葉月13
「いやあー!」
軽々と持ち上げられながら、祢子は手足を振り回した。
手当たり次第、触れたものを殴り、蹴り、思い切り爪を立てた。
「痛い痛い、祢子ちゃん、痛いよ」
オオカミではない、トドさんの声にはっとした。
動きを止めて見ると、祢子はトドさんの長い髪をわしづかみにして、ぎゅうぎゅう引っ張っていた。
「抜ける抜ける、はげちゃうよ」
祢子は手を離した。
すぐそこに、トドさんの困惑した目が見上げていた。
よかった、もとのトドさんだ。
ほっとした途端、涙がぽろぽろ出てきた。
「ごめん、ごめん、ちょっと怖がらせ過ぎたね。本当にごめん」
「まあ、坊ちゃん。何をなさったんですか。女の子を泣かせるなんて」
タエさんの声がした。
涙でぼやけた祢子の視界に、おやつのお盆をささげたエプロン姿が映った。
「鬼ごっこをしていて、ちょっと怖がらせてしまった」
「まあ、こんな大男に追いかけられたら、普通の大人だって怖いですよ。
それをまあ、こんな小さい若紫ちゃんにかわいそうなことを」
タエさんは、わたしの名前を憶えていないのだろうか。
色の名前?
「反省しているよ。今、謝っていたところ。ねえ、祢子ちゃん」
トドさんの笑った目が、目の前にあった。
小さい子どもみたいに、トドさんに抱きかかえられていたことに気が付いて、祢子はまた気が動転した。
「お、下ろしてください」
「はいはい」
祢子の足が、床に着いた。
トドさんの腕を振りほどこうと、身をよじった瞬間。
熱い息が、祢子のうなじにかかった。
ついで、何かがむにっとうなじに押し当てられた。
「味見」
トドさんがささやいて、にっと笑った。
何が起こったのだろう。
祢子の全身に、ぞわあと鳥肌が立った。
「赤ずきんに返り討ちされた、哀れなオオカミを、許して?」
呆然と立ち尽くす祢子の耳に、かすれたささやき声。
「おやつにしましょう」
タエさんが、何事もなかったように、テーブルにおやつや飲み物を並べ始めた。
かっと燃える頬や耳。
さっきのあれは、いったい何だったのだろう。
変に柔らかく湿って……。
身体が熱くなったり寒くなったりして、気持ちが悪い。
「あのう、もう、帰りたいです」
おやつなんて、そんな気分じゃない。
もう、トドさんと一緒にいたくない。
一刻も早く、ここを出たい。
「まあ、せっかく準備したのですから、どうぞ召し上がって。
喉が渇いているでしょう?
今日は、水ようかんですよ。
祢子さんがお好きだから、ちょっと遠かったのだけど、評判の和菓子店まで行って、買い求めてきたのですよ」
タエさんは、にこやかな笑みを浮かべて、すすめてくる。
祢子が立ったままもじもじとためらっていると、タエさんは、テーブルについたトドさんを見やった。
「まあ、坊ちゃん、頭が鳥の巣ですよ。それに、ケガをなさってますね」
タエさんの、あきれたような、心配するような声。
「鬼ってのは、楽な仕事じゃないのさ」
おどけたように、トドさんがこたえる。
タエさんはため息をつくと、ポケットから櫛とばんそうこうを出した。
トドさんに近づくと、櫛でトドさんの髪を整え、手の甲や髪の生え際のひっかき傷にばんそうこうを貼った。
祢子がつけた傷に違いなかった。
ああ、けがをさせてしまった。
ううん、自業自得だ。悪いのは、トドさんだ。
でも、トドさんは、たくさんのいいこともしてくれた。
たった一度、怖がらせたからと言って、怒って別れるのは、失礼ではないのか?
トドさんは、おとなしくされるがままになっている。
「はい、いいでしょう」
タエさんはうなずくと、櫛などをポケットに入れた。
震え出しそうなのをこらえて、祢子は席に着いた。
前に置かれた麦茶を一気飲みすると、タエさんがお代わりを入れてくれた。
高級な水ようかんなのかもしれないが、何を食べているのかさえも、よくわからなかった。
添えられた楊枝で大ぶりに切って、さっさと食べてしまうと、祢子はするりと椅子から下りた。
「ごちそうさまでした。ありがとうございます。もう、帰ります」
「送るよ」
トドさんも立ち上がる。
「いえ、大丈夫です」
「怖がらせてしまった罪滅ぼしに、送らせてください、お姫さま」
「また、いらっしゃいね」
タエさんの、明るい声。
祢子は一礼した。
トドさんの懐中電灯が、二人の足元をわずかに照らし出す。
後ろ手に差し出された手は無視して、祢子は目の前の服の背中をつかんだ。
地上の家の台所で、ちょっと待って、とトドさんが冷蔵庫を開けた。
「少し目が腫れているから……これで顔を拭いた方がいい」
泣いたことが母さんにわかるのは、まずい。
冷たい濡れタオルに祢子が手を伸ばすと、トドさんが祢子の目の前に屈みこんだ。
「自分じゃよく見えないだろう。拭いてあげよう」
自分でできます、と祢子は抗議した。