長月7
その口元に、見覚えのあるえくぼが踊った。
タエさんは、わざとらしく、祢子に軽くぶつかって、去っていった。
一難去ってまた一難。
よりにもよって、そりかわくんに見られていたなんて。
「あのおばさん、だれ?」
そりかわくんが、問い詰めてくる。
祢子はどうしたらいいかわからない。
そりかわくんは振り返って、タエさんの後ろ姿が小さくなったのを確かめた。
それから声をひそめて、
「お前、あのおばさんに弱みでも握られてる? 脅されていたろ?」
やっぱり聞かれていた。どこまで聞かれたのだろう。
タエさんの言葉に同調するのはいやだが、話を合わせるしかない。
「ううん、知らない人。向こうが勝手に勘違いしていただけ」
そりかわくんはため息をついた。
「……そうか。言いたくなけりゃ言わなくていい。
だけど、なんであんなおばさんが、お前みたいな子どもを脅すんだ?」
祢子は、カチンときた。
「あんただって、子どもじゃない」
「なんでそんなところに引っかかるかな。あのおばさんが悪い人だ、って言ってるんだよ」
祢子ははっとした。
そりかわくんとまともに話したことは一度も無かった。
いつも教室ではけんか腰だったし、道具係でもほんの短いやり取りだけだ。
だが、今、祢子の前に立っているそりかわくんは、いじわるそうでも皮肉っぽくもなくて、本当に祢子のことを心配しているようだった。
嫌われているとばかり思っていたが、助けてくれたし、もしかして自分は勝手に悪い方に思い違いをしていたのではないか。
本当はいいやつなのかもしれない。
「そうなの?」
そりかわくんは、おおげさにため息をついた。
「そうなのって、お前、大人と子どもじゃ、悪いのは九十九パーセント大人に決まってるだろ。
大人の方が強くてずる賢いんだから。
お前、なんにも疑わないんだな。馬鹿じゃないの?」
「馬鹿じゃないっ」
祢子は、感心しながらむっとした。
「馬鹿だよ。
お前みたいな世間知らずのちびに、大人を破滅させるような力があるわけないじゃん。
子どものせいにする大人なんて、ただの弱虫だ。弱虫じゃないなら、ずる賢い、悪人だ」
急に涙が出てきた。
そりかわくんに見られないように、祢子はあわてて横を向きながら、すばやく手の甲で目をぬぐった。
「ありがとう。助けてくれて。もう帰るね」
そりかわくんに背中を向けて、ちょっとだけ手を振った。
そりかわくんも、中途半端に片手を上げたのが目の端に映った。
「走って帰れよ」
「うん」
走り出しながら、祢子はつぶやいた。
タエさんの弱虫。
でも、トドさんはもっと弱虫だ。
土の中でじっと待っているなんて、アリジゴクとおんなじだ。
弱虫。
自分は動かないで、タエさんを寄越すなんて。
弱虫。弱虫。
家に帰り着いて、勝手口から入りながら、ふと疑問がわいた。
そりかわくんの家は、こっちの地区だったっけ? 学校の近くって聞いたような気がするけど。
ああ、そうか。
友だちの家に行く途中だったのかな。
自分は運がよかったのだ。たまたまそりかわくんが居合わせて。
そりかわくんがいなかったらと思うと、今さら怖くなった。