葉月2
じゃあ、どうして、楽な格好をやめたのだろう。
「じゃあ、どうして」
そのまま問いかけようとして、祢子はやめた。
トドさんが、じっと祢子を見つめていた。
宗方コーチに似ているかも、と思ったこともあったが、やっぱり違うみたい。
あんなに、断固として、頼りたくなるような、まっすぐな強さは感じられない。
強くないのではない。
別の強さというか。
うねうねと絡みつくような。
目が合うと、なんだか、とても居心地が悪い。
背中がもぞもぞして、逃げ出したくなってくる。
でも、トドさんは、親切で優しいし、本を読ませてくれる。
本のことでも、他の事でも、いろいろと話しができるし、それはとてもおもしろくて楽しい。
祢子の周りには、こんな人はいなかった。
『エースをねらえ』の中で、気になったことを、トドさんに聞いてみたことがあった。
「『女というのは、すぐれた男から時をかけて大切に育てられなければ、決して道を極めることができない』ってあるけど、そうなんですか?」
本当にそうならば、祢子は道を極めることができないだろう。
どんな道であれ。
だって、そんな男の人は身近にいない。
祢子が自分で探さなければならないのだろうか?
岡ひろみみたいに、あっちから勝手に見つけて、育ててくれればありがたい。
でも、そんな都合のいいことが、祢子にも起こるだろうか?
祢子が指さしたマンガのページをのぞきこんで、トドさんは苦笑した。
「まあ、そういう意見の人もいるだろうね。気にしなくてもいいよ」
「大人はみんなそう思っているんじゃないんですか?」
祢子は、びっくりした。
「いいかい、祢子ちゃん。
みんなが読むような本やマンガに書いてあるからって、誰もかれもがそういう意見とは限らない。
違う意見を持っている人もたくさんいる。
まあ、それをはっきり言うか言わないか、言わない方がいいと思えば黙っているだろうね。
でも、何にも言わないからといって、同じ意見とは限らないだろう?」
「はい」
「黙っている人ってのは、意外と恐ろしいもんだよ。
敵か味方か、まるっきりわからないから、予測が立たない」
なんだか難しくなってきたので、祢子は黙っていた。
トドさんも黙って考え込んでいた。
トドさんの麦茶のグラスが汗をかいていた。
またある日のこと。
おやつに出されたアイスクリームの紙製のカップをまじまじと見ていたトドさんが、ため息をついた。
「祢子ちゃん、見てごらん。
いくらこそげるようにして食べても、アイスクリームは少し残ってしまう。
そして、それはカップと一緒に捨てられてしまう」
「はい」
トドさんが傾けて見せたカップには、たしかに溶けたバニラアイスが、匙半分くらい残っていた。
トドさんの食べ方は上品で、とてもこそげるように食べているとはいえないから、どうしても残ってしまうだろう。
祢子の方が、残りは少ない。
トドさんは、そんなにアイスクリームが好きなのだろうか。
最後のひとしずくも残したくないくらい。
祢子が戸惑っていると、
「お釜にこびりついたご飯粒。
皿に残ったかつお節やしょうゆ。
瓶にくっついた中身。
おいしく食べてしまったものと同じものだったはずなのに、残ったものはあっさり捨てられる。
そして、だれもがそのことに無関心なんだ」
トドさんが言っているのは、たぶん、食べ物がもったいないということではないのだろう。
それは、祢子にもなんとなくわかった。
でも、なんと答えたらいいのか、全くわからない。
「ああ、ごめんね、祢子ちゃん。変な大人だね」
祢子は、首を横に振った。何か気の利いた答えができればいいのに。
「……ぼくは、捨てられた側なのさ。
負け犬なんだよ。
……また困らせちゃったね、ごめんごめん」