葉月1
夏休みの朝は、六時過ぎに起きる。
ラジオ体操カードを首から下げて、近所の空地に行く。
六時半からのラジオ体操の曲が鳴り響いている。
眠い目をこすりながら、だらだらと集まった子どもたちは、いい加減に腕を振り回す。
ラジオ体操は、第一と第二がある。
第二体操の、ゴリラのような動きの時は、みんなクスクス笑ってふざけて、大人に怒られる。
最後の深呼吸が終わったら、当番の大人の前に我先にと並んで、カードにハンコを押してもらう。
その時に、遊ぶ約束を交わしたりする。
ラジオ体操から帰ったら、朝ご飯を食べて、また同じ空地に行く。
女子のポートボールの練習があるのだ。
そもそも女子の人数が少ないし、コーチがいるわけでもないので、パスやシュートの練習をなんとなくして、一時間過ぎると解散する。
八月の中旬にある校区大会には、隣の地区と合同チームを結成して出場することになっている。
だが、合同チームとしての練習は、大会前に一回しかない。
要するに、弱小チームなのだった。
祢子は背も低いし動きも鈍いので、下級生にさえも当てにされていない。
しかし、六年生だから、下級生の手前、練習をサボるわけにもいかない。
弱小チームなのは、正直ありがたかった。
一回戦で敗退したら、その後は、練習しなくて済む。
家に帰ると、祢子は座敷で少しうたたねする。
座布団を二つに折った上に頭を載せて、畳の上に大の字に寝転ぶ。
母さんに見つかると、お行儀が悪いと小言を言われるが、気にしない。
開け放したふすまとその向こうの窓から、すこうし風が流れてくる。
蝉の声を聞いているうちに、祢子はすうっと眠りにさらわれていく。
地区の小学生たちで、学校のプールに行く日もある。
近所の空地に集合して、プール当番の大人にプールカードを預ける。
大人に前と後ろを挟まれて、上級生も下級生も入り交じり、おしゃべりしながら学校までぞろぞろ歩いていく。
前もって、服の下に水着を着ているので、狭くて薄暗い更衣室では服を脱ぐだけだ。
プールバッグに服をつっこんで、水泳帽をかぶる。
きゃあきゃあ大騒ぎしながら冷たいシャワーを頭から浴びると、熱いプールサイドでいい加減に準備体操して、水に飛び込む。
冷たい水しぶき。
子どもたちの大声。
カルキ臭い水は、ゆらゆら青く揺れる。
背の低い下級生や、引率の大人に連れられてきた幼児は浅いプール。
上級生は深いプール。
祢子はつま先でやっと底に触れるので、水の中で立つときはジャンプする。
ビート板を使ったり、底まで潜ったり、水を掛け合ったり、泳ぐ競争をしたり。
プールの底でカレイのように泳ぐと、ざらざらした青い底は静かで、切れ切れの光の網の中でゆったりと揺らいでいる。
祢子は、突き出た部分が多すぎる、泳ぎの下手な人魚。
いつまでも潜っていたら、魚になれるだろうか。
耳に水が入ると、頭を傾けてけんけんする。
それでも水が取れない時は、熱いプールサイドに耳をつけると、じわっと水が逃げていく。
鼻の奥に水が入ると、目の奥までツンと塩素の臭いが突き抜ける。
休憩時間にはバスタオルを肩から掛けてプールサイドに座る。
冷え切った体が強い日差しにぬくめられていく。
プールサイドにできた水たまりは、お湯になっている。
時間になると、また大人にはさまれて帰る。
子どもたちは、帰りは黙々と歩く。
濡れたままの髪の毛は少しずつ乾いていく。
肌は薄ものがまといついているような変な感覚がする。
頭にはもやがかかっている。
山水が染み出てできた水たまりに、アオスジアゲハが群がっている。
夏休みのお昼は、たいていそうめんかおにぎりだ。
祢子はそうめんが苦手なのだが、そう言ったところで何も変わらないので、あきらめて食べる。
おにぎりの時は、健太と競争して、母さんに呆れられるくらい食べる。
母さんが握ったおにぎりは、ふんわりして、塩味がちょうどよくて、しなっと貼りついた海苔さえおいしい。
昼から何もない日は、昼食後の片づけを手伝ってから、祢子は家を出る。
母さんはいつも昼食後にお昼寝をする。
「遊んでくるね」と言えば、「遅くならないようにね」と寝ぼけ声で言われるだけだ。
そのくらいに出ると、トドさんちに着くのが一時くらいになってちょうどいい。
トドさんは、お昼を地上の家のダイニングで食べて、そのまま祢子を待っていてくれるようになった。
トドさんと一緒にトンネルを行くのは心強い。
トドさんの図書室で祢子は、手当たり次第目についたマンガや本を読みまくる。
途中で、タエさんがおやつを持ってきてくれる。
タエさんは親切だが、丸テーブルにおやつを置いたらすぐに行ってしまう。忙しいのだろう。
本を読ませてもらう上におやつまでいただくのは気が引けるが、トドさんは祢子の遠慮を笑い飛ばす。
おやつを食べる間、祢子はさすがに本は脇に置いて、トドさんと話をする。
「トドさんは、お酒じゃないんですか?」
トドさんがいつも麦茶を飲むので、思い切って尋ねたことがある。
いつも椅子一つ隔てて隣に座るトドさんは、にやっと笑った。
「ぼくは、下戸なんだ。
下戸、ってわかる? わからないよね。
お酒が飲めない人のことだよ」
「え、じゃあ、どうして?」
どうしてアル中と言われていたのか、と聞きたかったが、遠慮した。
「ちょっと人嫌いになっててね。
誰とも話したくなかったんだ。
で、寝間着を着替えるのをやめて、髪とヒゲを伸ばして、一升瓶を横に置いていたら、自然と人が寄り付かなくなったんだ」
それはそうだろう。
以前のような姿のトドさんには、だれも近づこうとしなかった。
「それでずいぶん楽になったよ」