長月6
祢子は、にこさんの横にそっと行って、体育座りした。
「言い返さないの?」
にこさんは、びっくりしたように、細くて腫れぼったい目を上げた。
「なんで?」
「なんでって……あんな事言われて、腹が立たない?」
「なんで?」
変だ。
問う方と、問われた方と、立場が逆になってしまった。
「だって、わたしなら、腹が立って言い返すけど」
にこさんは、面倒臭そうに手を振った。
「気にしてないから」
「気にしてないって、あのまま言わせておくの? もっとひどいこと言い出すよ?」
にこさんの顔に、物憂げな、けだるい表情があらわれた。
その、疲れた大人の女のような表情に、祢子はひるんだ。
「言い返した方が、面倒なことになるよ。それに」
にこさんは、ちらとズルそうな笑みを浮かべた。
「ずんどう、って言われるよりはマシだし」
にこさんの目は、抱えた膝に隠れている称子の胸のあたりを見ていた。
優越感の混じった目だった。
何を言われたのか、とっさにはわからなかった。
じわじわと、裏切られたような、負けたような、悔しい気持ちが湧きおこって来た。
祢子は黙って立ち上がり、元の場所に座り直した。
ずんどう、くらい祢子も知っている。
マンガで覚えた。
祢子は初めて、自分のぺちゃんこの胸、くびれのない腰、棒のような手足を自覚した。
ずんどう。
みんなから、そう言われていたのか。
いろいろと、ショックだった。
リレーでは、アンカーが走り始めていた。
一組のアンカーはやさかくんらしい。なんと、二百メートルを一気に走るようだ。
やさかくんは、背が高くて足が長いから、足も速いのだろう。
二組はかいのくんだ。
背は低いが、とにかく足が速い。
いつもはクラスの問題児だが、こういう時は頼りになる。
やさかくんがリードしている。
二百メートル走り切って、先にゴールした。
一組では大喜びして、みんな歓声を上げて飛んだり跳ねたりしている。
かいのくんがタッチの差でゴールした。
二組の生徒たちは悔しがり、次は負けないと誓う。
ふとにこさんの姿を探すと、にこにこしながら手をたたいていた。
九月の終わりの日、道具係の仕事を終えて祢子は一人で下校していた。
「祢子さん」
名前を呼ばれてびっくりした。
前から、知らないおばさんが一人こっちに歩いて来ている。
空耳かとあちこち見回していたら、
「わたしですよ、タエですよ」
おばさんがまん前で立ち止まった。
タエさんって、こんな顔をしていたっけ。
疲れた、生気のない表情。
「あ……こんにちは」
なんとも気まずい。
あれ以来、祢子はトドさんと会っていなかった。
祢子がもじもじしていると、タエさんがさりげなく祢子の手を取った。
「今から、うちに来ませんか?」
祢子はびっくりした。
「いえ、もう帰らないと」
「坊ちゃんが、具合が悪くて大変なんです。
称子さんのせいですよ。称子さんが、ちっとも来なくなったから。
だから、ちょっとだけでも顔を見せてあげてください」
罪悪感が胸をかすめたが、祢子はなんとかがんばった。
「行けません。母さんが心配するから」
タエさんは全く動じない。
「ちょっとだけですから。ほんの十分、いえ、五分でもいいんですよ。さあ」
タエさんの声は穏やかだが、祢子は手が痛い。
手を引き抜こうともがいても、タエさんは見かけによらず力が強くて、びくともしない。
タエさんは悲しそうな目で見つめてくる。
「坊ちゃんは、一日中あなたの写真の前に座って、ため息ばかりついているんですよ。
土曜日になると、今日こそはと朝からそわそわして、ずうっと一日中待っているんです。
来ないと分かった時のご様子は、胸が痛むほどです。
日に日に食が細くなって、ほとんどしゃべらず、目ばかりぎょろぎょろして。
また以前のような状態に戻ってしまうのではないかと、わたしは心配で夜も眠れません」
タエさんの言葉の初めの方に、祢子はぎょっとした。
「写真って、なんですか? わたしの写真?」
「図書室にいるときに、坊ちゃんが撮った写真ですよ。ご自分で現像までされて」
祢子はぞうっとした。
気づかないうちに、写真を撮られていたなんて。
自分の写真をトドさんが見つめていると思うと、背筋がぞくぞくしてくる。
「坊ちゃんを正気に戻せるのは、祢子さんだけなんです。
わたしを助けると思って、さあ、来てください」
「行きません」
祢子は身体全体でもがいた。
タエさんは両腕で、祢子を抱え込んでくる。
「どうして。あんなに楽しそうにしていたじゃないですか」
「行きたくない。トドさんなんて、もう会いたくない」
「どうして?
あんなに優しくて学もあって、若くてハンサムで、おまけにお金持ちで。
会ってみたら、また気持ちも変わりますよ。
行きましょう、ね?」
「何してるんだ」
後ろから少年の声がして、タエさんは固まった。
祢子はそのすきにタエさんの手から逃れて、後ろを振り返った。
「そりかわくん?」
そりかわくんが、険しい目をして立っていた。
「そのおばさん、だれ?」
タエさんは、完璧にほほ笑んだ。
「ちょっと、知り合いの子に似ていたものだから……あら、勘違いだったみたい。
ごめんなさいね。さようなら」