皐月3
「ほうら、おしりぺんぺん!」
おしりを向けてたたいて見せる健太に、祢子がもう一度手を伸ばそうとしたとき。
「ただいま」
がらっと玄関の戸を開ける音と、野太い声がした。
「おかえりなさい」
健太がそっちにむかって声を張り上げながら、祢子を見た。
「おかえりなさい」
祢子も声を上げて、そそくさと洗面所に駆け込んだ。
仕方ない。一時休戦。
手を洗わないと、怒られる。
しまった、ランドセルを居間に置いたままにしている。見つかる前に片付けないと。
重い足音が廊下を近づいてくる。
ダイニングの蛍光灯の下に、熊太が姿を現した。
小柄だが肩幅が広くがっちりした体格をしている。
熊太は、ワイシャツとステテコ姿だ。
スーツやネクタイは既に脱いで、玄関わきのタンスの取っ手に掛けてきている。
「おかえりなさい」
母さんが、フライを山盛りにした大皿をテーブルに置きながら、父さんに声をかけた。
父さんは黙ったまま、祢子と入れ違いに洗面所に入った。
ワイシャツと靴下を脱いで洗濯籠に入れて、風呂場で足を洗う。
足ふきマットで足を拭くと、洗面所で手を念入りに洗い、長いことうがいをする。
その後でないと、父さんは口をきいてくれない。
その間に、祢子と健太は我先に、しかし足音を忍ばせて、ランドセルを二階の自室に持って上がった。
ダイニングに戻った父さんは、何食わぬ顔で戻って来た祢子と健太に、怖い顔を向けた。
「宿題は終わったか?」
「あれ、これからご飯なのに、お父さん。さあ、温かいうちに食べよう」
母さんが父さんに言った。みんな急いで食卓につく。
魚のフライがいい匂いを立てている。千切りキャベツに、野菜スープ。
ほかほかご飯に、母さんが漬けたぬか漬け。今日は、キャベツとニンジンか。
「今日は、近所の魚屋さんに行ったら、もう遅くて小魚しかなくて。
サヨリだけ残ってたから、それを全部、三十匹くらい買ってきたのよ。
安くしてくれたけど。
それを午前中いっぱいかかって、三枚に下ろしてフライの衣をつけたのが、これ」
母さんの声は、食卓を明るくする。
「さて、サヨリ三十匹でいくらにしてくれたでしょう?」
「五百円?」と祢子。
「三百円?」と健太。
母さんはにこにこしている。
「え~、いくら?」「教えてよ」
祢子と健太が口々に聞くと、
「二百円!」
「え~、すごい!」
母さんは、すごいのだ。魚屋さんも、肉屋さんも、八百屋さんも、母さんの顔を見るとにこにこして安くしてくれるのだ。
「いくらでもいいじゃないかね、そんなの」
父さんが不機嫌な声をかぶせた。
とたんに、楽しい気分が吹っ飛んでいく。
「今日さ、学校で先生が……」
健太が話しかけると、
「健太、お前は、男のくせに口数が多すぎる。黙って食べなさい、黙って」
母さんが、子どもたちに目くばせする。健太はしぶしぶ黙る。
父さんは一番に食べ終わって、ごちそうさまと言うと、書斎に行った。