葉月9
二十日は登校日だ。
久しぶりのクラスメートたちは、みんな真っ黒に日焼けしていた。
出席確認をした後、田貫先生にしては非常に短い話と連絡があった。
それから、終わった分の宿題を提出して、解散。
祢子は、夏休みの友を二冊と算数ドリルのノート一冊を出した。
久しぶりにかーこと下校する。
かーこは、夏休みになってすぐ、おじいさんおばあさんの家に泊まっていたらしい。
そこで一緒に遊んだ従兄がいかにカッコいいか、ということばかり熱心に話す。
祢子が飽き飽きしていることにも気づかない。
なんでも、「トシちゃん」によく似ているし、かーこにだけ特別に優しくしてくれるのだそうだ。
このごろテレビでよく見る、若い男の三人組。
「トシちゃん」がいいか、「マッチ」がいいか、「ヨッちゃん」がいいか、女の子たちは毎日のように論争する。
トリオが出る番組は必ず見る。載っている雑誌を買う。レコードやミュージックテープも買う。
ファンというのは、そこまでしなくてはならないらしい。
祢子は、誰がいいかと聞かれるたびに、面倒くさいので「マッチ」と答えるようにしていた。
熱烈な「トシちゃん」ファンの、はなさんににらまれないようにするためだ。
しかし本当のところ、素人っぽい、声の高い、ひ弱そうな若者たちに、なぜキャーキャー悲鳴を上げたり失神したりできるのか、全く理解できない。
「祢子は、好きな人とかいないの?」
またか。
みんな、同じことばかり聞いてくる。
「いないよ」
「ふうん、おくてなんだ」
かーこは、憐れんだ口調で決めつける。
祢子はむっとした。
そして、そのことに驚いた。
かーこは、また従兄の話に戻っている。
なぜ、腹が立ったのだろう。
祢子は、かーこに気のない相づちを打ちながら、考える。
「おくて」で何が悪いのだろう。
男の子にのぼせるなんて、馬鹿馬鹿しい。
時間の無駄だ。
ああ、そうか。
わたしは、かーことも、他の女の子とも、考えがまるで違うんだ。
違っていて何が悪い。
そうだ。
みんなと同じじゃなくても、わたしは気にしない。
周りの大人たちが気にしたとしても、わたしは全然気にならない。
誰にもわかってもらえなくてもいい。
わたしの心の中はわたしだけのものだ。
口に出さずにそう叫んだ時、祢子の内奥に、小さくも神聖な祢子がひっそりと産声を上げたのだった。
祢子は気が昂って、大きく武者震いした。
宿題は順調に片付いていった。
内容よりもスピード重視でやっつけた。
牛乳パックの鉛筆立ては、まあまあきれいにできたが、いざ鉛筆を立てると、鉛筆の重みに耐えかねてひっくり返った。
健太は牛乳パックにいろいろくっつけて、ティラノザウルスを作っていたが、これもすぐにひっくり返るしろものだった。
自由研究は、トドさんのところの図鑑を丸写しした。
読書感想文は、以前読んだ本のことを思い出しながら、あらすじをざっと書いて終わらせた。
残るは日記のみ。
夏休みはあと三日。
七月二十五日から書いていない日記帳を前に、祢子は頭を抱えていた。
すぐに思い出せるつもりでいたが、いざ書き始めようとすると、まず、天気がわからない。
そこで止まってしまうと、もう何があったかも思い出せなくなる。
いやそもそも、記憶なんて残っていないのかもしれなかった。
何日か跳ばして書けたらいいのだが、もちろん田貫先生の目はごまかせない。
トドさんちで何を読んでいたか、ということならすぐにでも書けるのに。
親も目を通すかもしれないものに、そんなことは書けなかった。
「トドさん、どうしたらいいと思いますか?」
思い余ってトドさんに相談すると、トドさんはにやっとして、図書室を出て行った。
間もなく、分厚いノートを持って戻って来た。
「天気とか、ぼくがメモしていたことが参考になるかもしれないから」
「トドさん、日記をつけてるんですか?」
助かった。よかった。
「うん」
トドさんが、ノートを開いた。
「何日から? 七月二十五日? ……ずいぶんためたねえ。
……ええと、晴れ。祢子ちゃんはこの日、午前中はポートボールの練習。午後はここ。
……いや、ここのことは書けないから、午前中だの午後だの、書かない方がいいかもね。
ポートボールの練習のことだけにして」
「はい」
祢子は、トドさんが読み上げることを、とりあえずメモすることにした。
後でメモを頼りに、書いたらいい。
明後日三十一日は日曜日だから、ここには来られないし。
「二十六日は、晴れ。
土曜と日曜は、ポートボールの練習は休みだね。お昼まで近所の子と川遊びをした」
「二十七日は、晴れ。お父さんと海に行った。八月三日もね」
………………
一日も欠かさず、トドさんは次々に読み上げていく。
必死にメモしていた祢子は、だんだん違和感を覚えてきた。
確かに、おやつの時や、帰りに玄関先まで送ってもらう時、その日のことを、軽い気持ちでトドさんに話したことは、よくあった。
でも、だからといってそれを全部、自分の日記につけるものだろうか。
たとえば祢子だって、誰かと遊んだら、そのことは日記に書くだろう。
でも、自分の事でもないのに、遊んだ相手の一日の行動までは、いちいち書かない。
ふつうは、そうじゃないのかな。
気が付けば、白い壁紙の図書室は静謐で、トドさんの声は柔らかく吸い込まれていく。
天井のあちこちに埋め込まれた人工の明かりは、しらじらと隈なく照らしている。
誰かが教室に持って来た、蝶の標本箱がふと頭に浮かんだ。
白く浅い箱の中に、羽を開いてピンで留められた、死んだ蝶たち。
自分の鼓動が、急に大きく響き始める。
祢子は手を止めて、トドさんを見つめた。
広い額に前髪がはらりとかかっている。
浅黒い、端正な横顔。
トドさんって、こんな顔だったっけ?
親切ないい人と思っていたけれど、身内でもないのに、なぜこんなに親切なのだろう?
ひょっとしたらわたしはなにかひどい勘違いをしていて、最後の答え合わせで……
「ん? どうしたの?」
トドさんが祢子の様子に気が付いて、読み上げるのを止めた。
「……なぜそんなに、わたしのことを日記につけているんですか?」
「祢子ちゃんの役に立つんじゃないかと思って。実際、こうやって役に立っただろう?」