水無月3
「どうしたの?」
男の人の声が降って来た。
道端にしゃがみこんでいた祢子は、びっくりして立ち上がった。
祢子の上に屈みこんでいたその人は、あわてて後ろに身を引いた。
ひげもじゃで、櫛も通していない伸ばしっ放しの髪。
着古したパジャマみたいなかっこう。
頭や肩に降りかかった細かい雨滴さえもふけのように見える。
不健康そうな青黒い顔色。
ちらっと見える前歯は黄色味を帯びていて欠けている。
見たことがある人だった。
通学路沿いにある小さい公園のベンチに腰かけて、ぼんやりと日向ぼっこをしている姿。
小学生たちはその横を足早に通り過ぎる。
「アル中のおじさん」とからかいながら。
「どうしたの? なにか、落し物?」
アル中のおじさんは、意外と優しいまろやかな声で、もう一度聞いてきた。
逃げ出そうと身構えていた祢子は、踏みとどまった。
財布のことをちょっと聞くだけなら、問題ないだろう。
ここは人や車がよく通る道だ。だれかが見ている。
ひょっとしたら、財布をこの人が拾ったかもしれないし、拾わなくても見かけたかもしれない。
とにかく、母さんに「財布、あったよ」と見せたい。
そうしたら母さんは、「二度と無くさないでね」と言いながら、快く家に入れてくれるだろう。
夕ご飯は、いつものようにおいしく食べられるだろう。
「お財布を、落として」
口に出したら、こんなおじさん相手でも、急に涙がにじんできた。
「どんなお財布?」
「黄色っぽい皮の、こうやってぱちんと開けたり閉めたりする形の」
「ふうん」
おじさんは、あちこち見回した。
「どこら辺に落としたと思う?」
「わからないけど、そこの小林商店から家に帰る途中で落としたと思う。お店の中には無かったし、おばさんも知らないって言ってたから」
「そうか。黄色いのなら、目立ちそうだね。
もっと暗くなったらわからなくなるから、早く見つけよう。
道のこっち側は、草むらが多いから、僕が見る。
ええと、きみは、そっち側をもう一度見て。」
手分けして、家に向かって、川を渡る橋の前まで探した。
ひとりで探している時よりは、ずっと楽な気持ちになった。
橋の向こうまでついてきてもらうつもりはなかったので、橋から折り返して、左右を交代して探した。
もう少しでまた小林商店に着く手前で、おじさんがアスファルトから地面に踏み込み、しゃがんで何かを拾い上げた。
「もしかして、これ?」
一番聞きたかった言葉。
祢子は、おじさんに走り寄った。
おじさんは、黄色いがま口をつまみあげて見せた。
「そこのお地蔵さんの裏にあったよ」
見落としそうに小さい木の祠の中に、もう顔も判然としない、赤いよだれ掛けをかけた小さな石のお地蔵さんが立っている。
祢子は、いやな予感がした。
「そんなとこ、通ってないもん」
湿って染みがついたがま口を受け取って、中を見ると、空だった。
「お金が入ってない……」
「誰かが中身を抜いて、お財布だけ捨てたんだね」
おじさんがつぶやいた。
「こんなの持って帰っても、母さんは……」
祢子は、こみ上げる悲しみのかたまりをどうすることもできなかった。
「残念だったね。……お母さんに、謝るしかないねえ」
そんなこと、わかってる。わかってるのに。
ひどい。もういい。
祢子は、空の財布を持ったまま、いきなり駆けだした。