霜月10
ある日、祢子が学校から帰ってきたら、庭のささやかな花壇が跡形もなくなって、きっちりしたまっすぐな畝ができていた。
おじいちゃんが豆を植えたらしい。
母さんが居間で寝転ぶことは、もうない。
おじいちゃんに、そんなところを見せたくないのだろう。
おじいちゃんは、書斎にいたり、居間でテレビを見ていたりする。
たまに散歩に出たりするが、どこかに寄るわけでもなく、すぐに帰ってくる。
「わしは若いころ、肺結核になって、右の肋骨の下半分は切除した。
おかげで、兵隊にとられずに済んだ」
おじいちゃんは、食事のたびに、その話をする。
アンダーシャツをめくって見せてくれることもあったが、祢子と健太にはどこがどうなっているのかよくわからない。
お茶で入れ歯を洗うのは、相変わらずだ。
もう祢子も慣れた。
まだ夕方の早い時間に、おじいちゃんは風呂に入る。
母さんはその後に湯を抜いて、湯舟を掃除している。
おじいちゃんは母さんには、あれをしてくれんか、とか、これをこうしてほしいと言いに来る。
母さんは、そのたびにはいはいと従っている。
父さんとおじいちゃんが楽しそうに話しているところは見たことが無い。想像もつかない。
下旬に入るころ、母さんが働きに出ることになった。
お茶屋さんの手伝いをするらしい。
「あんたたちが学校から帰るときにはまだ帰って来れないかもしれないけど、おじいちゃんがいるから。カギは開いているしだいじょうぶよ」
え~、と健太が渋ったが、母さんの意志は固かった。
祢子は、自分はもう六年生だし、母さんが留守なら自分ががんばろうと思った。
「ただいま」
いつものように勝手口から入ろうとすると、閉まっている。
そうか、今日から母さんは仕事だった。勝手口は閉めておくから、と言われたっけ。
仕方がないからぐるっと家の正面に回って、縁側から入る。
「ただいま」
「お帰り」
おじいちゃんが、父さんと母さんが据えたばかりのこたつに入って、テレビを見ながら返事をした。
居間にいるなら、勝手口を開けてくれてもいいのに。
祢子はテレビの前を横切って、そのまま二階に上がる。
手洗いやうがいなんか、するもんか。
健太は二階にはいない。健太の部屋をのぞいたら、ランドセルだけが投げ出してあった。
下にもいないようだったので、どこかに遊びに行ったのだろう。
宿題を始めようとして、おやつを食べ忘れていたことを思い出す。
そっと一階に下りて、コップに麦茶を入れようとすると、流しに食器が漬けたままになっている。
食器に残っていた油が水の表面に浮いて、他の食器にもべっとり付いていた。
母さんは、今日は二つ弁当を作っていた。父さんのと母さんのだ。
ついでに、おじいちゃんのお昼ご飯を、お皿に盛りつけておいたのだろう。
おじいちゃんはお昼にそれを食べて、そして、食器を流しにつけたままにしている。
自分はテレビをのんびり見ているだけなのに。
祢子は、むかむかしてきた。
でも、母さんなら。
おじいちゃんに食器を洗わせるなんて絶対しない。
黙って、食器を洗うだろう。
このままにしておいたら、疲れて帰って来た母さんが、食事の支度を始める前にこの食器を洗う事から始めなければならなくなる。
祢子はしぶしぶ食器を洗って、拭いて、片付けた。
麦茶とお菓子を食べながら、おじいちゃんにもおやつを、とは思った。
そこまですることはない。
おじいちゃんは、何にもしないのだから。
おやつくらい、自分で用意して食べればいいんだ。
祢子は、そそくさと自分だけ食べて、二階に上がった。