神無月6
母さんだって、今でさえ忙しいのに、おじいちゃんの世話まで増えたら、疲れ切ってしまうに違いない。
「母さんは」
イヤじゃないの、と聞こうとして、祢子はやめた。
祢子が嫌だと口にしたら、母さんに怒られるだろう。
母さんが、イヤだなんて言うはずがない。長男の嫁だから。
そういえば、このごろ、物や家具の位置がちょくちょく変わっていた。
父さんも、休みのたびに、書斎の物を出しては夫婦の寝室に移していたが、そういうわけだったのだ。
おじいちゃんと一緒に住みたくない。
でも、おじいちゃんも一人になって、さみしいのだ。
がまんしないといけない。
代休が明けると、席替えがあった。
祢子は、眼鏡があるから、と言って、みんなと同じようにくじを引くことにした。
田貫先生は、特に何も言わなかった。
そして、どういう心境の変化か、そりかわくんたちにもくじを引かせた。
祢子は、初めて一番後ろの席になった。
そりかわくんは、前から二番目になった。
そりかわくんが、ちらっと目で笑いかけてきた。
一番後ろの席から見る景色は、新鮮だった。
みんなの後ろ頭の向こうに、田貫先生が立っている。
一番前では、首が痛くなるくらい仰ぎ見ていたのに、ここからは普通の中年の女の人に見える。
どこにでもいるような、口うるさいおばさん。
先生のお説教も、一番後ろからだと割と平静に聞いていられる。
そして、この前も言ったことをまた言っている、とか、よく飽きずに同じことを何度も言えるものだ、とか思ったりする。
他人事みたいに。
大人たちは、先生の言う事をよく聞きなさいよ、と言う。
祢子は今までその通りにしてきた。
先生の言う事は全部正しくて、その通りにさえしていれば間違いない。
そういう意味だと思っていたが、ひょっとしてそれは、違ったのかもしれない。
みんなが何をしているのか、後ろからはよく見える。
机にいたずら書きしては消しゴムで消している子。
消しゴムのかすをまとめて丸めている子。
貧乏ゆすりする子。
髪の毛ばかりいじっている子。
やたらに、音をたてて教科書をめくる子。
小刀で鉛筆を削ってばかりいる子。
ぼーっと運動場を眺めている子。
田貫先生に注意されると、しばらくはやめるが、長くは続かない。
それでもいいのだ。
授業時間中ぴしっと姿勢を正し、一心不乱に先生を見つめて、先生の言う事全てを逃さないように耳をそばだてていなくても。
祢子は、先生に指名されて、初めて、わからないふりをしてみた。
「わかりません」
胸がばくばくした。
先生にはお見通しかもしれない。
先生は怒るだろうか。お説教するだろうか。なにかしら、罰を与えるだろうか。
先生は、はああ、とため息をついて他の人を指名した。
それだけだった。
祢子は、ぞくっとした。
怖い時のぞくぞくではなく、体の内から沸き立つ、快感に近かった。
先生は、失望した。呆れたかもしれない。
でも、それがどうした。
それだけのことじゃないか。
先生は次第に、はぶくんやはなさんをよく指名するようになった。
先生にとって、祢子は透明人間になった。
先生がどう思うだろう。
日々そればかり恐れていたのはなぜか。
祢子にはもうわからなかった。
田貫先生の一番でいるために。
祢子は神経を研ぎ澄ませて、先生の理想の生徒になろうとがんばっていた。
しかしそれは、そんなにがんばる価値があることだったのだろうか。
現に、先生は、祢子じゃなくても、はなさんでもいいのに。
先生の言う事を信じて、元気よくきびきびと従う生徒。
他の生徒にも、先生に従うように発破をかける生徒なら、だれでも。