水無月1
学校から帰って、おやつを食べて、珍しく早く宿題にとりかかろうとして、祢子は、算数ノートが残り少ないことに気づいた。
「母さん、算数ノートがもう無い。宿題ができない」
母さんは、台所に立ってエプロンを着けながら、小言を言った。
「なんでもっと早く言わないの。今からだったら、まだお店が開いているから、自分で買っておいで」
「え~。あの、『小林商店』?」
ちょっとした急ぎの買い物で、祢子が一人で行けるのはそこしかない。
「そう。あそこなら自分で行けるでしょ」
祢子はしぶしぶうなずいた。背に腹は代えられぬ。
母さんは、たんすの小さい引き出しを開けて、がま口を取り出した。
中身を見て、顔をしかめている。
手元を素早く動かしてから、がま口を祢子に渡した。
「細かいのが無いから、お札を入れたけど。お金を落とさないように気を付けてね。
いい? 絶対お金を落としたりしないでよ」
「わかった。行ってきまーす」
祢子は靴を履いて、家を出た。がま口は、手に握りしめている。
川沿いの通学路を、学校に向かってどんどん歩いて行く。
途中で、細い道を左に曲がったら、右手に、ひっそりと古びた小さい店がある。
小林商店だ。
祢子は、どうかあの人がいませんように、と祈りながら、建付けの悪い木枠のガラス戸を開けた。
「こんにちは」
店の中はいつも薄暗い。
コンクリートの土間に低い陳列棚が二、三列並んでいる。
品数は多くない。
小学生が使うようなノートや鉛筆、消しゴム、鉛筆削り用のナイフ、物差し、それから駄菓子。
醬油ビンや砂糖や塩、ラップなどの日用品。
どれもうっすらと古びて、埃っぽく見える。
ノートも、なんとなく表紙の色が褪めている。
購買意欲が大いに削がれるのだが、仕方がない。
二冊しか残っていない、高学年用の算数ノートを一冊取って、店の奥に持って行く。
そこは小上がりの薄暗い和室で、こっちに背を向けて置いてある小さいテレビが、いつもぴかぴか光と音を出している。
たいていはおばさんが店番をしている。
おばさんがいない時は、奥に向かって大声を出せば、向こうの戸が開いておばさんが現れる。
今日はおばさんがいた。しかし、この家の息子らしき青年もいた。
祢子が恐れているのは、この青年だった。
青年は、和室にいるときはいつも変な姿勢で寝転んでいる。
薄暗い中で、不自由な長い手足を振りながら、あ~、とか、う~、とかいう声を発している。
おばさんは時々息子に疲れた声をかける。
乱れた髪の下の不機嫌な顔を客に向けて、不愛想に値段を言う。
おばさんが値段をつぶやいた。
よく聞き取れなかったが、お金は十分足りるはずだ。
祢子が五千円札を出すと、おばさんは小さく舌打ちをして、奥に引っ込んだ。
おつりが足りないのだろう。
あ~、と青年がうめいて、おばさんの背を目で追った。
それから、首を不規則に動かして、こっちに顔を向けた。
祢子は目が合う直前、さっと目を逸らした。
額のあたりに視線を感じる。
薄暗がりの中で光っている目が、祢子に注がれている気がする。
祢子の頬や耳は勝手に熱くなる。
おばさんが数枚の千円札を持って現れるまでの時間が、祢子には永遠に思われた。
おばさんからおつりを受け取り、がま口に急いで突っ込むと、祢子は店から逃げ出した。
怖い、というのとは違う。あんなに体の不自由な人が、こちらに何か危害を加えるなどできるはずがない。
あの人に、好意を持たれたらどうしよう。
祢子は、ひとりで青くなったり赤くなったりしながら家路を急いだ。