しているの。いつも本当にありがとう。夜勤の日が多いけど、大丈夫?」

「全然、日光アレルギー持ちなんで逆に夜の方がいいんですよね」

「そっか、本当に体だけは無理しないでね」

「それは僕のセリフです。奥さんも無理しないで。病院にも通って大変ですよね。それに今は精神的にも・・・」

「うん、私は大丈夫。ほら、もう帰って帰って。電車来ちゃうよ」

 優しい言葉を掛けられると泣きそうになる。今は、泣いちゃ駄目。

 厨房へ移動し、朝ごはんの準備に取り掛かる。先日から、持田さんと一緒に作っている。今後の事を考えての事だ。

「お料理上手な持田さんならすぐお任せできます。私がいないときはお願いしても大丈夫ですか?」

「うん、もちろん。私作るのも食べるのも大好きだから」

「よかったです。私と一緒ですね。今は軽食しか出していないのですが、いずれはもう少し豪華にしたいんです。そうなったら、お力添えお願いします」

「もちろん。お役に立てたら嬉しいわ。若い夫婦が頑張っているんだもの、応援したいの、私」

 持田さんの温かい言葉が身に染みる。

 持田さんと私で野菜とベーコンをサイコロ状にカットし、トマト缶と一緒に圧力鍋で煮込んでいく。その間に、昨日から冷蔵庫の中で低温発酵させておいたドーナツを揚げる。

 大学時代にバイトしていた時は、ドーナツを揚げ、黄な粉をまぶすのが私の仕事で、生地の作り方は知らなかった。だから、ペンションオープン前にサワイベーカリーの奥さんに頼み込んで、生地の作り方を一から伝授してもらった。

 オープンして間もないのに、このドーナツがとても美味しいと口コミを頂くほど評判で、本当に澤井ご夫妻には頭が上がらない。

 甘めに仕上げた黄な粉を熱々のドーナツにまぶす。このドーナツは、思い出の味でもある。悠斗君と私の橋渡しをしてくれたような存在。この黄な粉ドーナツを美味しそうに頬張る彼の姿が脳裏に浮かんでくる。早く元気になって、やりたいことを好きなだけやって、どこにでも行ける体に戻って欲しい。

 朝食を配り終えたら、必要な部品や食材のチェックをしているうちにチェックアウトの時間になり、最後のお客様がカウンターにやってきた。

「鍵をお預かりいたしますね。ゆっくり眠れましたか?」

「もう、ぐっすりですよ。子供がかくれんぼしていて気が付いたんです。クローゼットの中とっても素敵ですね。他にも仕掛けがあって、また家族で来ますね」

「はい、ありがとうございます。お待ちしております」

 私は、何のことかわからなかった。五歳くらいの男の子にバイバイと手を振ったあとに、すぐ客室に駆け込んだ。今のお客さんは、エゾリスの部屋だ。クローゼットって言っていたよね?何のことかわからず、扉を開けてみる、そこには木製ハンガー数個と座って靴などが履けるようにと置いた小さなベンチがある。ん?何のことだろう。そういえば『かくれんぼ』って言っていたなと思い返し、中に入って扉を閉めてみた。

 完全に光が入らなくなったクローゼットの中で、無数の星たちが煌めいていた。これは、プラネタリウム?いや違う。きっと天狗山で見た星だ。天の川もちゃんとある。

 私の視界が意図せずにぼやけてしまう。頬を伝う涙をエプロンで拭いながら、ベンチに座る。ここに座ると、悠斗君と星空を眺めた日を思い出す。そっか、だからクローゼットの追加工事入れていたんだね。天狗山に行こうと誘ってきたのは、きっと思い付きじゃない。ちゃんと計画して、伝えたい言葉も考えていたのだろう。

 ねぇ、悠斗君、どんなことを考えながら、この星空を描いたの?

 きっと泣きながら、書いたんだよね。

 いつ、消えるかわからない命に怯えながら、怖くて怖くてたまらなかったでしょう。

 それなのに私の為に色々残してくれるの?

 もう他にいらないよ。

 本当は、ずっと一緒にいたい。

そういえば、さっきのお客さんは仕掛けがあるって言っていた。

 五歳くらいの男の子の手の届く距離、高いところにはないはず。テレビ台や洗面台の扉を開けても特にない。他には?そうだ。もぐれるところは?ベッド下は、ほこりが入らないように最初からふさいである。となると、テーブルの下だ。ローテーブルを持ち上げて、そっとひっくり返してみた。

 あった。

 ガラスで出来た星だ。テーブルの裏に星型の溝を掘り、そこに埋め込まれた星。これは、彼が作ったやつだ。だって、星なのに黄色とか金色ではない。紫色だったから。初めて私にプレゼントしてくれたブレスレットについていたとんぼ玉と同じ色。器用な彼が作ってくれた繊細な色彩。

 他の部屋にも行ってみる。雪ウサギの部屋のテレビ台の引き出し、キタキツネの部屋のベッドの足、エゾジカの部屋のサイドテーブルの裏。ガラスの星がこっそりとかくれんぼしていた。いつの間に作っていたの。こんなに、こんなにも沢山の愛情をくれるなんて、もう胸がいっぱいで張り裂けそうだよ。本当にいつも貰ってばかり。何も返せていない。私は悠斗君に何が出来るの?


「奥さん、おはようございます」

「おはようございます。橋谷(はしや)さん」

「今日もガラス制作ですか?」

「そうなんです。ちょっとアイディアが浮かんじゃって」

「まぁ、素敵。こんなに沢山。もしかしてサンキャッチャー?」

「そうなんです。窓辺に飾ると光を反射してとっても綺麗なんですよ」

「沢山ありますね。客室に飾るんですか?」

「いえ、客室に隠しておいて、お客さんに持って帰ってもらおうかなって」

「お客さんへの秘密のサプライズね。私おしゃべりだからすぐ話しちゃいそう。お口にチャックしておかないと」

 明るい橋谷さんは、そう言って客室清掃に取り掛かってくれた。橋谷さんは、几帳面でお部屋をいつもピカピカにしてくれる。

 そんな綺麗になった部屋のクローゼットの中の小さな引き出しに、サンキャッチャーをしのばせる。

 メモ書きも忘れずに。

『どうぞ、見つけた方はお家にお持ち帰りください』

 

 一通りの仕事を終え、ロビーの時計の針を確認する。もうそろそろだ。

 正面入り口のドアが開く音がした。岳君は、覚悟を持った真剣な顔で入って来た。私も同じだ。覚悟はできている。

「岳君来てくれてありがとう」

「うん、カナダからの飛行機の中でずっと考えてたよ。桜都ちゃんにちゃんと言わなくちゃって。例の日付のことでしょ。聞きたいのは」

「うん。実は、初めて聞いた時から、だいたいわかっていたの。私がどうなるのか」

「え、ちょっと待って。どこまでわかってるの?」

「たぶん私は・・・死ぬんだよね?」

 彼は、私の発した言葉に目を丸くし、雷に打たれたような顔をしている。

「俺、言ってないよね。詳しくは説明してないよね?」

「うん、でもなんか伝わって来たの」

「やっぱり桜都ちゃん凄すぎるよ・・・今日、『私どうなるの?』って聞かれると思っていたから。でも、話さなくちゃいけないって、思ってたんだ」

「うん、詳しく教えてもらっていい?」

「うん、桜都ちゃんの予想通りその日・・・」

「大丈夫。続けて」

「その日、鬼畜野郎に殺されるんだ。頭のおかしいやつでさ。頭殴られて。脳死判定された桜都ちゃんの心臓は、悠斗に移植される。もともとは違うんだ。ドナーがその日現れて、病院に行くんだ。でも、直前になって、ドナーの家族が拒否する。だから、俺は絶対に説得する。その家族を。悠斗がどれだけ素晴らしい人間かを説明したらわかってくれるかもしれない。いや、絶対にわかってもらう。だから、帰国してきたんだ。桜都ちゃんは、絶対に病院に行かないで。お願いだから」

「そういうことだったんだね、ありがとう。ずっと苦しかったよね。何年もきっと」

「桜都ちゃん、俺がなんで詳しく説明したのか、わかってるよね?俺は桜都ちゃんも悠斗も絶対守りたい。絶対守るから。悠斗は、このあときっとドナーが現れる。だから家に居てね。わかった?絶対だよ?」

 両手を握ってくる岳君の手は、冷たくて震えていた。

 私は「わかった」と反射的に答えた。


 悠斗君が退院できた。例の日は目の前だ。

 お正月は、せわしなく過ぎ、あまり私も考える暇がなかったと思う。ちょうどよかった。考える時間が十分あったら、おかしくなっていたかもしれない。自分の死ぬ日がわかるのって怖すぎる。わからない方が本当はいい。

 本当に私は、殺されるの?やはり岳君が見た未来とは、違う可能性だってある。別の時間軸のパラレルワールドが存在するとか言うし。

 怖い。やっぱり怖い。でもそれ以上に悠斗君のことを愛おしくてしょうがない。彼が退院してからも、家では、ずっと背中に抱き着いていた。

 彼と新婚旅行先のイタリアに行く。そうだ、アマルフィ海岸にあるポジターノに行きたいな。絵本の中に出て来そうな可愛くて小さな街。絵具を流したような青い海沿いにそびえる崖には、色とりどりの可愛らしい家が連なって、それがなんとも言えない絶景で、旅行雑誌で何度も見返した。そんな青い海とうっとりするような景色を見てみたい。あなたと手を繋ぎながら、日頃着ない明るい色のワンピースをそよ風になびかせて、花々が咲きほこる小道を抜ける。目を奪うような青い海が視界いっぱい広がって、それを見ながら、ランチなんて素敵でしょ。ランチの後は、お土産屋さんに行きたいな。カラフルでレモン柄の素敵な陶器のお皿なんかどう?ペンションの朝食に使ったら映えそうだな。

 そうだ、結婚式は?私のお気に入りのペンションのロビーの絵の前で本当に少人数でやるのはどうかな。入口から緊張した顔で父と腕を組んで入場すると、私たちの家族、澤井ご夫妻、ペンションのみんなや友人達、皆が温かく見守ってくれていて、その先には、かっこいいスーツでビシっと決めた悠斗君が父から私を託される。指輪交換をすると、みんなの拍手が聞こえてきて、永遠を誓い合う私たち。

 子供は、私たちのもとに来てくれるかな?女の子がいいなって言っていたよね?名前は、『すずちゃん』なんてどうかな?自分の名前がまだ言えなくて「すっちゃん」って自分の事呼んでいたら可愛いだろうな。

そんなことを彼の背中の後ろで一人、何度も何度も頭の中で想像した。

 私が死んだら彼はどうなるだろう。ひどく悲しむだろうな。そんなもんではないかもしれ

ない。自分の顔を鏡で見て、確かめる。あなたはどうしたいの?と。返って来た答えは、もちろん悠斗君を助けたい。それだけだった。ただ、愛している。それだけが口から何の迷いもなく発せられた。


 そして今、私の手の中には、彼から受け取った手紙がある。便箋一枚、封筒には入っていないその手紙の中身は見られずに、一人病院内で佇む。

 岳君はどこだろう。病院内をおぼつかない足で歩いていると、岳君が土下座しているのが見えた。

「だから、何度も言っているでしょ!駄目なの!孫は心臓がないと、成仏できないのよ!」

 年配の女性が語気を強めて叫んでいる。その横で、娘さんだろうか、涙を流しながら、謝っている。

「ごめんなさい。本当に。本人も望んでいて、私も一度は承諾したのにこんなことになっちゃって。おばあちゃんの宗教上の理由なの。本当にごめんなさい」

 そっか。そうなんだ。私は、肩で息をしながら思った。岳君の言っていた通りになったと。

 不謹慎なのは、わかっている。そんなのひどいじゃない。悠斗君は、希望を持って手術室に向かったのに、移植出来ない?何よ、今更。ひどい。もう嫌。彼がこれ以上傷つくのは、耐えられない。もう私しか彼を救えない。岳君ごめん、約束は守れない。

 

 頭を何かで殴られたのは、わかった。意外にも全く恐怖なんてなかった。彼との想い出が走馬灯のように見え、優しい両親の顔が浮かぶ。お父さん、お母さん本当にごめんなさい。

 あ、そうそう。用意しておいた臓器提供意思カードは?

 ちゃんと、右手にある。大丈夫。

 思い残す事?彼の手紙は?

 よかった。ちょうど目の前に開いて落ちている。

『宝物の桜都へ。ずっとそばにいて』

 うん、ずっと一緒にいようね。約束だよ。

 

 

 

 

 

 

  第八章  大切な人




      1


 ここからは、僕が時間を戻して、やり直してからの話。

 桜都が半年のカナダ留学に行っている間、バイトや自動車免許取得など前回と同じ道筋をたどった。彼女に会えないのは寂しいけれど、これも彼女の夢のため。ひとつひとつ叶えられるように、僕は、全力を尽くしたいと思っている。

 きっと、僕が人生をやり直して彼女の命を救うことが出来たら、僕自身の命はどうなるのだろう、と誰もが思うだろう。前回は桜都が命を懸けて僕のために心臓をくれたのだから、もしドナーが現れなければ、確実に僕の人生は終わるのだ。

 それでも、僕は彼女とまた結婚したいと思っている。

 無責任だと人々は言うだろう。

 ドナーが現れる前に僕の命が尽きたら、彼女はまだ若いのに未亡人だぞ、あまりに自己中心的ではないのか、と。

 また彼女と一緒にペンションをオープンさせたい。何より彼女との心地よくて和やかな日常は、一瞬たりとも忘れたくないほどに幸せだった。たった半年程だった結婚生活。互いに違う恐怖に支配され、怯えながら二人とも生活していたと思う。それでも、そんな恐怖を忘れるくらい、二人で夢を語りあったし、どれだけお互いが大事なのか、毎日毎日伝え合い、こんなに幸せなら、いつ僕の命が尽きても心残りは無い、と思えるほどだった。

 やはり、僕はかなり自己中心的なのだと思う。彼女との生活は、一種の麻薬のような物だと思っている。いっけんおとなしそうな彼女は、実は大胆で行動的で野心家。自分の夢は、はっきりしているし、苦手な事にも、緊張しながらも挑む。今回の留学だって、そうだ。踏み入れた事のない土地で、言葉や文化の壁にもぶち当たっているようだが、それでも、逃げることなく進む続ける彼女に、僕は付いていくのに必死なのだ。

 そんな彼女をどうして手放せるのだろうか。

 彼女の言動は、僕の足を動かす原動力になり、声を聴いていると心地よく安心してその日一日を終えることが出来、笑顔を見ているともっと喜ばせてあげたいと思うのだから。一度虜になってしまったものは、そんな簡単に手放せるはずがないのだ。

 そして、僕が彼女と結婚しなくてはならない大きな理由が他にもある。彼女の夢は、実は他にもあって、僕に語っていた物だけではないのだ。空想好きな彼女の中で温められていた夢。それを僕は知っている。日記などに記されていた訳でも、桜都の家族や友人から聞いた訳でもない。それじゃ、いったいどうして知っているのかって?

 それは、前回の人生で彼女の心臓が僕の心臓になった時、不思議な事が起こるようになって気づいた。

 僕は、桜都に会いたくて、お客さんがいなくなった客室によく入り浸っていた。エゾリスの部屋のクローゼット中の引き出しを開け、星のサンキャッチャーを取り出し、窓辺にかける。天気が良い冬の晴れた日、雪が解けはじめ、春が芽吹いてきそうな季節にどんよりと重い瞼で、サンキャッチャーが集めた光を眺める。部屋に広がる無数の輝きを見ていた時、部屋の扉が開いた。

「悠斗君、準備はできた?」

 そこには、青いワンピースを着た彼女が立っていた。普段着ないような濃い青、マリンブルーというのだろうか、綺麗な彼女の白い肌にそんな色が映えていて美しい。いつもアップにしていた髪の毛は、ボブくらいの長さに切られ、少し若々しく見える。

「もう、ボーっとしてないで、早く行こう!」

 と、僕の両手を引き、部屋の外に連れていかれる。温かく柔らかな手の感触。夢なら覚めないで欲しい、あと少しで良いから。

「桜都、生きてたんだね」

「悠斗君、何言ってるの?こっちのセリフよ」

 ちょっと色素の薄い瞳はやはり彼女だった。

 小走りで連れていかれた先には、ピンクやオレンジなど日本にはないような家が連なっていた。石畳の小道の両脇には色とりどりの花々が咲き誇っていて海の匂いと共に甘い花の匂いが通る。人ひとりがやっと登れるような石で出来た狭い階段を上がるうちに見えてきた。

「わぁ、すっごい景色。こんなに青くて綺麗な海ずっと見てみたかったの」

「旅行雑誌に載っていたけど、実際に見てみると、感動するね」

「悠斗君、連れてきてくれてありがとう」

「いや、桜都のおかげだよ」

 僕の口は、さっきから勝手に動いているようだ。そして、体から出ていたはずの管はどこだ?相棒のバッテリーもない。そういえば、あんなに小走りで階段を登って来たのに体は辛くない。

「あきらめないで待っていて良かったでしょう?今は、三人でこの景色が見られてよかった」

「うん、忘れちゃいけない。顔も名前も知らないけれど、大切な命を貰ったのだから、やりたいこと全部挑戦するよ」

「本当に、夢みたいなの。こんな日々がくるなんて。何度想像したかわからないよ。悠斗君の移植が無事に終わったら、やりたい事が沢山あったの。そんなこと贅沢だって思ってた。でも、今は、そんな贅沢で夢のような時間を過ごしている。夢なんて言わないでね」

「夢じゃない。こんなに暑くて、皮膚がヒリヒリと痛くなるような感覚、夢の中ではリアルすぎるよ」

 体が熱い。そして、力を入れて動こうにも体が言うことを聞かない。もう一度深呼吸をして目を開けるとエゾリスの部屋の白くてふわふわの布団に横になっていた。

 あぁ、夢か。でも体が熱くて痛かったのはとてもリアルだった。きっと窓からの日光を浴びながら寝ていたからだろう。

 しまった。交換済みだった布団カバーを涙で濡らしてしまった。馬鹿だな、こんなこと現実になんてもう二度と訪れないのに。一瞬だけでも本当に幸せな時間だった。濡らしてしまった布団カバーを外し、洗濯済みのものに変える。そうやって、また現実を突きつけられるのだ。 

 他にこんなこともあった。夢とはちょっと違う様な出来事が。

 最後のお客さんのチェックアウトを終え、力の入らない体をひとりロビーの椅子に預けていた時の事。後ろから、バタバタと走る音が聞こえてきた。大人とそれ以外にも小さなパタパタという音も。

「だめよ、ドーナツ持って走り回っちゃ!黄な粉だらけじゃないの!もう、すずちゃんは、パパそっくりね。お口もお鼻も黄な粉だらけなんだから」

 桜都だ。駄目よ、と言いながらも幸せそうに微笑む彼女は、ハンカチで小さな子の顔を拭いてあげている。

「すっちゃんね、パパそっくりでうれちい。パパだいしゅきから」

「うん、ママと同じね。ママもパパだいしゅき」

 おでこをくっつけ合い微笑んでいる桜都と小さな女の子。

 この女の子は誰だろう。

「誰だ誰だ?そんなにパパの事が好きなのは。後ろから聞いてたぞ」

「パパ、パパ!すっちゃんだっこ!」

 ひょいっと小さな体を抱っこしているのは、紛れもなく僕だ。目頭がさがり、すっちゃんという女の子にメロメロなのがよくわかる。

「すずね、まだすずちゃんって自分のこと呼べなくていつも『すっちゃんね、あのね』って言うもんだから、みんなからあだ名は『すっちゃん』で良いねって言われているの」

「うまく言えないところが、可愛くて直したくないよね、あぁ、大きくなって欲しいけど、ずっと小さいままで居て欲しいな」

「もう、矛盾だらけね」

 桜都と僕は、いつもどおり仲睦まじい様子で話している。その後、白く靄がかかり親子たちは消えていった。

 これは、夢か?いや、僕は、ロビーに置いてある背もたれの高い椅子に全身預けてはいるものの、目はしっかり開いていた。まるで、目の前で演劇が始まったかのようにリアルだった。

 僕らに子供はまだ生まれていなかった。子供は欲しいな、女の子がいいな、なんて言っていたが、名前までは考えてもいなかったし、桜都から聞いてもいなかった。

 これは、僕の願望が見えたのだろうか?桜都に会いたくて会いたくて、そういう想いが幻覚となって現れたのかもしれない。もう僕には訪れない幸せな家族の光景。他の人と結婚なんてまずありえないし、桜都じゃなきゃ駄目なんだ。だから、彼女を失った僕には、そんなきらきらした生活はやって来ないのだ。

 そう思ってはいたのだが、次の出来事で確信した。僕の願望が幻覚になった訳でも夢に出てきた訳でもないということを。

 ロビーのお土産コーナーの棚を仲山君と整理していたときの事だ。

「ここに、奥さんの絵本置きたいって、先輩言ってましたよね。今からでも作れませんか?」

「うん、そうだね。でも原稿とかどこにあるんだろう」

「奥さん、何かにメモしてないんですかね?」

「そうだよ、仲山君。ちょっと探してくる」

 彼の一言で、桜都はタブレットにアイディアを記入していたことを思い出した。

 走って、アパートに戻り、彼女の私物の棚に置いてあるタブレットを見つけた。彼女の私物を見ると胸が張り裂けそうだ。パスワードは?誕生日?いや結婚記念日?どれも違う。わからない。そのうちロックがかかってしまった。

「どうして、こう何もかもうまく行かないんだよ」

 冷えたフローリングの床で正座しながら、頭を抱えるしかなかった。目を閉じて心を落ち着かせよう。

 そのときタイトルと共に文章が浮かんできた。



『小さな窓から』

 私のお気に入りの小さな家の小さな窓。

 そこを覗くとひらひら白い結晶が舞い降りてきました。

 あぁ、今年も会えたわ。

 私は走って、小さな扉を開けて、外に出ました。

 お辞儀をすると、私の前に白いケープを被った女の子が現れました。 

 今年も来ちゃった。

 真っ白な頬を赤く染め、にっこり笑うその子は、雪の妖精さんです。

 私の部屋は、暖炉の火で暖かいのでその子を招き入れることが出来ません。

 代わりに、冷凍庫から白いアイスを持ってきて妖精さんをもてなします。

 寒くて、凍えそうな気温の中、妖精さんは私に質問をしてきます。

 どうしていつも私に優しいの?みんな寒くなるのは嫌って言っているよ。

 私は迷わず答えました。

 雪はとてもきれいでしょ。

 あなたが来ると街はきらきら光るの。

 寒くたって、踊りだしたくなるくらい胸が弾む。

 冬は、窓から見える雪のようにゆったりダンスをするの。

 

 春も夏も秋もみんな素敵なのよ。


 春は、お花がいっぱい咲いて心がぽかぽかするの。

 人差し指を口に当てて静かに窓からのぞくの。

 今日はどのお花が咲くのかなって。

 

 夏は、こんがり熱い太陽を見るとやる気が出るの。

 朝、窓からいっぱい日差しを浴びて鏡をのぞくと

 私の顔がきらきらしているの。


 秋は、美味しい野菜や果物が沢山でお腹も喜ぶの。

 甘くて赤いりんごの匂いが窓を開けると部屋の中にも入って来て

 黄色いカボチャのスープとアップルパイでディナーをする。


 だから、みんな必要なんだよ。

 一人でも欠けたら、悲しいな。

 雪の妖精さんは、またにっこり笑ってまた来るね、と言いました。




 これは、なんだろう。僕の記憶ではない。

 雪が降る小さな村で女の子と雪の妖精。寒そうな景色の情景が目に浮かんできた。まるで、絵本の中にいるような不思議な感覚だった。

 僕は、ここでようやく気が付いたのだ。これは、僕の記憶や考えではないことを。

 桜都の記憶だ。

 想像力豊かで、空想好き。きっと彼女はいつも絵本の内容を自分が見た景色などから連想させていたのだろう。しかもこんなに鮮明に写せるなんて、彼女の頭の中はどんな風になっていたのだろう。

 記憶は、全て脳に宿ると思っていた。なにかのテレビ番組で移植後にドナーの記憶や趣味が転移されるなんて話を見たことがあったが、そんなはずないだろうと思っていた。きっと、どこかでドナーの情報を得ただけじゃないのかと疑っていた。だが、そうではないことがはっきりした。

 僕には、こんな豊かな才能はない。心が温かくなるようなふんわりした文章なんて思いつかないし、情景も思い浮かばない。

 ということは、これまで夢や僕の願望と思ってきた不思議な現象も説明がつく。

 桜都が思い描いてきた夢、やりたいこと、絵本として出版したい内容、それらを心臓を通して僕に見せているのだ。

 僕は、さっきの文章をノートに書き、サキちゃんに送った。僕のへたくそな絵とともに。

「わかりにくいかも知れないけれどこんなイメージで挿絵を描いてほしい」

「うん、大丈夫。桜都ちゃんのイメージで描いたら出来ると思う」

 サキちゃんは、電話口で泣きながら承諾してくれた。

 もっと早く出版してあげたら、良かった。ペンションの売り上げでとか言ってしまったけれど、借金してでも出せばよかった。

 馬鹿だな、本当に。

 そう思って、時間を戻す前の僕は、色々な面で後悔ばかりしていたのだ。

 桜都の文章と岳に頼んだ翻訳文、サキちゃんに頼んだ挿絵を自費出版会社に送り、振り込みも済ませ時間を戻してきた。元の人生での時間軸は、僕が時間を戻してからも進み続けているのか、それとも消えてなくなるのかわからない。万が一、前者であっても桜都の絵本出版の夢だけは叶えられた。本当なら、桜都にその本を自分で出版させたかった。涙を浮かべてやり遂げた顔が想像できるから。

 でも、これからは彼女の夢を全部やろう。

 だから当初決めた計画は、全く間違えていたのだ。彼女の人生に関わらない、なんていうのは、彼女の夢と遠く離れている。僕には彼女が必要で、同じように彼女にも僕が必要なのだということがようやくわかった。

 時間もたっぷりあるのだから。ここからは、綿密な計画を立てて、桜都が頭の中で思い描いていたこと全部やりたい。


      2


 大学の帰りに、自動車学校での技能教習を終えた後、岳からメッセージと写真が送られてきた。

「元気?桜都ちゃんとジェラート食べたよー。元気に過ごしてまーす」

 ピースしている岳の隣で、ふいにカメラを向けられびっくりしてる桜都が映っていた。この写真を見るのは二度目だ。初めて見たときは、あまりちょっかい出すなよ、とやきもちに似た感情を抱いていたが、今は違う。二人が平和にジェラートを食べているなんて、心底嬉しい。

 続けて、こんなメッセージが届く。

「悠斗、俺が航空券代出してあげるから、バンクーバーに来なさい。すぐパスポートの準備をするんだ!」

 ん?このメッセージは、前回の人生では受け取っていないぞ。僕は、桜都の留学中に邪魔したくなかったから、会いに行くことはなかったのだから。

「いや、いいよ。せっかく留学中なんだから、俺の事は忘れて謳歌してなよ」

 と返した。

「いやいや、バンクーバーすごく楽しいぞ。多国籍国家だから、世界各国の料理が食べられるし、色んなものが日本と違う。桜都ちゃんにはサプライズにしたら?きっと喜ぶよ」

「いや、ストーカーみたいだから、それはやめとく」

「パスポートは一週間くらいで出来るみたいだから、明日申請するように!しっかり十年のやつ申し込むんだぞ!」

 十年か・・・生きられるかな。そっか。岳は、俺の事を気にかけているのか。

「わかった。明日申請するよ。航空券代はちゃんと自分で出すよ」

「よし!旨いピザおごってやるよ!」

 僕は、親指を立てたキャラクターのスタンプで返信した。

 英語は、苦手だ。けれど、二人からの留学話を聞いて行ってみたいな、と前回の人生でも少し思っていた。日本とは何が違うのだろう。今回の僕の人生はあまり長くないかも知れない。

 それなら見てみたい。違う景色や文化を。

 

 バンクーバー空港に降り立つと大きなトーテムポールが二本立っていて、英語が普通に飛び交っている。様々な肌の色、髪の色、服装など見ても十人十色で似通った雰囲気の日本人はあまり見かけず、異国に来たのだなと感じた。

 さて、二人はどこだろう。迎えに来てくれているはずだ。

 画用紙に『We love Yuto Haruno』と書かれているのを発見した。その画用紙に顔を隠しているようだが誰かもうわかっている。僕はその画用紙男には目もくれずに一目散に隣の人物とハグした。

「桜都、3か月ぶりだね」

「うん、久しぶり」

「おいー!俺の前でいちゃつくなよ」

 と言いながら、岳は僕にハグしてきた。

「お腹空いてる?」

「めちゃくちゃ空いてるよ。飛行機の中でずっと寝てたから、機内食食べ損ねちゃってさ」

「よし、グルメツアーに行くぞー」

 二人に連れられて、ダウンタウンまでやって来た。見るもの全てが新鮮だ。ガラス張りのビルが立ち並んでいるがレトロなレンガ調の建物もあり、近代的な雰囲気と古くて質の高いものがとてもマッチしていておしゃれだ。街ゆく人は、コーヒーを片手に持ち、ゆったりと歩いていて、せかせかしている日本とは違う。

 一件目に入ったのは、ピザ屋だった。

「ここすごく安くてさ。ワンピースだけでも満足するんだよ」

 運ばれてきたピザを見て、驚いた。ワンピースしか頼んでないのに、日本のホールピザSサイズくらいの大きさがある。それと炭酸ドリンクセットで五ドルかからなかった。

 桜都も頬張りながら食べている。美味しいね、と目で合図を送って来た彼女。あぁ可愛い。

「おいおい、見つめ合うなよ。俺、完全に邪魔者じゃん。でも二人きりにはさせないからな」

「せっかくなんだから、三人で楽しもうね」

「俺は、桜都と二人でいいんだけどな」

「照れるなよ、俺にも会いたかっただろ?」

「油まみれの手を肩に回すなよ」

「本当に仲良しね。私の方が邪魔者かも」

「そんなことないよ。ただの腐れ縁」

「思い返せば、俺らも十年以上の付き合いなんだぜ。桜都ちゃんより悠斗のこと詳しいからね。桜都ちゃんさ、二人が付き合う直前の悠斗が冷たかった時の事なんか聞いてる?」

 ううん、と首を振る彼女の耳を急いでふさいだ。

「余計な事いうなよ」

 だが、岳は耳をふさいでも聞こえるだろう声量で続ける。

「あのね、悠斗君はね、桜都ちゃんのこと相当好きだったみたいで、興味ないとか言ってたくせに大学の図書館で勉強するふりしながら、桜都ちゃんの事ずっと見てたんだぜ。それを俺は、ずっと悠斗の後ろから見てた」

「いるなら、話しかけろよな。気持ち悪い」

「気持ち悪いのお前だろ。桜都ちゃん、こんなストーカー彼氏で大丈夫?」

 口元に手を当てて笑っている彼女はどう思っただろう。

 確かに、ストーカーっぽいよな、と自分でも思う。でも彼女はこう言った。

「私、ストーカー彼氏、結構好きかも」

「もう喜んでいいかわかんないよ、桜都」

「ごめん」と笑う彼女はなんだか嬉しそうだ。

「よし、次行くぞ!」

 次は、おしゃれなカフェに連れてこられた。よくわからないが、チーズケーキが有名らしい。チョコ、ラズベリー、ライム味のチーズケーキを岳が頼み三人でシェアする。

 やはりここでもワンピースが大きい。しかも横には生クリームがこんもり盛られている。

 横を見ると幸せそうな顔をしている子がいる。桜都は意外にも食に貪欲な子だった。そういえばカナダから帰国してきた時、少し丸くなって帰って来てたっけ。そりゃこんなに高カロリーの食事ばかりしていたら、しょうがない。彼女がこんなに幸せそうな顔している方が嬉しい。

「悠斗は、今日俺の部屋な。桜都ちゃんの部屋は男子禁制だから、一歩たりとも入らないように」

「わかってるよ。よろしくな」

「岳君の部屋の子たちは、最近どう?」

「相変わらずだよ。やっぱり色んな国から来てる奴が多いからさ、深夜に家族と電話してて、しかも声がでかいんだよな。気遣いとか知らないのかも。ま、こっちも気つかわなくていいから楽っちゃ楽だけど。でも、本当パリピが多いから、トイレだけはいつも汚い。だから、わざわざ一階まで行ってロビー横のを使ってる。ごめんね、食事中に」

「日本の良さが本当に身に染みるよね。共同の物は綺麗に使う習慣があるし、ゴミもポイ捨てしないもんね」

「岳は、卒業後どうすんの?やっぱり海外?」

「うーん、迷い中。日本も海外もそれぞれ良いところあるんだよね。日本はどこ行っても綺麗だし、治安も良い。けれど、まだ色々遅れてる考え方とか制度があるよね。こっちは、ジェンダーの問題ももっと受け入れられているし、仕事面でも年齢とか関係ない。実力主義だって聞く。ま、自分が何をしたいのかもわからないから模索中だな。二人とも夢がはっきりしているから、本当すごいと思ってるんだ。なかなかやりたいことって見つからないもんだよ」

「うん、そうかもね。でも岳君は、英語をこんなに話せるってだけでも武器だよね。あと、どんな人とも仲良くなれるスキルがあって。私にはないから、すごく羨ましいな」

「なんだよ、照れるな」

 ふふ、と笑う彼女と岳を見ていて、脳裏に悲しい情景が浮かぶ。心臓病になってから、彼女がいつも涙を流していた時の事。岳が僕に必死で謝って来た時の事。

 絶対そんな未来にはしない、僕が二人を守ると思いながら、甘いチーズケーキの最後の一口を苦いコーヒーと共に胃に流し込んだ。


 夜、岳の部屋で、ルームメイト数人と挨拶を交わした。色々話しかけられたが、とりあえず「Yes」「Thank you」のみで通じたようだ。彼らに北海道土産のホワイトチョコサンドクッキーを渡すといきなりハグされた。どうやら海外でも人気のお菓子らしい。改めて自分の出身地が誇らしくなった。

 シャワーを浴びさせてもらったあと、岳と二人で真剣な話になった。

「桜都ちゃんには、何か話した?」

「いや、何も話せていない」

「そっか、確かになんて言えばいいか困るよな」

「うん、実は、桜都と今回の人生で初めて会った時、『桜都』って叫んじゃったんだよ。あの例のバス事件の時。他にも色々あって、怪しまれてる。適当にごまかそうかとも思っていたんだけど、やっぱり話した方がいいのか迷ってる」

「そうか。でもさ、桜都ちゃんに話すとお前のために自分のことまた犠牲にしそうだよな、前回同様に」

「うん、そうなんだよ。例の日付の日、家から一歩も出ないで三人で一緒に居れば本当に安全なのか疑問に思うんだ。よく映画とかで見るじゃん?結局違う何かが起こって、似たようなことになるって。だから、もうどうしたらいいのか迷ってる」

「俺にも考えがあるんだけど、その犯人の事どうにかしておいたらいいんじゃないか?今から。そいつ名前は?」

「・・・イタマゴロウってやつ。無職で過去に何やっていたかわからない。結構前から精神病棟に入院していたって聞いてる。名前見るのも聞くのも嫌だったから、何も調べてこなかった」

「ちょっと検索してみる」

 岳がスマホをタップする。

「SNSやってる奴の中に板間五郎ってやついるぞ。年齢三十五歳。座右の銘は『虎視眈眈』だってさ。どういう意味だ?」

 岳がスマホで調べる。僕は、怒りが湧いてきて何も出来ないでいた。

「トラが目を見張って獲物をねらう様だって。なんだよ。なんか気持ち悪いな」

 スマホを見つめる岳が一瞬何かを捉え、こっちに視線を移す。微妙な間に、息を呑んだ。

「なぁ、例のバスの事件って誰か逮捕された?」

「いや、桜都はバス会社から整備不良って聞いてて、ちゃんと謝罪も受けたって。逮捕とかの話は何も・・・」

「いや、あくまでも俺の推測だけどさ、バスの整備不良に見せかけて本当は桜都ちゃんの事、最初から狙ってたとかないのかな?」

「なんで?」

「いや、この男の趣味に、バスって書いてある・・・」

 は?僕は、岳のスマホを覗き込む。

「岳、そいつの顔写真ない?」

 これだよ、とSNSにあげられている写真を見た。

 頭の中のばらばらになっていた無数の記憶が一気に動き出し、固く太く束になっていくように感じた。なぜ、気が付かなかったのだろう。前回の人生で「この男に見覚えは?」と警察から写真を見せられたことがあった。僕は、見たこともない男だった。黒縁メガネに丸い鼻。岳に見せられた画像をみて今思い出した。

 僕はこの男を知っている。岳の予想通り、あの例のバス事件の運転手だ。桜都を助けようと必死でバスの入口に走った時すれ違ったあの男。僕の事は見向きもせず、目を見開いていた異様な雰囲気を纏う男。

 なぜだ?なぜこうまでしつこく桜都を狙う?

「悠斗、こいつ今何やってんだろ。最近SNSの更新ないけど、逐一チェックしようぜ。そこから何かわかるかも」

「なんでだよ。なんでこいつ。桜都の事・・・」

 前回でも、バスの事故はあったんだ。でも桜都はそのバスには乗らなかった。乗る可能性を知っていたのか?病院の時もそうだ。誰でも良かったとか言っときながら、実は違ったのか?

 作戦会議は深夜まで続いた。

 

 次の日の朝、僕はビクトリア島行のフェリーのデッキに出て、海風を浴びていた。時差ぼけで体がまだ慣れないせいか少し酔ってしまった。隣にいた桜都が背中をさすってくれている。黒に近い色の海は、落ちたら吸い込まれて二度と這い出てこられなさそうだ。

 突然、あっと声を上げた彼女。

「イルカの群れがいるよ。ほら、見て!あそこにもこっちにも」

 僕は、フェリーが出す水しぶきに視線を取られていたが、遠くを見るとイルカの群れが軽快に飛び跳ねながら泳いでいる。こんなに深くて底が見えない海でこんなにも楽しそうに。  しかもフェリーに並走しているように見える。一緒に行こうよ、とか言っているのだろうか。

「きっと、悠斗君元気だして、大丈夫。すぐ良くなるよって言っているのかも」

「うん、そうかも。なんか遠く眺めていたら、だいぶ良くなった」

「やっぱりね」

 イルカに手を振って、フェリーの中に戻った。

「ほら、酔い止め買ってきたぞ」

 やはり、今日も二人きりにはさせて貰えなかった。岳から、薬を受け取り、不満と共に飲み込んだ。

 バンクーバーから一時間程フェリーに乗り、ビクトリア島に着いた。

 かつて、イギリス植民地だったここは、ヨーロッパの様な街並みで、至る所に花々が植えられている。それが職人により綺麗に整備されていて別名『花の街』と言われているようだ。

 僕は、桜都から聞いて行きたかった所があった。B&Bだ。B&BとはBed&Breakfastの略だ。民家を改装して客室として貸し出していているところが多い。おしゃれな朝食も付いてくるのが特徴だ。僕の二度目のペンションの参考になるかも知れない。

 桜都が予約していたアフタヌーンティーを男二人と満喫し、彼女のお腹を満たしたあと、B&Bに向かった。

 映画に出て来そうな高級感のある洋館。もともと民家だったとは思えない程おしゃれで洗練された白い壁と大きな二階の窓。玄関前の広い庭も綺麗に剪定されて、まるでホテルの様だ。客室はもっとすごい。スイートルームかと見間違うほど大きな部屋にはキングサイズのベッド、巨大なソファが二つ、暖炉、猫足の付いたお風呂。窓は、洋風な上げ下げ窓で、遠くには海が見えた。

 二部屋予約していたそうだが、なぜか一部屋しか取れていなかったらしい。岳いわく海外では、よくあることだそうだ。また、二人きりにはなれないのかと思ったが、今夜は大切な話を桜都にしなくてはならないから岳がいた方が都合が良い。


 夜も更けてきた頃、暖炉の火の音が静かに耳に入る。暖かな部屋の空気を僕の口火で変えてゆく。

「あのね、桜都。ずっとどうやって話そうか迷っていたことを今日は伝えようと思う」

 彼女は、正座しながら、ベッドの上にいる。不安げな表情を見ているだけでも辛い。できるだけ言葉を選んで慎重に話を進めた。

「実は、岳もこの件の事は知っているんだ。だから、協力してもらおうと思ってる。これから話すことは、桜都にとって衝撃的な事になると思うんだけれど、桜都の命を僕らで守るから、落ち着いて聞いてほしい」

「うん、私は大丈夫。気を遣わなくていいから、全部教えて欲しい」

「うん、まず単刀直入に言うと、僕のせいで桜都は、大けがをするんだ。そのせいで、やりたかった夢が叶えられない。将来、絵本を出版したり、旅行したり色々あったんだ。だから、今人生をやり直している。二回目の人生だ。三回目はない。桜都の人生取り戻したいんだ。絶対に」

 時間を戻す方法は、あまり重要ではない。そこは、さらっと説明し、二〇二六年一月八日の日付が重要なんだと説明した。

「どうやって大けがするの?」

「例の日、精神病棟に入院していたやつに無差別に襲われる。岳も桜都の事をかばって守ってくれたんだ。岳は、軽症だったけど桜都は・・・。僕は、違う治療で二人とは違う部屋に居て・・・」

 だんだん息が詰まって来た。思い出すだけでも、手が震えてくる。

「悠斗、俺から話そうか?」

「いや、大丈夫」僕は、深呼吸した。これだけは自分の口から伝えなくてはならない。

「実は、もっと後に病気が見つかるんだ。心臓なんだけど。けれど、特に命にかかわることじゃないんだ。そのことは全く心配しないで欲しい。だからその日、桜都と岳に病院に付いて来てもらっていたんだ。そのせいで、こんなことになったんだ・・・だから僕のせいなんだよ」

「それって、悠斗君のせいじゃないじゃない」

「そうだよ。悠斗のせいじゃ全くないよ」

「いや、本当に何も知らなかった自分が許せないんだ。だから、その日は、絶対に病院には行かないで欲しい。三人一緒に家で待機しよう。その日さえ切り抜けられたら、悲惨な未来は回避できる」

「治療は大丈夫なの?」

「うん、その日じゃなくてもいいんだ。だから、桜都、その日は、どこにも行かないと約束して欲しい」

 目をあまり見てくれない桜都は、動揺しているからだろうか。それとも、嘘がバレた?僕

は、桜都の心臓が僕の心臓になるとは言えなかった。そんなこと知ったら、また前回と同じように僕を助けてくれるに決まっている。

「桜都、この男に見覚えない?」

「うーん・・・。たぶん知らないと思う。この人が私をケガさせた犯人?」

 僕は、だまって頷いた。

微妙な雰囲気の中、岳がおどけて和ませる。

「こんな話、馬鹿げてるよね、桜都ちゃん。未来とか過去とかそんなこと戸惑うに決まってる。頭おかしくなったのかな?悠斗君は」

「ううん、本当の話だって分かってる。だって、あのバス事故の時にどうして私の名前を知っていたのか、そして爆発の前に助けてくれたのかも疑問に思っていたの。何が起こるのか知っていたから、元の私を知っていたから助けてくれたんでしょ?」

「うん、前の人生でも僕らは付き合ってた。だから・・・今回、本当は、桜都の人生に関わるつもりはなかった。友達になるのさえ駄目だと思ってた。そうしないと例の事件に巻き込まれると思ったから。どうしても、そんな未来にはしたくなかったから。けれど、やっぱり必要なんだ、桜都のこと」

 そういうことか、と納得の表情を見せた。納得というのは、なぜ僕があんなに冷たい態度を取っていたのかという点で、知りもしない男に襲われるという点は恐怖でしかないだろう。彼女には安心できる言葉が必要だ。

「桜都、心配しなくていいから。男二人いるんだ。絶対守れる。その為に人生懸けてる。信じて欲しい」

「俺、ジムでめちゃくちゃ体鍛えてるから。桜都ちゃんが十人いたとしても守ってあげられるよ」

「桜都・・・こんなことになって本当ごめんね・・・」

「悠斗君のせいじゃないよ。なんか二人がいたら大丈夫な気がする。私も今は、なぜかなんでも乗り越えられそうな気がしているの。カナダにいるからかな?何もかもビッグで日本とは違う。私の度胸もいつのまにか大きくなったのかも。二人に頼りきりにならないように、自分の身は自分で守るから」

「桜都ちゃんって頼もしいな」

 確かに。今の桜都はとても頼もしい。この三人で絶対に変えてやる。あんな不幸な人生にはしないよ。

 暖炉の火に薪を追加し、僕の激しい感情にも拍車がかかる。冷静になろうとすればするほど目が冴えてきた。あのイタマゴロウって男を絶対許せない。ソファに一旦横になったものの、やはり眠れない。横のソファにいる岳はいびきをかいて寝ている。

 暖炉の前に移動し、オレンジ色の火をじっと見つめる。激しい炎とは裏腹に醸し出す音は静かで落ち着いている。僕もあの男への高ぶる感情は胸に秘めよう。本当は、殺してしまいたいほど憎かった。顔も名前も見たくない。同じ空気を吸うのも許せない。でも、殺す事は絶対にできない。僕は、左側の大きなベッドに視線を向ける。

 ベッドの方からは何度も寝返りを打つ音が聞こえた。

「桜都、ごめん。眠れないよね・・・」

 ベッドサイドから、桜都の顔を覗き込んだ。

 彼女は、掛けていた布団を上げ、ここに入って、と合図を送って来た。

「そばにいて」

 と耳もとで言われた僕は、きつく彼女を抱きしめた。

「横にいるから、安心して寝て」

 と、おでこにキスをし、程なくして彼女は小さな寝息を立て始めた。


      3


 留学を終えた二人と美月ちゃんと僕、四人で「おかえりの会」をすることになった。

 僕は札幌のホテル業に絞って就職活動をしている為、前回と同様に地元を離れて大学近くにアパートを借り最近引っ越してきていた。

 飲み物は岳に頼み、食材の買い出しと料理は女子たちにお願いした。部屋を隅々まで掃除しておいたから準備は万端だ。

 午後五時、チャイムがなり、四人が揃った。桜都と美月ちゃんが作ってくれた大きなお好み焼きを四等分して乾杯をする。

「岳君、一年の予定じゃなかった?帰国早めたの?」

 美月ちゃんの質問は、僕も何度もしたのだがいつもはぐらかされていた。

「なんか美月ちゃんに会いたくなっちゃって」

「はいはい。で、本当の理由は?」

「はい。皆さん落ち着いてくださいね」

 岳がわざとらしく咳払いをし、姿勢を正した。

「えー私事ですが、重大発表をします。皆さん、心の準備はいいですか?」

「あ、桜都、お好み焼きもう一枚焼いちゃおう」

「そうだね」

「ちょっと、お姉さん達ちゃんと聞いてよ」

「もう、わかったわかった。どうぞ」

 岳がもう一度咳払いして続ける。三人の視線が岳に向かう。

「実は、医学部に編入しようと思ってます!もうさ、自分の頭が良すぎて持て余してるんだよね。それと、これが一番の理由。ずばりモテたいからです!」

「えー嘘でしょ。もううちら四年だよ。もう一回最初からやり直しでしょ」と美月ちゃんが続ける。僕は驚いて何て言えばいいかわからない。

「うん、今猛勉強してて、来年の四月に医学部二年に編入したいと思ってる。俺、さらにモテちゃうと思わない?美月ちゃん!」

「え、この間も振られたって言ってなかった?」

「いや、勉強で忙しすぎて構ってあげられなかったんだよね」

 隣にいる桜都は、驚きながらも羨望の眼差しを送っているようだ。

「岳君、すごいね。岳君がお医者さんなんて向いてそう。病気の時に明るい人と話せたら元気になれるもん。すっごく応援してる」

「桜都ちゃん、わかってるねー」

 僕は、思っていることを素直に聞いてみた。

「あのさ、それって実は誰かのためとか?」

「は?誰かって誰だよ」

「例えば、親戚とか友人で病気の人を助けたいとかさ」

「そんな訳ないだろ。可愛いナースに囲まれながら、楽しく仕事するのが夢なの。反対はするなよな」

「で、何の医者目指すの?」

「ま、それはおいおいかな。外科医とかかっこいいよなぁ」

「お前に手術されるの怖いな」

「確かに。ま、俺に任せとけよ。心臓でも肺でも悪くなったら、取り替えてやるよ。報酬は億単位だけどな」

「ブラックジャックかよ」

 やっぱりそうだ。きっと心臓病になる予定の僕のために道を変えたんだ。前回の岳の人生で医者になるなんて言葉は一言も聞かなかった。岳は、商社に勤めていて語学を活かしてカナダ勤務していたのだから。

「ありがとう、岳君」

 隣にいた桜都がハンカチで顔を拭き始めた。

「え、なんで桜都、泣いてるの?」と美月ちゃんが顔を覗く。

「あはは、わかんない。なんでなんだろう」

 右手で顔を仰ぎ必死にごまかしているけど、その涙は僕のために動いてくれた岳に対する気持ちだ。そして、まだ未来に起こることは美月ちゃんには言ってない。それは桜都の希望だった。もし美月を巻きこんだら後悔するから、話さないと言っていた。

 桜都と美月ちゃん、そして僕と岳。それぞれこの上ない友情に恵まれたと思う。この先、大人になるにつれて友人は作りづらくなる。それは前回の人生で学んできた。社会人になると上下関係はもっと厳しいし、ビジネスの関係が多くなり、フランクな付き合いは難しくなるのだ。

「よし、これからは、それぞれが新たな道に進むんだ。俺は医学部、悠斗はホテル業、美月ちゃんは不動産、桜都ちゃんは出版関係。それぞれの夢に向けてがんばるぞ!」

「かんぱーい!」

 狭い部屋の中は、お好み焼きの煙と四人の熱気でもくもくしていた。

 人生百年も続く時代。まだ僕たちは五分の一しか経験していない。やりたいことはいつだって出来る。一方で、時間はまだまだあると思っても、それぞれの年代で出来ることが限られているのも事実だ。

今しか出来ない事、今やらなくてはいけない事、それは未来の自分が後悔しないように選択し続けなければならない。

 ニュースで見かける悲惨な事故や事件。それらの被害者や遺族は息をするのもままならない位辛い人生を過ごしていると考えると胸が締め付けられる。

 幸いにも僕にはやり直すチャンスが与えられた。こんなことしている人間はどれくらいいるのだろうか。

 やらなくてはいけないことがある。例の日が来る前に。桜都の人生を守るためだ。それは同時に僕や岳、美月ちゃんの人生も守ることでもある。大切な存在を失ったとき、人はどうなってしまうのか僕が一番知っている。

 具体的に何をやるのか?それはずっと考えてきた。

 まず、自身の病気のことだ。先日人間ドッグを受け心臓を徹底的に調べてもらったが異常はなかった。定期的に検査して最短で病気を発見したいと思っている。

 そして名前も口にしたくないのだが、あのイタマゴロウの事をどうすればいいのか考えてきた。バスの事件は爆弾でも仕掛けたのではないか?とも思うが、それなら捜査で見つかりそうだ。本当に整備不良だったのかもしれない。でも、例の日は、事件を起こすのは確定している。これからは徹底的にその男について調べてやる。

「悠斗―、顔が怖いぞ!今夜は楽しく過ごそうぜ」

 岳が肩を組んでくる。なんか重くなった?太ったのか?

「そうだ、見てみなさい。俺の上腕二頭筋を!」

 こんもり膨らんだ筋肉。やっぱりもともと細かった体が一回り大きくなっている。

「わぁ、本当に鍛えたんだね。冗談じゃなかったんだ」

「あたりまえよー。なんでもかかってこいよ!」

「何と戦ってんのよ」

「そりゃ、悪い奴らだよ。この世には沢山悪い奴がうじゃうじゃしているからな。な、悠斗」

「そうだな・・・」

「今色々考えても仕方ないぞ。俺も手伝うから安心しな」

 と耳打ちしてきた。確かにそうだ。僕はことあるごとに、恨みの気持ちと葛藤していた。あいつさえいなければ、こんなことにならなかったと。そんなんじゃ駄目なのはわかっている。こっちの時間軸では、奴はまだ何も罪を犯してない可能性もあるのだから。切り替えるんだ、頭を。

「よし、デザートタイムにしよう。桜都と美月ちゃん冷蔵庫開けてみて」

 二人は、腕を組み目を輝かせながらキッチンへ向かう。冷蔵庫の扉を開けた音と同時に歓喜の声が聞こえてきた。

「これ、新しいケーキ屋さんの。オープン前に並ばないと売り切れになるってやつだよね?」

 やはり流行りものに詳しい美月ちゃんは、知っていたか。

「そんなに人気のお店なんだね。悠斗君、何時から並んでくれたの?」

「八時半過ぎかな」本当は七時半だ。

「え、オープンは何時?」

「えっと、十時・・・一番のりだったよ」

「わぁ、ありがとう。悠斗君」

 双子の様に同じタイミングで同じことを言う彼女たち。こんなに喜んでくれるなら、土曜に早起きして並んだかいがあった。

 シャインマスカットとあまおうがキラキラしているフルーツタルト。旬がそれぞれ違うフルーツを組み合わせた他にはない貴重なタルトだ。女子たちは、何度も写真を撮り、この角度が映えているとか光の加減がどうのとかいいながら、はしゃいでいる。男たちは遠巻きにそれを見ていた。おそらく、岳も同じことを考えていると思う。この子たちがずっと笑っていられるように、と。

 

 

 

 

 

 

 

 第九章  不安な未来




      1


 バンクーバーで岳と作戦を練ったとき、やはりバス会社に潜入しようという話になった。調べるにはやはりそこで働くのが手っ取り早い。バスの運転手の募集は、常にしているようだが、外回りの勤務だと情報は得られにくい。内勤はどうだろう。求人情報は常にチェックしているが、あまりない。そもそも大学もあるから、夕方からのバイトくらいしか出来ないからどちらも現実的ではない。

 求人サイトを調べていくうちに、『警備員のバイトの募集。バス会社ビルで夜勤』というのを見つけた。迷わず応募した。それを岳に言うと「俺も誘ってくれよ」と岳も応募してくれた。

 人手が足りなかったのか、運よく二人とも採用になった。

「いや、びっくりだよ。ずっとこんな若い子来てくれたことなかったからね。じいちゃんばっかり。心強いね」

「採用いただけて本当に良かったです。深夜だと時給も良いですし、助かります」

「良かった、こういうのウィンウィンっていうんでしょ。孫が言ってたよ」

 じいちゃんの年位の優しい先輩は、コーヒーを淹れてくれ仕事の説明を始めた。

「シンプルなのよ。二時間に一回ビルの見回り。三階建てだからそんなに時間かからないと思うよ。あと、最後にバスの待機場も見てね。昔ホームレスが夜中にバスの中で寝てた事があってさ。それから、警備員入れるようになったみたい」

「おばけは出ないですか?」

「知らない方がいいと思うなぁ」

 岳の冗談にもノリ良く返す。この先輩とはウマが合いそうだ。

「あの、すみません。ちょっと実は人を探していて、この人知りませんか?運転手だと思うんですけど・・・」

 僕はSNSにアップされた写真を見せた。

 老眼鏡を上げて、先輩は目を細める。しばらく考えたあと思い出したように答えた。

「あぁ、板野君だったかな?もう結構前に辞めたよ。おじさんもね、たばこ休憩の時にちょっと話したことあるくらい。知り合い?」

「あ、ちょっと昔の知り合いで。どんな話しました?」

「うーん、あんまり口数少ない子だったけどね、カレーが好きとかでおすすめの店教えてくれたかな」

「どこの店ですか?」

「あぁ、札幌駅の近くだよ。名前は忘れちゃったな」

「思い出したら教えてください。ありがとう先輩」

 岳と目を合わせて、話は終わった。

 やはりここに勤務していたのは間違いなさそうだ。

 さっそく二人で見回りしてきてよ、と館内図を渡された僕たちは、懐中電灯を片手にビルの中を進んでいく。来た事のないバス会社のビル。案の定とても古い。扉を開くたびにギーっという音が廊下中に響きわたり背中に悪寒を走らせる。

「なぁ、本当に出ないかな?」

「さっきの本気で聞いてたのか?」

「あたりまえだろ。こういうの本当に苦手なんだよ」

「おいおい、医者になろうってやつがおばけ苦手って、致命的だぞ。家より病院で過ごす時間の方が長いんだから」

「いや、俺、夜勤のしない医者になるわ」

「そういえば岳、ありがとな」

「何が?」

「医者になるって決めたのきっと、俺のせいだよな?」

「え、前回の人生で俺、医者になってなかった?」

「なってないよ。商社勤務でさ、カナダでバリバリ働いてたよ」

「まじかよ。じゃ前回は職業の選択間違えてたんだな俺。逆に悠斗が人生やり直してくれたおかげで医者になれるんだ。こっちがお礼言うよ」

「勉強は大丈夫そう?付き合わせちゃったけど」

「うん、余裕。医学部の先輩と友達になったから、教えてもらってる」

「さすが、人脈広いな」

「だろ。あ、悠斗見てみろよ。資料庫あるぞ」

 先輩から預かった鍵の束に資料庫の鍵も見つけた。

「悠斗、ちょっと待て。さっき俺たちが見回りしているの、監視カメラで見てるって言ってたよな。あの先輩」

「確かに。今日見るのは止めよう。下見だけしよう。他に出勤簿とか履歴書とか置いてあるところが見たい。やっぱり事務所かな?」

「うん、それは一階にあるはず」

 一階の正面玄関前は待合室があり、その後ろは事務所になっていた。事務所には机やパソコンが並んでいてその奥の壁沿いに従業員名簿と書かれた鍵付き書棚を見つけた。

「ここにあいつの個人情報ありそうだな。書棚の鍵ってある?」

「いや、それはない。部屋の鍵しかない。書棚の鍵はきっともっと小さいやつだと思う。俺ら二人で夜勤の時が本番だから、それまでにこの書棚の鍵もゲットしておく」


 シンプルな仕事内容だったので、三回目の勤務で本番はやってきた。

 まずは先に一階の事務所の鍵付き書棚に向かった。

「悠斗、鍵どうやってゲットしたの?」

「いやしてない。じいちゃんにコツを教わって来た。こういう古い書棚の鍵って単純らしい」

 僕はじいちゃんに習った方法で針金を動かし開けてみた。一発でガチャっといい音がする。

「さすが、名時計店の孫」

「出勤名簿あった。やつは二〇一八年のクリスマスイヴに勤務してたんだ。これだと思う」

 黒い紐付きのファイルに年毎に整理された出勤簿。インデックスシールも月毎に貼られていて、十二月の資料はすぐに見つけられた。

 岳が照らす懐中電灯の先には、あの見たくない名前があった。

 二〇一八年一二月二四日、板間五郎の名前の隣に出勤時刻十六時五五分と記載がされていた。退勤時刻の記載が抜けているが、出勤時刻から考えると深夜のバスも運転していたことに間違いなさそうだ。それに路線も一致している。あのバスは、やはり板間五郎が運転していた。そして何らかの理由で爆発したのだ。

「履歴書ないか?」

 岳が懐中電灯を書棚の上から照らしていく。従業員名簿というタイトルのファイルは沢山あるものの、番号が振られているだけで、どのように振り分けられているのかわからない。とりあえず一番新しい番号のファイルに手を伸ばした時だった。どこかのドアがギーっと開く音がした。岳と二人、声が出そうになるのを抑え、懐中電灯をオフにした。明らかに誰かの足音が近づいてくる。現在の時刻は、深夜二時。最終バスがこっちに戻って来たのが十二時過ぎで運転手はとっくの間に帰っている。先輩も朝の交代時間まで来る予定はない。

 誰だ、誰だ。

 岳と二人身を寄せ合い机の陰から、その人物を見る。左腕が痛い。僕より鍛えられた体の腕力で強く握られているのだから、痛くないわけがない。

「おばけか?」

 耳打ちしてくる岳に僕は、首を横に振る。おばけは足音たてないし懐中電灯持ってないだろ。

 得体のしれない足音と懐中電灯の光は、事務所に入って来た。どうする、隠れなきゃよかったと後悔した。僕たちは、ちゃんと警備員の制服を着ている。深夜にここにいてもなんらおかしな事はなかったのに。次の瞬間僕らの背中は心底震えあがる。

「おーい、わかってるんだぞ。出てこーい」

 どうする、どうしたら良い?岳は震えているではないか。

「わかってるんだよね。警備のおっちゃんから聞いて、僕のこと嗅ぎまわっていること・・・。春野君だっけ?なんで?」

 その瞬間、事務所の電気がぱっとついた。

 僕は、目を一瞬閉じ、肺にたまった空気を一気に押し出した。左腕にからまっている手を静かに振りほどき、机の下から立ち上がる。

「すみません。おばけかと思って隠れてしまいました。僕が春野です」

「誰ですか?君」

 お前が桜都を殺した。絶対許せない。病室での変わり果てた桜都の顔。傷だらけで腫れた顔が脳裏によぎる。手を握っても名前を呼んでも反応がなかったあの時のこと、お前に想像できるのかよ。頭の中で胸倉を掴む以上の光景がよぎる。

 岳が「落ち着け」とささやきながら、僕の固く握った拳を押さえつけていた。桜都の今の顔を思い出すんだ。僕を見つめてくる時の優しくて愛情を注いでくれる眼差しを。

「岳、大丈夫。なんもしないよ」

「何?なんか僕のこと探してるって聞いたんだけど。僕たち知り合い?」

「一昨年の暮れのバスの爆発の時、あの時すれ違ってる。覚えてない?」

「覚えてない・・・。あぁ、確か女の子乗せてたんだけど、その子助けてくれた人ですか?」

「そうだ」

「あぁ、あの時は、本当に危なかった。ありがとう。危うく殺人犯になるところだったよ。お礼を言わなくちゃね」

「は?殺人犯ってどういうことだよ。爆破させたのはお前か?」

「え?そんな訳ないよ。怖いね、お兄ちゃん。少し落ち着きなよ。おとちゃん怪我してないよね?」

「は?何で名前知ってんだよ!」

 目の前の机を飛び越えて五メートル以上離れているあいつに飛びかかろうと思って足が出た瞬間に岳が足を掴んでくるのがわかった。

「落ち着けよ。今は違うだろ!何のためにやり直してんだよ!」

「離せよ!」

「落ち着けって!悠斗!考えろ!彼女は生きてるだろ」

 そうだよ。わかってる。わかってるんだよ。でも、あの時のこと思い出すんだよ。

 握りしめていた拳で自分の太ももを叩いて、誰にあたっていいのかわからない状況に悶絶した。

「え、何?怖いんですけど。何で名前知ってるかってこと聞きたいんじゃないの?」

「何で知ってんだよ・・・」

「何回もバス乗せた事あってさ、定期に名前あるの見たんだよ。ここの会社辞めてから、おとちゃんに会えてなくて寂しいな。今何してるんだろ?」

「は?日本にはいないから」

「ふーん。何?知り合いなの?紹介してよ」

「お前には紹介しない。なんなんだよ。桜都と何の関係がある?」

「特にないよ。バスから降りるとき必ず『ありがとうございます』って言って降りてくんだよ。みんな無言で降りてくのにさ。印象いいよね。で僕に何の用なの?」

「疑ってる。あのバス事故が本当に整備不良だったのか」

「さぁ、僕も知らないよ。聞きたいことはそれだけ?もう眠たいし帰るから」

 板間五郎が正面玄関から出て行ったのを確認した僕らは、予想外の展開に言葉を失っていた。

 岳に『ごめん』とジェスチャーを送る。ここまで冷静でいられなかったのは、初めてかも知れない。岳がいなかったら、確実に警察沙汰になっていた。いや、きっと牢屋だ。

「いや、俺もごめん。なんか腰抜かして立てなかったから、応戦できなかったし」

 腰を抜かすのも当然だ。殺人鬼が突然現れたのだから。きっと先輩があの男に連絡したのだろう。人探ししている僕らを想ってのことだろうか。

 でも、あいつはどうやってこのビルに入って来たんだ?

「実はさ・・・」と岳が話始める。

「あいつ、たぶんあの先輩のグルかも」

「え、どういうこと?」

「この間、先輩と二人で組んだ時に監視カメラの映像みたんだ。ちょうど一昨年の暮の。抜けている日付と時間があって、先輩に聞いたんだ。そしたら、隠してるって言ってた」

「何を」

「たぶんデータの事。お金もらっちゃったからさ、とかなんとか言ってて。スティックのなんとかって言ってたから、USBとか隠してると思う」

 僕らは、三階の警備室に移動し休憩室の中を探した。三畳ほどの狭い部屋。それは容易に見つかった。ブランケット類が収納されている扉を開けると小さな缶が奥に入っていて、その中にUSBは入ってた。

「これ、データだけコピーした方がいいよな」

「うん、持ち帰ると窃盗で捕まるかも知れないし。岳、USBある?」

「持ってる。医学部編入の勉強資料この中に入れて持ち歩いてたからさ」

 岳は、鞄からUSBを取り出しさくっとデータをコピーしてくれた。

「悠斗、中身さ、今見た方が良くない?証拠が何も入ってなかったら他に探さないといけないし」

「うん、そうだな」

 ファイルは、一つだけだった。事件前日の日中。バスの職員がバッテリーのような物を交換している。電灯に付いている防犯カメラは、距離があるものの交換している職員をしっかりと映していた。さっき会った図体のでかい板間五郎ではなかった。

「どうして、この映像隠してるんだろう?」

「たぶんこのバッテリーのせい?」

「待って。音声入ってない?」

 音量を最大値に上げてみる。雑音と共に聞こえてきた会話内容はこうだ。

『これ・・・ほんと・・使っていいやつ?製造日十年以上前の・・・』

『社長の指示じゃ・・?俺ら・・・ただやるだけ』

『給料も上がらん・・、経営厳し・・・』

 途切れ途切れながらも、理解出来た会話内容は僕の予想に反するものだった。板間五郎は犯人ではなかったのか?このバスの防犯カメラ映像は他にも見たが、あいつが爆発物を仕掛けているのは確認できなかった。もし、仕掛けていたとしても証拠はない。

「悠斗、資料庫はどうする?」

「いや、見てもあまり意味ないかも。この会社に問題があったことを掴んでも、桜都が襲われることを阻止できる訳じゃない。あの男が爆発物を仕掛けた証拠があると思ってた。ごめん岳。無駄足だった」

「無駄足じゃなかったよ。板間五郎の事、どんな奴かわかった。かなりやばそうだぞ」

「そうだな。履歴書だけもう一回探そう。電話番号と住所だけ知っておきたい」

 僕らはもう一度従業員名簿から板間五郎の個人情報だけスマホで撮影しておいた。

 幸いなことに、この事務所内に監視カメラはなかった。

 朝になり、先輩が出社してきた。

「おはよう。順調かな?」

「おはようございます。特に問題ありません」

 この先輩は、あの男と何かしら深く繋がっている可能性はあるのか?

「そういえば、会えた?この間、春野君人探ししてるって言っていたでしょ?板間君のこと。電話番号ね、事務の女の子に聞いて、連絡とってみたの。いつでも警備室おいでって。会いたいみたいだからって」

「もしかして、鍵渡しました?」

「うん、昨日取りに来たからスペア渡した」

「先輩、駄目だよ!」

 僕たちは声を揃えて言う。

「いいじゃないの。もともとここの従業員なんだし。そうそうカレーの店も聞いておいたよ」

 と店名の書かれたメモも渡してきた。

「先輩、この間言ってた、お金貰ったって話、板野って人から貰ったんですよね?」

「え、違う違う。社長だよ。ここのバス会社のね」

 シーだよ、となんでも教えてくる先輩は、そうそう、と言いながらお菓子を差し出してくる。

「夜勤ご苦労様ね。若いとはいえ、昼間は勉強頑張って夜はお仕事。疲れてるでしょ」

 この人は、根から良い人なんだ。人を探してるって言ったから、カレー屋の名前を聞いたから、ただ僕らのために、動いてくれただけだ。きっとあの男とは深い関係ではない。電話番号も知らなかったのだから。

 もし爆発事故の原因が、あの男の仕業だったのなら、牢屋にいる間は桜都の安全が確保できたはず。でも、爆発の原因は、どうやら違うようだ。

「悠斗、まだあきらめるな。一応事件が起きるのは二〇二六年だろ。まだ五年以上ある。それまで手立てはあるはずだ」

「うん、ただ、あいつ桜都の名前知ってた。それだけでも気持ち悪すぎる」

「引っかかるのはそれだよな。前回の事件でも誰でも良かったとか言っときながら、実は桜都ちゃんを狙っていた可能性は否定できない」

「しかも今回、この爆発事故に桜都を巻き込んだのは、俺が前回と違う行動をとったからだ。何かしら、前回と違う事件が起こってもおかしくない」

 不安ばかりが押し寄せてくる。例の事件の日。ただ家に居れば良いなんて単純に思っていた。だが、少しずつ未来が変わってしまった。全く予想できなくなってしまったではないか。


      2


「桜都さ、また海外留学しないの?」

「行かないよ。どうして?」

「いや、聞いてみただけ。それなら、良かった。また行っちゃったら寂しいなって」

 実は違う。日本に居ない方が安全だと思ったからだ。とっさにあいつに桜都は日本にはいないと嘘をついたが、実際海外にいた方があいつも桜都に手出しはできないだろう。だが、それは現実的ではなさそうだ。

「悠斗君、ちょっと聞いてもいい?」

 彼女は、アイスカフェラテのストローをくるくる回しながら、言葉を一生懸命探しているように見えた。

「前回の人生では、私ってどんな人だったの?」

「ん?全く変わんないよ。今、昔の桜都にまた会っている気分だよ。落ち着いていて、いつも周りの人に優しい。それに感受性が豊かで、小さなことに感動している。ね、変わんないでしょ?」

「そうかな?なんか時々不安になるの。悠斗君が好きになったのって私じゃなくて、前回の人生にいた私なんじゃないかって。ごめん、こんなこと言われても困るよね。でも、出会い方も前回は違ったでしょう?」

 無理して口角を上げて話している彼女の瞳には、うっすら涙が浮かんでいた。氷が溶けて薄くなったカフェラテは、ストローでかき混ぜても音がしない。

「桜都さ、去年の一月頃、パン屋でバイトしてた時におじいさん助けなかった?」

「おじいさん?」

「うん、凍り付いた横断歩道渡っていた、杖を突いたおじいさん」

「あぁ、あんパンのおじいさんかな?その後、その人の息子さんが来て、大きな花束貰ったの」

 どうしてそれを?という顔をしてくる彼女に得意げにこう伝える。

「前回の人生ではさ、その花束、僕から手渡したんだよ。その息子さん、バイト先の店長だったから」

「え?そうなの?」

「桜都の事初めて見たの、その時で。なんて優しい子なんだろうって思ったんだ。それから、パン屋に通い詰めて、やっと連絡先もらえたんだよ。半年くらいずっと黄な粉ドーナツばかり食べ続けてさ」

「黄な粉の人って呼ばれなかった?」

「呼ばれた!」

「やっぱり。売り場の先輩がすぐあだ名付けちゃう癖があったから・・・」

「それでさ、告白したんだよ、やっと。そしたら桜都も花束貰ったときに実は一目ぼれしてたって言われて、嬉しかったの覚えているよ」

「前の私も一目ぼれだったんだ」

 え?と僕は彼女の顔を見る。小樽の洋食店で言われた『一目ぼれだったの』と言った時と同じようにはにかむ姿は、全く同じだ。そして、僕の口元もひどく緩んでると思う。

「ね。同じでしょ?きっと僕ら、何度出会っても惹かれ合っていたのかも。かも、じゃなくて絶対そう」

 安心した顔になった彼女は、薄くなったカフェラテを一気に飲み干した。

 彼女の言っていることはわかる。目の前にいるのは紛れもなく桜都なのだが、ときどき不思議な感覚に落ちることがあった。過ごした思い出がちょっとずつ違うせいか、二人の女性と恋愛しているような、そんな感じが。いずれにせよ、目の前の桜都が妬いているのは桜都自身であるのだから、そんな彼女が可愛くて愛おしくて仕方がない。

「お店出よう。もう悠斗君のお家行っても良い?」

 と言って、足早にレジに行ってしまう。ドキドキする胸の高鳴りを抑えながら、僕のアパートへと向かった。


 彼女の借りていたアパートは、留学の前に解約してしまい、今は実家住まいだ。大学の単位もほとんど取得している彼女は、毎日大学に行く必要もないため、少々遠い実家から大学に通っていた。

 一緒に住もうよ、と言いかけたが、彼女がそういうのはちゃんとしてから、と言うのを想像できたので言わなかった。

 気になるあの男の事だが、履歴書の住所は、北海道ではなかった。きっと越してくる前の物だろう。今はどこにいるのかわからないが、SNSをチェックする限り、本州の田舎に移住したと書いてあった。近くにいる訳ではない。少しほっとしている。けれど用心することに越したことはない。                               

「桜都、これ誕生日プレゼント。開けてみて」

「二つも?」

 紙袋二つ両手で受け取った彼女。胸躍らせているときの表情は何度見たって可愛い。

「どっちから開けようかな?」

「じゃ、こっちの茶色い紙袋からでも良い?本命は白い紙袋だから」

「うん、わかった。これは?防犯ブザーかな?あとは・・・これは何だろう?アクリル板?」

「いや、これはね、こう使うんだよ。取っ手の部分をこうやって持つと盾になる。小さいけれどトートバッグとかに入れられるよ。強度もばっちり」

 あはは、と本気で笑われた。

「ありがとう。防犯ブザーはわかるけれど、盾を渡してくる彼氏、悠斗君だけだと思う」

「いや、真剣だからね」

「ごめん、嬉しい。でも悠斗君、いつも私が遅く帰るときは、レンタカー借りてまで実家まで送ってくれるでしょう?大丈夫だよ」

「いや、心配なんだよ。いつでも一緒に居られるわけじゃないから用心してね」

 なるべく彼女に心配させないように、バス会社でのことは黙っていた。僕に今できることはこれ位しかない。

「もう一個の方も開けて良い?」

「もちろん」

「わぁ・・・イヤリング。可愛い・・・」

 ピンク色のガラス細工と少々高かったパールで作ってみた。彼女と見たコスモスの色だ。

「本当に器用だね。こんなに小さなガラス、そんな長い指でどうやって加工しているの?ずっと見ていられそう。光に当てるとキラキラしていて綺麗。パールが付いていて上品」

「つけてあげる」

 姿見の前に連れていき、ボブ位の柔らかな髪を耳に掛ける。少し赤くなった耳たぶにイヤリングをつけると鏡の中の桜都と目があった。時間はゆったりと流れ、このときだけは、誰にも邪魔されたくない。

「大好き」

「大好きだよ。ずっと一緒にいよう」

「うん。もう一個聞きたいことがあるの」

「ん?」

「私たち結婚してた?」

「うん、してたよ」

「いつ頃?」

「社会人になって四年目くらいかな」

「なんだ。まだまだ先かぁ」

「生活の基盤が整うまで待ってて。預金通帳見たんだけど、やっぱり昔の少ない金額に戻ってたよ。そこは時間戻らなくて良かったんだけどな」

「私も、早く就職先見つける。貯金しっかりしないと将来のために」

「大丈夫。桜都もちゃんと就職して頑張ってたんだ。ただ無理はしないでね。今から言っておくけど、辛い時は周りを頼って。桜都は一人で抱え込む癖あるから。相談して欲しい。僕じゃなくても美月ちゃんでもいいんだし」

 会社での後輩の件と、岳から聞かされた未来について一人で悩んでいた時、僕は、何もしてあげられたかった。心底後悔している。もうそんな想いはさせたくない。

「悠斗君、このイヤリング、ウェディングドレスにも似合いそう。それまで大事に使うね」

 後ろから抱き寄せ、鏡越しに見える彼女は、イヤリングに目を向け微笑んでいる。まだ見ぬ桜都のウェディングドレス姿はどんなだろう。そこにはどんな未来が待っているのだろうか。


      3


 やっぱり思った通りだった。このイヤリングには、白いドレスが良く似合う。

 ドレッサーの前に座る私は、いささか緊張している。

 本当に今のタイミングで良かったのだろうか。全てが過ぎてからの方が安心は出来たのかもしれない。でも彼の最近の口癖は『やりたいことは、すぐにやっておこう』だ。彼の熱い想いを聞いて納得した。

 二〇二三年、六月初旬。本格的な夏が迫ってくる前に身内と仲の良い友人だけの小さな結婚式が始まる。

「桜都、結婚しよう。ペンションをオープンさせたらすぐに。前回より二年半早くオープンさせるから」

 その言葉を聞いたのは、今から半年前。ホテルでの勤務とペンションの準備を並行させ、つい五月にペンション『ハルノトキ』をオープンさせたばかりだ。一度経験しているとはいえ、大学を卒業して二年ちょっとで起業できるなんて、本当に尊敬しかない。

「お父さん、緊張してる?」

「いや、大丈夫だ。でも早くないか?父さんもっと遅い方が良かったぞ」

「そんなこと言う方が遅いよ。もう私ウェディングドレス着てる」

「確かにそうだな。父さんも燕尾服着ちゃっているしな」

 控室にしていたエゾリスの部屋の扉が開いた。

 美しいバイオリンの音が厳かな雰囲気にいざなう。

 十数年ぶりに父と腕を組む。

 溢れ出る両親への感謝は、歩みを進める度に胸いっぱい広がっていく。

 あまり長くない廊下を抜けると、皆の優しい視線を拍手と共に受ける。

 広くないロビー内には美月やサキちゃん、澤井ご夫婦、ペンションの仲間、そして、私たちの親族が立って迎えてくれていた。

 私は、会釈をしながら、その愛溢れる通路を通り抜ける。

 緑がかったグレー色のロビー内は、美月が装飾してくれた。私をイメージし、ピンクを基調に花々で埋め尽くしたいと言っていたが、強張った私の体をほぐしてくれるような暖かなピンク色は、美月そのものだ。

 一番奥で私を待ってくれているのは、世界で一番優しい瞳の持ち主。濃いネイビーのタキシードが誠実な彼をさらに引き立たせてくれていた。

 父は、私の右手を取り、彼の手にそっと乗せてくれた。

 彼と目と交差した瞬間、心の底から思った。彼でよかった、と。彼の瞳から湧き出る私への愛情は、心に突き刺さるほど強くて、ただただ私に安らぎと自信をくれる。

 こんな人は、世界中どこを探しても、他の時間軸を探したとしても出会えない。いつも守ってもらってばかりの私が出来るのは何?前の私はどうやって、彼を守ってきたのだろう。

「それでは、指輪の交換を」

 という牧師さんの合図で私の左手を取る彼の手は密かに拭った涙で濡れていた。

 薬指は、願いを実現する指と言われている。私の願いは一つ。彼が幸せであること。彼の薬指にはそんな願いと共に指輪をはめた。

「キスは?」

 という岳君の声が聞こえる。人前でのキスは恥ずかしいから避けたいと事前に伝えてはいたが、彼はどうするだろう。

 悠斗君は、軽いやつならいい?と聞いてきた。私の両肩を掴み、おでこに優しいキス。

 シャッター音と祝福の声が私たちを包み込み、小さな結婚式は幕を閉じた。


 結婚式を挙げる少し前に、勤めていた印刷会社を辞め本腰を入れてペンションの仕事をすることに決めた。

 朝起きてすぐ、お客さんの為の朝食を準備し、その後店の清掃や事務仕事、手作りワークショップの運営など時間はあっという間に過ぎていく。接客はもともと苦手だったはずなのに、ここにくるお客さんは皆、楽しそうで笑顔が溢れている。そんな方々を見るとやりがいと自信につながるのだった。悠斗君は、きっとこんなペンションをオープンさせたかったのだろう。

 その彼は、最近随分せっかちに感じる。

「桜都、新婚旅行すぐ予約しよう!やっぱりイタリアかな?青い海が好きでしょ?」

「なんでわかったの?アマルフィ海岸には絶対行きたいって思ってたけど・・・それって前の私も言ってた?」

「うん。そう」

「じゃ、悠斗君、イタリア行くの二回目?」

 なぜか悲しそうに首を横に振る彼をみて、なぜそんなに急かすのかわかった。新婚旅行には行けなかったのだと。やっぱりそうなんだと思った。きっと彼は私を想っての優しい嘘をついている。きっと私は前回の人生では・・・。

「私、買い出しついでに、旅行会社からイタリアのパンフレット貰ってくるね」

「うん、今夜のうちに決めちゃおう」

 せっかちな彼に満面の笑みで返す。

 お客さんのチェックアウトを終えた後、いつものスーパーに歩いて向かった。食材を買い込む前にスーパー内にある旅行会社へ立ち寄る。パンフレット置き場には、アマルフィ海岸の絶景が刷り込まれたパンフレットが、いの一番に目に入る。そこに行くことを想像しただけで心がふわふわと浮き立つ。イタリアとタイトルのある資料を片っ端から一枚ずつとり、トートバッグにしまった。  

 月に一度の特売の日。地元農家で育った新鮮な野菜がお安く手に入る。お客さんの口に入るものは出来るだけ地元産を心がけている。

 自分たち用の食材も買い込んだので両手に持った荷物は手に食い込み痛い。

「よろしければ荷物持ちましょうか?」

 声を掛けられ、振り向くと知らない男性が立っている。サングラスには、私の顔が映り込み、その目は見えなかった。

「いえ、すぐそこまでなので大丈夫です。ご親切にありがとうございます」

 と頭を下げたが、強引に荷物を奪い取られた。

「大丈夫ですよ。春野さんの奥さんですよね。僕もお手伝いさせて下さいよ」

「夫のご友人の方ですか?」

「そうです」

 悠斗君は、そんなに交友関係は広い方ではないと思っていたが私の知らない人がいてもおかしくない。ペンションをオープンさせるまでに、本当に色々な方にお世話になっているのだから。

 その男性は、ハルノトキへ足早に進む。場所は知っているようだ。

 歩いて五分程、ロビーまで荷物を運んでくれた男性に私はお礼を言ったはずだ。なのに目の前が暗くなりそうだ。

「桜都、荷物重かったでしょ」

 一番手前の客室の補修をしている悠斗君の声が聞こえる。

「悠斗君、厨房のゴミ捨てといてくれる?」

「もうやっといたよ」

「じゃ、こっちは大丈夫だから・・・」

「桜都、どうした?」

 来ては駄目。

 いつもは穏やかな彼が血相を変えて、走って来た。

「なんでいる!なんでいるんだよ!」

 聞いたこともない大きな声で叫ぶ彼は、壁にもたれ掛かっている私の前に立ちはだかり守ってくれている。

「結婚おめでとう。春野君、おとちゃん。SNSでこのお店のホームページ発見してさ。結婚式の様子タグ付けてあげている人いたからさ。すぐわかっちゃった」

「桜都、大丈夫?何もされてない?」

 頷く私は、近くに置いていたひざ掛けでお腹を隠している。

「なんか、ファンになっちゃって。二人の事。よーく考えたら春野君は僕の事助けてくれたわけでしょ?あのバス事件の時、おとちゃんの事助けてくれなかったら、僕だって責任問われていたはずだ。だからお礼が言いたい」

「なんなんだよ。二度と来るな。俺らの前に二度と現れるな!」

「そんなに怖がらないでよ。おとちゃん、君には本当に感謝してるんだ。冷たい民衆の中にただ一人、君だけが僕にお礼を述べてくれる人。ずっと寂しい人生だったのに」

 黒いショルダーには今、何が入っているのか分かっている。鋭くとがったもの。本来なら美味しい料理を作るのに必要な物。今は、私の血まみれだろう。

 もうお願い、それは悠斗君には向けないで。

 さっき持ち歩いていた盾は、トートバッグの中にある。

 守りたい。彼を。私の一番大切な人。心から愛する人。あなたを守れるのなら、他の小さな夢は叶えられなくても良い。

 せっかく貰ったイタリアのパンフレットだけれど、トートバッグから取り出す時間はなかった。あの見て笑ってしまった盾であなたの心臓を守れたのだからそれでいい。

 痛いところはない?

 あの男は、前回の人生でも私をケガさせた人?

 でも、ごめん。私がケガをしたら、あなたは心底苦しむんだった。これじゃ同じだったね。本当にごめんね。でも、それでいいの。お願い、わかって。でも、私はあなたを助けられて満足。きっと前回の私もそう思いながら瞼を閉じたのだろうな。


      4


 時間はまた進まなくなってしまった。いつまで経っても、時計の針は動かないように感じる。

 木の匂いに溢れていたロビーは、血の海になり、壁にも飛び散っていた。

 でも、そんなのはどうでもいい。

 いっそのこと、僕も連れて行ってくれよ。

 そっちに行くのなら、一緒に。

 言ったじゃないか。僕が人生を掛けても守ると。なんで僕が守られてんだよ。二回目だぞ。

「桜都。お願いだから、もうそろそろ目を覚まそうよ」

 何度、彼女の名前を呼ぼうが病室は静まり返り、外の雨音がどんどん大きくなるだけで、グレーによどんだ空の雲が低く浮かんでいる。

「そろそろ変わるわね。悠斗君、あなた三日も病室にいてほとんど寝ていないでしょう」

「お義母さんも。ほとんど眠れていないですよね」

「いいのよ、私は。眠っている間にいなくなっちゃいそうで怖いの・・・」

 辛そうに泣く桜都の母親と同じ気持ちだ。寝ている間にいつのまにかいなくなり、二度と触れられなくなってしまう。そんなことは二度とごめんだ。

「桜都、どうして、そんなに守ってくれるんだよ。痛かったよね。ごめん、本当にごめんね」

「悠斗君、あなたはあまり知らないでしょうけれど、悠斗君に出会う前のあの子は、自分にあまり自信がなくて親の私たちにさえ遠慮するような子だった。誇れるところは沢山あるはずなのに。私の育て方が悪かったのかしらって、何度も思ったの。でもいつの日かすごく明るくなったのよ。自分の意見もすごく言う様になったし、時にはわがままだって。それ位の存在なの。あの子にとってのあなたは。きっと親が子を想うくらいの気持ちなのかしら。親は子を持つと強くなるっていうでしょう。なんだって出来てしまうの。命を懸けるくらい」

「桜都が心優しいのは、お義母さんがそう育ててくれたお陰です。そんな優しい子と結婚出来て僕は幸せです・・・」

 心電図のモニターが警告音を鳴らし始める。

 病室の扉が勢いよく開き「下がっていて下さい」と医者に言われた。

 桜都のお義母さんは僕の腕にしがみつき、名前を叫んでいる。

 これじゃ、前回と同じじゃないか。何でだよ。何でこうなった。いつから間違えていたんだ。教えてくれよ。

 足にはもう力は入らなかった。桜都がいなくちゃ僕の人生には何の意味もない。色も形もないただの無機質な世界が無駄にあるだけだ。

 電気ショックで彼女の体が飛び跳ねる。一瞬動いた心音は無情な期待を持たせ、再びゼロを示す。

 医者の最後の一言で絶望に落とされた。

「桜都!目開けて!お願いだから!桜都!」

 温かな彼女の手は、いつも通りには握り返してくれない。

 瞼を閉じているはずの彼女の目から涙がこぼれ落ちる。

 それは、別れの涙なのか?

「僕の心臓あげるから。戻って来てよ・・・」

 涙で視界がかすんでいるせいなのかと最初は思った。桜都の周りに黄金の粒子が取り巻き始める。

 これはなんだ?お迎えなら止めてくれ。いっそのこと一緒に。

 その粒子は更に眩しく回転し、やがて桜都の胸の中に消えていった。

 一度見たことのある光景だ。蒸気時計の前で見た景色と酷似している。

 一方通行で握っていた桜都の手がかすかに動いたのを感じる。

「桜都?」

唇からは、小さく僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。

「ん?」

「心臓移植は?・・・ん?野菜?冷蔵庫しまった?」

 これほどまでに胸を貫くほどの衝撃は今までの人生ではない。








 第十章  夢




      1


 止まっていた時計の針は進む続け、夜布団に入るのが楽しくなった。眠るときは愛する人のぬくもりに感謝し、目覚めの時は彼女の寝顔から希望の一日が始まるのだから。

 僕が時間を戻した時、設定した時刻は、二〇一八年。その時間の心臓は当然僕の物を使用していた。だから、桜都から貰った心臓は適切なタイミングで元の持ち主の場所に帰ったのだと僕は思っている。本当に優秀な蒸気時計だ。

 桜都は、よく『どっちの記憶かわからなくなることがあるの』と混乱することがあったようだが、共有できて良かったとも言っていた。僕が前回の桜都の話をする度に、なんだか元カノの話をされているような気もしていたから、だそうだ。

 恐れていた例のあの日は、もう来ることはなくなった。名前も言いたくないあいつは、僕たち二人に対する殺人未遂で刑務所にいるのだから。

 そして、僕の心臓の件だけれど・・・。案の定、病気は見つかった。前回より早く見つけられたものの、病状は同じ一途をたどり、桜都を心配させていた。

 だが一つ、安心材料もある。岳だ。

「ごめん、やっぱり俺、外科医無理だわ。凡ミスしてる自分が思い浮かぶ。人を助けるっていうより、犯罪者になっている自分しか思い浮かばない」

 珍しく自信をなくした岳から電話が入った。

「他に向いている専門あるんじゃない?」

「実は、そうなんだ。心療内科医になりたいんだ」

「うん。向いてると思う」

「え!本当に?俺のどこら辺が?」

「うーん、面白いところとか?ちょっと抜けてるところとか?かな」

「なんだよ。それ。ちょっと、桜都ちゃんに変わってよ」

 桜都にスマホを渡す。

「岳君、心療内科医になるの?声大きいから聞こえちゃった」

「そうそう。どう思う?」

「前から尊敬しているところは変わらないよ。岳君はいつも明るくて元気。優しくって相手の気持ちを想像して行動に移せる人でしょう?岳君は沢山の人を救えると思う。応援してるから」

「やっぱり、桜都ちゃん、最高。悠斗と別れて俺のお嫁さ・・・」

「はい、何?もう切るからな!」

「ごめんって!悠斗!」

 ふふっと笑う桜都に口づけをする。

「電話口でキスすんなよ。でさ、ここからが本題なんだけど、俺の知り合いでね、心臓外科医に詳しい人がいて、その人を紹介してもらえたんだ。親友が死にかけているから、今度お前の通っている病院で診察して欲しいって頼んである。めちゃくちゃ心臓移植のオペ数多いから、話聞いてみてよ」

「・・・ありがとう。岳」

「うん。任せとけ」


 前回の人生で経験していない日にちが刻々と過ぎていく。未知の未来が一年半経過し、僕たちを不安にさせていた。

 自分の体のためにペンションでの仕事は、仲山君にお願いする日が多くなっていた。その代わり二人の時間も多く取るようにしていた。万が一の未来は想像したくない。やり直してまでも叶えてあげたい夢はまだある。

「このクローゼットの星空大好き。どうやって作ったの?」

「筆で一個一個、蛍光塗料を塗っていくんだけど首が痛くて・・・。天井に塗るときが特にね。でも、桜都のためならこれ位全然苦じゃない。僕は、桜都が作ったサンキャッチャーが好きだな。あれ見つけた時の事は忘れられないよ」

「うん。まさかこんな未来があるなんてね。悠斗君、絶対あきらめないからね。待っていたらドナーが現れると思うの」

「うん。父親になるんだ。絶対死ねないよ。桜都、次の約束しようか」

「そうだなぁ。三人で旅行行く計画経てよう」

「うん、子連れだと遠い所は難しいよね。最近出来た温泉はどうかな?部屋に露天風呂付の所」

「いいね。それなら、ゆったり三人で入れそう」

 エゾリスの部屋のクローゼットの中、狭いベンチは、くっつき合うのにちょうどいい。最近さらに大きくなった桜都のお腹を冷やさないようにブランケットを掛け直してあげる。 

 手作りの星空は煌めき、僕らにエールを与えてくれているようだ。

 最近の僕らは、小さな服を買いに行っては、予定日までの日を指折り数えた。わくわくする日を過ごすことで、心臓が突然動かなくなる恐怖を拭い払っていた。

「桜都、どんな言葉だったら、分かってもらえる?」

 暗い中なら、甘い言葉もすらっと言えそうだ。

「もう伝わっているよ。悠斗君が私をいつも守ってくれたこと、その事実だけで、胸がいっぱい」

「よかった。僕も胸がいっぱい」

 顔を寄せ合った僕たちは涙が混ざり合っていた。

「やっぱり、足りない・・・」

 そうだよな。想定内だよ、と心の中で思う。

「この先もずっと、言葉で態度で示して欲しい。今まで通りに。じゃないと生きていけない」

「桜都・・・桜都の事が人生で一番大切。これからもずっと一緒に居て欲しい。絶対守り続けるから」

「うん、約束ね」

 僕の腕の中には大切な存在がしっかりとある。手に入れたくてしょうがなかった未来が今、目の前に存在している。お願いだから、どうかこれからもずっと続いてくれ。


 ペンション庭の散り紅葉、来年も見ようと約束した。

 雪が降ったら、かまくらを作りホットチョコレートを飲もうと約束した。

 未来の約束がたまっていく頃、幸運な知らせが舞い降りる。

 心臓移植が決定したのだ。

 しかも、岳の紹介してくれた名医が担当してくれる。

 気がかりは、出産予定日がもう三日も過ぎた桜都の事。子宮が肺を圧迫しているため、少し動いただけで息が上がって苦しそうだ。だから病院には来ないように伝えた。前回の苦い記憶もある為、彼女も納得してくれた。

「次会うときは、産まれてるかも」

「立ち会えそうになくてごめん」

「大丈夫。もっと痛い事二度も経験してるんだから。強いでしょ?私」

 もうすぐ母親になる彼女は、心底たくましい。

「宝物だよ、桜都」

「うん、宝物だよ」

 そう言って、僕は病院へ向かった。

 手術室の扉をくぐるとき、目覚めなかったらどうしよう、という恐怖はほとんどなかった。それよりも、ただただ生きなくてはという想いが強かったから。嬉しいことに守りたい存在がもう一人増えた。そして生きたくてしょうがなかった人の命をもらうんだ。その方にもご家族にも僕が精いっぱい生きることで感謝の気持ちを伝えたい。

手術が終わった後、集中治療室で聞こえた内容は、こうだった。

「元気な女の子が産まれましたよ。パパさん似だそうです。奥さんも元気です」

 よかった。まだ声が出ない。朦朧とする意識の中で、耳だけははっきりと聞こえる。早く会いたい。桜都とすずちゃんに。


      2


 アパートが手狭になって来た。壁には、娘と一緒にやったハンドペイントの絵や娘の写真が飾られ、リビングには僕らの両親からプレゼントされた大量のおもちゃが溢れかえっている。

「美月がね、近くに良い物件あるから紹介してくれるって。しかも美月パワーで駐車場代分は値引いてくれるって。今度見てみない?」

「そうだね。1LDKはさすがに窮屈だよね。子供部屋も作ってあげたいし」

「うん、すずの芸術作品も飾る広い壁も欲しいし」

 と言った彼女は、娘の方をみて表情が変わった。

 棚の上の新婚旅行の写真と三人で初めて行った温泉旅行の写真に手を伸ばし、危うくフォトフレームの角がまだ薄い毛でしか覆われていない頭を直撃しそうになる。

「いたーい!」

 娘の頭を必死に守った桜都が足の裏をおさえて蹲っている。あぁ、僕もこの間、経験したやつだ。

「大丈夫?痛いんだよね。そのブロック踏むと」

 涙目になっている彼女は、少々傷んだ髪の毛を結び直しながらこう続ける。

「悠斗君、なんか私、髪の毛がまだ抜け続けるの。産後一年も経つのに、まだお腹もぽよんぽよんだし、こんなんじゃもう女として見てくれないよね?」

「そんな訳ないじゃん。ちょっとこっち来なよ」

 化粧もする余裕のない彼女を膝にのせた。

「こんな可愛いすずちゃん、桜都が産んだんだよ。どれだけ感謝しても足りたいよ」

 さらに耳元で愛を伝えた僕に「私も」とささやいた彼女は、僕の首に腕を絡める。

 どんな彼女だって、可愛いと思えるのは、やっぱり心底愛しているからなんだと思う。

 しかも、すっぴんで身なりにもあまり気をつかう余裕がないのは当然だ。歩き出し、色んなものに興味津々な娘はいつ何をしでかすかわからない。大事な命を二十四時間守っているのだから自分の事は常に後回しだ。

「そうだ、お土産コーナーに置いてあった桜都の絵本の人気ランキング知りたい?」

「待って。当てる。きっとあれかな?『星のプレゼント』?」

「そう見せかけて、実は『小さな窓から』でした」

「あ、そうなんだぁ。嬉しいなぁ」

「英訳ものってるから、英語の勉強にもなるって結構売れてるんだよ。あと、嬉しいニュースがもう一個。聞きたい?」

「え、何?」

「桜都がいつかは出したいって言っていた絵本専門の大手出版会社から連絡あったんだ。自費出版じゃなくてうちで出しませんか?って。勝手にオッケー出しちゃったけどいいよね?」

「嘘―!」

 不思議そうな顔をして、まだ一歳の娘がママの頭を撫でる。

 横にいるパパも泣いているんだから、娘はきょとんとしていた。まんまるした可愛い娘と奥さん。こんな大事な存在は他にはない。

 罪悪感でいっぱいで、毎日眠るのが怖かった、あの時の僕に伝えたい。辛いのは今だけだと。こんなに穏やかで心が温かくなるような毎日が来るんだよ。願っていた以上の事が。

 ただ、自分だけでは、こんな人生はあり得なかった。色々な人に助けられて僕らがいる。その気持ちは、常に忘れてはいけないし、僕の体にも刻まれている。感謝しても、しきれ無いその人達のお陰で僕の人生はどんどん色が足され、形づいたのだ。

 そして、桜都がいなければ僕の人生は物語にすらならないのだ。いくらページをめくってもコピーだらけの定型文が並んだ余白だらけの物語。だけど、君の名前が入るだけで、感情が揺さぶられ深く考えたくなる文章が生まれるのだ。せっかく、時が四つの季節を運んで来たって、君がいなければ春の花色の美しさに気づくこともなく、雪の繊細な結晶まで見惚れることもなかった。ただ表面の情報が目の前を通り過ぎ、長くていつまでも終わらない時を過ごすだけだった。だけど君が隣にいてくれたから、夏の星もプレゼントしたくなり、秋の美味しい季節にお腹いっぱいにさせたくなる。僕の夢は無限に広がるのだ。

「ねぇ、もう一つわがまま言ってもいい?」

「ん?」

「ハルノトキ二号館を作りたいの。今は北海道の動物をモチーフにしているけれど、次は絵本の中にいるような世界をモチーフにしたい。沢山の季節を散りばめて、思わず『わぁっ』て声が出ちゃうようなそんなお部屋。そして、私の絵本も隅の方で良いから置いてもらえたらなって」

「そんなのわくわくするよ。桜都の絵本は、チェックインカウンターにも客室にもレストランにも置こうかな」

 満面の笑みで見つめてくる彼女の頭の中も無限の夢で溢れている。それを叶えるのが僕の役目であり楽しみなのだ。

 時間はいくらあっても足りそうにないな。



                                      〈完〉



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