神無月5
そういえば、去年、父さん方のおばあちゃんのお葬式があった。
父さんの郷里はずいぶん遠くの北国で、そこに行くまでには新幹線と特急列車と普通列車を乗り継いで、一日がかりの旅なのだった。
新幹線や特急の中では座席を向かい合わせにして、家族四人で駅弁やおやつを食べたり、トランプをしたりした。
眠くなったら、健太は母さんの膝を枕にして寝た。
祢子は隣が父さんだったので、座席を後ろに倒して寝た。
いくつもいくつもトンネルを通った。
暗い窓。
車内で買った温かいお茶の容器の向こうに、祢子の顔や父さんの横顔が二重に映っていた。
朝早く家を出て、お父さんの生家に着いたのは夜だった。
母さん方と違って、父さん方には滅多に来ることはなかったので、親戚の顔もよくわからない。
おじいちゃんとおばあちゃんにさえ、あんまり会った記憶が無かった。
小さいころは毎年行ったらしいが、小さいころの事なんてほとんど覚えていない。
おじさんやおばさんたちはとても優しいが、なにしろ方言がよくわからない。
二、三日くらいでは、とうてい方言には慣れないので、いつまでたっても打ち解けられなかった。
着いたその日は父さんに追い立てられるようにして、用意してあった部屋の布団にすぐに寝た。
次の日がお葬式で、おじいちゃんと父さんと母さんは、朝食を済ませるや否や、駆け付けてきたおじさんおばさんと一緒に忙しくしていた。
祢子と健太は、棺の窓を開けて亡くなったおばあちゃんの顔を見ようとして、父さんに止められた。
黒っぽい服に着替えたあとは、だれも祢子と健太を気に留めない。
きょうだいはなんとなくひっついて、立派な祭壇や写真や、ひっきりなしに出入りする喪服の人々をぼんやりと眺めていた。
おばあちゃんが亡くなるまで、おじいちゃんとおばあちゃんは豆腐屋をしていた。
家の横から湧き出す清水を使って、朝早くからおじいちゃんが豆腐を作るのだ。
自宅に続く、寒々としたコンクリートの床の工房に、大豆をふやかすステンレス製の大きな桶、ふやけた大豆を細かく挽く機械、煮る大釜、豆乳を絞る機械などが置いてある。
外は暗く、みんながまだ眠りをむさぼっている早朝から、大豆を茹でる甘い匂いが漂う。
おじいちゃんは、もうもうと立つ湯気の中で、ムキムキの腕の筋肉を盛り上げて、機械のハンドルをぐるぐる回す。
できたての豆腐は四角に切り分けられて、玄関わきの、たっぷりの水を張った大きいステンレスのシンクに放たれる。
朝から、近所の人たちが、ひっきりなしに豆腐を買いに来る。
おじいちゃんの豆腐は、おいしいと評判で、あっという間に売り切れる。
時々、おばあちゃんがその豆腐でがんもどきを作る。
潰した白い豆腐に、細かく刻んだ人参や干しシイタケやひじきなどを混ぜて丸め、油でこんがり揚げたがんもどきも、すぐに売り切れた。
豆腐のシンクを置いたコンクリートの土間から、少し上がった和室に、食卓のちゃぶ台が置いてある。
ガラス障子越しにお客さんに呼ばれると、正座していたおばあちゃんはすぐに立ち上がって応対する。
お客の多い時間は、おばあちゃんの席は温まる暇もないほどだった。
おばあちゃんがやっと食事できるころには味噌汁もご飯も冷たくなっていた。
朝が早いから、おじいちゃんとおばあちゃんには休息が必要だったのだろう。
祢子たちが会いに来た時も、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に、どこかに行った記憶もない。
父さんと母さんと祢子と健太で、近くの海や、お寺、観光地に行ったりして、帰る日までを過ごした。
そんな風だったから、はっきり言って、おじいちゃんもおばあちゃんもどんな人なのか、どんな人だったのか、まるでわからない。
父さんや母さんに聞いても、焦点のぼやけたようなことしか教えてくれない。
あるいは、父さん母さんにもよくわからなかったのかもしれない。
おばあちゃんは無口で我慢強く、優しく従順な働き者だった。
みんながそう言っていたから、たぶんその通りだったのだろう。
おじいちゃんは、気難しそうだったから、祢子はおばあちゃんにしか近づかなかった。
そのおじいちゃんと、一緒に暮らす。
正直、嬉しいとは思えない。
書斎をおじいちゃんに使わせたら、父さんはうちでどうやって過ごすのだろう。
家でのほとんどの時間を書斎で過ごしている父さんが、居間や台所をうろうろすることを考えると、祢子はもう気が滅入ってくる。
祢子と健太はきっと、今以上に怒られることになるだろう。
「手を洗いなさい」「勉強しなさい」「風呂に入りなさい」「静かにしなさい」「うるさい」
どこの家庭でも、父親とはこんな風なのだろうか。
父さんがいる時は、祢子も健太も父さんの視界に入らないようにしている。
一方は母さんと祢子と健太、もう一方は父さん。
書斎さえあれば、両方とも楽な気持ちで、一緒の家にいられるのに。