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あをノもり  作者: 小野島ごろう
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葉月3

 「負け犬」という言葉に、祢子はどきんとした。




 いつのことだったか。

 夜トイレに起きた時、父さんと母さんが言い争いをしていた。



「どうせおれは負け犬だよ」



 父さんの投げやりな言葉。


 母さんが涙交じりの叫び声で、何か言い返した。

 母さんからあんな声が出るなんて、ショックだった。



 隠れて聞いていた祢子は、そうっと自室に戻った。

 聞いてはいけないものを聞いてしまったと思った。


 その後、しばらく父さんの顔も母さんの顔も、まともに見ることができなかった。





 いやな言葉だ。

 薄汚れて、どろどろして、みじめで。



 雨にぐっしょり濡れた、みすぼらしい犬。

 しっぽを巻いて、ケガをかばいながらとぼとぼ歩く。

 土管の中に隠れ、わずかな物音にもおびえながら傷をなめている。



 祢子の頭には、そんな光景が浮かぶのだ。




 トドさんが、そんな言葉を使うのは本当にいやだった。


「負けたって、トドさん、何に負けたの? 勝つって、どうなったら勝ったことになるの?」



 思い切ってトドさんに聞いてみた。



 トドさんは、虚を突かれたように、祢子を見つめた。




「だって、トドさんは、立派なおうちもあるし、すごい図書室も持ってるし、お手伝いさんもいるし、働かなくても好きなことをしていられるんでしょ。

普通の大人は、そんなものが欲しいから一所懸命働くのに。

これ以上、何が要るの?」



 うーん、とトドさんは腕組みをした。



「うちはお金がないない、って、いつも母さんが愚痴を言っている。

父さんが出世してくれればねえって。

……父さんはどうして出世できないんだろう。

あんなに勉強しているのに。いい大学も出ているのに」



 話しながら、祢子の声は震えてくる。



「父さんがトドさんみたいにいろいろ持っていたら、もうなんにも欲しがらずに、会社も辞めて、好きな勉強ばっかりしていると思う」



 何かがのどにこみ上げてきて、もうしゃべれなくなった。



 こんなの、ひがみだ。

 うちが貧乏だからって、トドさんに八つ当たりするなんて。



 みっともなくて、恥ずかしくて、今言ったことを全部、取り消したい。




「そうなったら、祢子ちゃんのお父さんは完全に満足するのかな。

するかもしれないね」



 トドさんは、いつもの口調で、ゆっくりつぶやいた。

 うつむいていた祢子は、ちょっとほっとした。


 よかった。

 怒っていないみたい。



「物やお金を持っているだけでは、人間は満足できないんだよ。

祢子ちゃんのお父さんは、ぼくが持っていないものを、たくさん持っているよね。

ぼくが欲しくてたまらないものを」



 祢子は、顔を上げて、不思議そうにトドさんを見た。



「みんな、ないものねだりなんだね」

 トドさんはそう言って、さみしそうに笑った。








 ポートボールの校区での試合は、予想通り、一回戦で負けた。


 勝ち上がった他のチームを横目に、祢子は久しぶりに会った友だちと小学校の運動場で遊び回った。


 雲梯、鉄棒、タイヤ飛び。


 途中で大人がやって来て、怒った。

「みんなが一所懸命に試合しているのに、遊ぶとは何事か。静かに応援しなさい」


 気まずくなった祢子たちは、閉会式までの時間を木陰に座り込んで、絵を描いたりおしゃべりしたりしながら過ごした。





 


 日曜日は父さんがいるので、さすがにトドさんちには行けない。


 父さんは、たまに海に連れて行ってくれる。



 

 父さんと健太と三人で、自転車をこいで駅まで行く。


 父さんが券売機で切符を買って、祢子と健太に渡す。

 駅員さんにはさみを入れてもらって改札を通り、ホームで電車を待つ。



 電車の中では座席に座らせてもらえない。

 つり革や手すりにつかまっても父さんに怒られる。


 祢子も健太も、電車が揺れるたびに父さんにしがみつく。

 父さんは足を開いて踏ん張っているが、大きい揺れには、たたらを踏むこともある。

 そのたびに祢子と健太は投げ出されそうになる。




 海水浴場までは、三駅だ。




 海水浴場に着くと、「海の家」に入る。


 広い畳敷きの部屋があるが、そっちには上がったことはない。


 男女別の狭い更衣室があって、そこで着替える。

 荷物はコインロッカーに入れる。



 更衣室の外で父さんや健太と合流すると、海に向かう。



 裸の腕や首筋や背中が焦げそうに熱い。

 サンダルの爪先が砂にもぐって熱い。

 強い潮の香と、波の音がする。



 大人も子どもも、たくさんの人々が砂浜や海の中にいて、わいわい楽しんでいる。

 視界いっぱいに、水着や浮き輪やパラソルなんかが、ちぎった色紙を撒いたみたいだ。




 波打ち際は、海水がぬるい。

 アオサがたくさん流れ着いている中に、すいと小魚が泳いでいたりする。


 祢子は漂流物になる。

 波打ち際に横たわって、打ち寄せる波に転がされてみる。


 ちっちゃい白波が、砂をかむ。

 体の周りで、細かい砂がえぐれて、波を金色にまぜっかえす。

 透き通った緑色のアオサは、つるつるして温かく、祢子と一緒に波のまにまに揺れている。




 波と砂の感触をしばらく楽しんでいると、父さんが「ついてきなさい」と言う。




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