葉月10
それはそうだ。
そう言われれば、ぐうの音も出ない。
「たぶん、日記をためてるんじゃないかなと思ってね」
親切でしてくれたことだったんだ。
勝手に疑心暗鬼になっていたことを、祢子は恥ずかしく思った。
「……本当にそうですね。……ありがとうございます」
「ほら、メモの続き」
「はい」
トドさんが読み上げを再開する。
すっきりした気持ちで、祢子はまたメモを取り始めた。
「どう? 宿題は終わりそう?」
日記ノートを閉じながら、トドさんが聞いた。
「はい。あとは、家で日記を書きます。明後日は日曜日だし」
「そうか。……しばらく会えないね」
明日くらいは来られるだろう、と言われるかと身構えていた祢子は、トドさんのあっさりした様子に拍子抜けした。
でも、よかった。
今日はもう帰ろう。
その方がいいような気がする。
「本当に、ありがとうございます。
夏休み中、たくさん本を読ませてもらって、おやつまでもらって、宿題の手伝いまでしてもらって」
「もう帰るようなことを言うんだね。
まだ、帰らないだろう?」
トドさんは、からかうように言った。
祢子は困って、うつむいた。
「ええ? もう帰っちゃうの?」
トドさんは驚いた声を上げた。
「まあ、仕方ないか。日記がたくさん残っているもんねえ」
帰ってもいいのかな。
ほっとして顔を上げると、トドさんが祢子の方にずいと身を乗り出してきた。
「……でも、そしたら、一つだけぼくの頼みを聞いてくれる?
時間はあまりかからないから」
頼みって、何だろう。
いいよと答えてしまって、困ったことになるかもしれない。
でも、こんなにお世話になったのに、すげなく断るのは、恩知らずだ。
「鬼ごっこをしてほしいんだ」
トドさんは、恥ずかしそうにささやいた。
「鬼ごっこ?」
あんまり思いがけなくて、祢子はきょとんとした。
「ぼくは小さいころ体が弱くてね。
友だちがいなかったから、鬼ごっこもしたことがないんだ。
窓から見ていてうらやましくてね。
こんな大人が、恥ずかしいんだけど、鬼ごっこの相手をしてくれたら嬉しいな」
「そんなことでいいんですか?」
なあんだ。鬼ごっこくらいなら。
「してくれる?」
「はい」
「嬉しいなあ。
こんなこと頼めるのは、祢子ちゃんしかいないよ。
ありがとう」
トドさんが喜んでくれるなら、いい恩返しになる。
祢子も嬉しくなった。
トドさんは、にっこりしながら立ち上がった。
改めてトドさんを見上げると、圧迫感を感じるほど大きかった。
手も足も長い。
鬼ごっこ。
この手から逃げられるだろうか。
この歩幅に追いつけるだろうか。
いや、ちょっとしてみたら、とうてい相手にならないことは、トドさんにもわかるはずだ。
いっそのこと、早く捕まってしまえばいい。
祢子は不安を押し殺す。
「そうだ。ただ黙って追いかけるだけじゃ面白くないよね。
シチュエーションを変えて遊ぼう」
トドさんが、朗らかに提案する。
「シチュ……?」
「ごっこ遊びみたいにするんだ。
たとえば、そうだね。
今から、ぼくは凶悪犯。祢子ちゃんはそれを追い詰める刑事。
……ほら、なんだかやる気になるだろう?」
確かに、面白そうだ。「けいどろ」みたいだ。
「図書室の中だけですよね?」
ドアの外に出てもいいとなると、いつまでたっても終わらないかもしれない。
「そうだよ。
さあ、十数えて。
ぼくはどこかに隠れていなきゃ」
最初は祢子が鬼らしい。
「あ、それから、『ごっこ』だから、なりきったつもりでね。
セリフもつけなきゃだめだよ。毛野刑事」